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第三十六話 嘲笑

少し長めです。

隠された通路の出口が見えた。そこに至るまでの道のりは決して長くは無く、そして何かがあるといった事もなかった。

ぎぃ…と言う蝶番(ちょうつがい)の錆びた音がし、出口の扉が開かれると、そこはアビゲイルの居室…王妃の間であった。



「さあ、ルビー。ここにいらっしゃいな。ああ、ガープ。温かいお茶を貰える?この子はまだ体調がよくないみたいなの」


「わかりました。ではすぐに用意しますね」



ガープと呼ばれたアビゲイル付きの侍女は笑みを浮かべて、いそいそと部屋を出て行った。きっとお茶の用意をしに行ったのだろう。だから気付くことが出来なかった。去る間際、彼女の口許が醜く歪んだ事に。


ルビーは手持ち無沙汰な格好で夜着の裾を握り締めていたが、それに気付いたアビゲイルにそっとガウンを着せられ、柔らかな椅子に導かれた。そして、昔のようにルビーの華奢な身体を抱き締めるように座り、背中を撫でた。

記憶にあるのと寸分違わぬその仕草に、今まで溜め込んで来た色々なものが涙となって溢れだす。泣き出した彼女を宥めるように、アビゲイルはその骨ばった背中を撫で続けた。



「お…お姉さま…これからアールマティ様とシャリヴァー殿下はどうなるの?それに…私、ヴァシュヌに帰りたい…。お父様とお母様に…お兄様にも会いたい…」


「ああ、ルビー。そうよね…辛いわよね…」


「何故王は私をここに留め置くのですか、私は何の役にも立たないと言う事がすぐにわかったでしょう。それなのに、何故…っ」


「私に陛下の決めた事に口を出すことは出来ない。陛下が何を考え、何をしようとしているのか…。それを阻止する手立てがないの…」


「そんな…っ!私は何故ここにいるのですか!一体何の為に!!」



嗚咽にまみれたルビーの声が王妃の間に響く。それを聴くアビゲイルの心はあくまでも凪いだまま。

マルスがどうのこうの言う前に、何事にも自分が先立って考えている。政務の事ではマルスが決定を下し、アビゲイルがその相談役であるのだが、今やアビゲイルはマルスを追い越して影の決定者のような形を取っている。それを他の官僚達に黙認させたのは当のマルス本人。本人はその自覚は無いだろうが、すでに官僚達はアビゲイルの手に落ちている。

その為、ルビーの件に限っては一切口を挟ませたことはない。マルス以下、官僚達もアビゲイルの決定に従ってもらっているのだ。立場上、マルスがルビーの処遇を決めているように見えるが、巧妙に隠された内情は全く違う。今やカーン王国の実権を握っているのはアビゲイルで、マルスではない。

だから、ルビーが今の様に苦しい立場へと追い込まれたのは、全てアビゲイルの意思であり、それを覆すことは誰にも出来ない。


その事を知らないルビーは自分の辛い状況を必死にアビゲイルに懇願するが、それを聞き入れては貰えない事がわからない。まさか自分の境遇を作り出しているのが、敬愛すべき姉だとは考えも付かないし、ありえないことだとばかりに考えにも及ばない。

それがルビーの状況を更に追い込んで行くことがわからぬままに。



「帰りたい…私…国にかえりたいぃ…」



声が枯れるほど泣いたが、それでもまだ涙は次から次へと溢れ出てくる。呼吸すらままならなくなったところに、カチャカチャと茶器の音を響かせたガープが戻って来た。コポコポと湯気がたゆっているのを泣き濡れた顔でぼーっと見ていると、柔らかな布で目元を拭かれる感触がした。拭ってくれたのは苦笑したアビゲイルで、自分の顔が酷いことになっているというのは事の他簡単に考えが付いた。



「可愛い顔が台無しよ、ルビー。さ、お茶の用意が出来たみたいよ」


「…可愛くなどないです…。私はお姉さまのように美しくなりたかった…」


「まあ…」



そう言ってガープに差し出されたお茶を受け取り、ルビーの手にしっかりと修めさせた。泣きつかれて疲れている身体は、思いのほか冷えていたようで茶器から伝わる温かさがじんわりと染み入るようだ。具合も余りぱっとしない。アビゲイルに会えた嬉しさから、多少の無理をしても大丈夫だと自己判断を下していたのが良くなかったらしい。それでも身体はだるくないし、きっと少し休めば大丈夫だろう。昨日からアールマティらの事に気を使い、ほとんど休めていなかったルビーがちゃんと休めれば、の話だが。


