第三十二話 フレデリック・ファルコン
フレデリックがルビーにいつから妄執とも言える恋心を抱いたのかは、彼以外には知ることは出来ない。
しかしながら、ファルコン家の嫡男であり、皇太子グレイプニルの親友と言う立場からルビーが生まれてから比較的早い時期に対面を果たしている。
その時、小さくて幼い妹を愛でるのに懸命だったグレイプニルには、フレデリックの漆黒の瞳に宿った光を見ることが出来なかった。それが、ファルコン家の忠誠