姉から差し出されたお茶を素直に一口飲む。

美味しい。

この国に来てからこういったお茶の類は飲んでいなかった。嗜好品はおろか、日々の食事すら事欠くようなルビーは、ヴァシュヌでの生活を懐かしく思うと同時に恥ずかしくも思った。あれだけ慈善活動をしていても、やはり飢える人は存在する。ヴァシュヌは平和な国だと誰もが言うけれど、飢えない人がいないわけでもないし、孤児だっている。いくらルビーが心を砕いても、実際に統治しているのは領主達や地主達で目の届かないところも多数あると聞いている。自国に戻れるというような事があるのならば、そういった貧困対策を今度はちゃんとやっていきたい。皇女としてやれる事を最大限に生かし、国に慈愛と救済を。それが王家の人間に生まれた責務である。

皮肉にも、カーンに来て実際に体験をしたからこそ、飢えと寒さが恐怖だとわかった。人から蔑まれ、無碍にされ、取るに足らない人間だと自らも思う、その力の強さ。

そういった全ての事を撥ね退け、真に自由であり、他者に優しく、自分には厳しくもどこまでも忠実だと思えるような人間になりたい。そう思う。



お茶を飲むルビーを見ていたアビゲイルが口を開いたのは、丁度そういった考えが一区切りをつけたところだった。



「ルビーは、私のようになりたかったの?」


「え?ええ、だってお姉さまはいつもお優しいし、なによりもお美しいですもの。お姉さまは私の憧れなんです」


「憧れ?」


「いつも凛として、華やかでありながらも慎ましく。それでいて艶やかで。ヴァシュヌにいたときからお姉さまは殿方の華でしたわ」


「…へえ…」


「ほら、覚えていらっしゃいますか?ラッセル子爵!あの方は特にお姉さまに熱心でいらしたでしょう?」



ラッセル子爵は、ヴァシュヌの貴族の一人であるジェンキンス伯爵の息子で、放蕩息子の名高い男だ。そんな男に目をかけられたアビゲイルであったが、その好色な目からいつも逃げていたのをルビーは知らない。確かに男前で、王宮騎士だったこともある。しかしあくまでも貴族の息子としての地位で、実際の実戦経験は無い。アビゲイルにしてみれば、鼻持ちならない男であったことに違いない。



「私は貴女のようになりたかったわ」


「え?」


「いつもお父様に、ウンディーヌ様に愛されて。グレイプニルお兄様にも、他の誰からも愛されて…。フレデリックにも」


「…あ、あの…?」


「その赤紫の瞳も、空色の髪も、妖精のような儚い美しさも。お父様とウンディーネ様とお兄様の血が繋がっているのだと、いつも思い知らされていたわ。いつもね。そんな気持ちが貴女にわかる?」


「お、お姉さま…?」


「フレデリックの事もそう。いつも貴女の側にいたわね。いつもいつも。貴女が生まれた時からずっと側にいたの。親衛隊に所属してからも、貴女の部隊の腕章を身につけていたでしょう?総隊長になった時、ようやく水色の腕章が外れて、ようやく私の方を向いてくれると思った。でも、私はもうこの国に来る事を決めていたの。ふふっ、本当にすれ違いだわ。笑っちゃうでしょう?」



くすくすと笑うアビゲイルが怖い。なんとなく逃げたい気分になったルビーは、今までずっと抱き締めていてくれたアビゲイルの腕から逃れようと背筋を伸ばしたのだが、ぐらりと視線が揺れた。そして次の瞬間、頭が割れるように猛烈な痛みが襲った。

あぁ…と悲鳴のようにか細い声で痛みを訴え、頭を抱えると、頭上から声がかかった。やけに優しく甘ったるい声で。



「あら…どうしたのかしら、ルビー。うふふ、特製の薬が効いてきた?ねえ、ガープ、量を間違えたんじゃなくて?こんなに苦しんでいるのだけれど…」


「いえ、量は間違えていませんわ。これは本人の罪の大きさに比例した痛みなのでは?何と言っても王妃様の思い人であられる方にちょっかいを出されて、遠ざけていた女ですもの」


「うふふ、そうなの?ですって、ルビー。貴女の罪の重さがその痛みなのですって。まあ、仕方がないわね」



頭が割れるように痛い。

それでも、何を言っているのかわかる。しかし、その内容が…。



「お…おね…さま…」


「お姉さまなんて呼ばないで。私はお前が嫌いで嫌いでしょうがないの。お前なんて大嫌い。いつも皆の視線を独り占めにして、皆から愛されて。私と何が違うの?私だって皇女なのよ。それなのに、なんでお前だけが皆から愛されるの?フレデリックだってそう。彼が好きなのはこの私。お前じゃないわ。お前みたいな小娘が、彼のような完璧な人間に相応しいはずがないじゃないの。わかってないのね」


「…おね…ちが…」


「何が違うの?あんたはお兄様にも愛され、ウンディーネにも、お父様にも愛されてぬくぬく育って。私はお母様から罵倒され、貶され、お母様の泣き言を一身に受けて来たわ。それなのに、フレデリックまで奪うなんて許さない。彼は私のものなのよ。彼を手に入れる為に、どれだけの思いをして来たと思っているの?好きでもない男に抱かれて、その子供を身篭る。その苦痛がお前にわかる?わからないでしょう?人の悪意から逃れるように、ぬくぬくと温室で育てられたあんたには!!」



美しいと思っていたはずの姉の顔が、悪鬼のように歪んで見える。これは盛られたという薬の影響なのだろうか。そうに決まっている。姉がこんな酷い事をするはずがない。

それでも、痛みでかすむ目は真実を映し出す。すなわち、アビゲイルの嘲笑を。



「あんたが侍女になり、下女になった経緯は私の差し金。いい経験になったでしょう?これまでいい暮らしをしてきたんだもの、これくらいは当然よね。今まで知らなかった世界を知る事が出来て良かったんじゃなくて?ま、その貴重な経験なんてどうなるものでもないけれどね。お前は一生この国で、私の監視下に置かれたまま、辛くて苦しい生活をするの。死ぬなんて事は許さないわ。ああ、そうだ。私がこの国の実権を握り、フレデリックを手に入れる。それをお前には近くで見て貰わなきゃね。自分の部隊で、いつも自分を護っていてくれた人が自分を被虐するなんて…ゾクゾクするほど興奮するわ。それまでお前は、私の奴隷なの」


「王妃様、各自集まったようです。そろそろ…」


「あら、そう。じゃあ行きましょう」



そう言ってアビゲイルはルビーが着ていたガウンを乱暴に剥ぎ、入って来た下男にルビーの身柄を預けた。ルビーを乱暴に肩に担いだ下男は、完全にアビゲイルに心酔している男で、だからこそこの男を選んだ。本来ならば男子禁制の後宮内、それでも男が入り込んでいるにはアビゲイルの許可がいる。それをこの後宮の主であるマルスが知る事はないし、知る事もないだろう。暗愚であるが、鈍感な部分には愛おしさを感じる。それを愛情だとは露ほども思わないが。

これから行くのは後宮内にある反省室。そこにはマルスの側妃が集まっている。各々突然帰って来たアールマティとミネルヴァに不満を抱いている者達で、一様にその原因ともなったルビーを疎んじている女達でもある。それを見越して、彼女達にはやってもらいたい事がある。

単なる座興にしかならないが、それでも憎い妹が苦しむことには変わりは無い。



「皆さん、突然の呼び出しなのに集まってくれて感謝するわ」


「いいえ、王妃様!アビゲイル様のお呼び立てとあればわたくし達はいつでも!」


「そうですわ。それに、玩具もありますし…」


「あらあら…皆さん待ちきれないようね。ああ、初めに言っておくわね。顔は傷付けちゃ駄目よ?それに、死なせても駄目。あくまでも死なない『程度』に可愛がってちょうだいね。私の可愛い、妹なのですから…ね?」



にっこりと笑ったアビゲイルの顔。それは艶やかな大輪の様に咲く、薔薇のように美しく、控えていた下男をはじめとしたその場にいた誰しもが見惚れるような笑顔だった。



ただ、それをルビーが見る事は無かった。




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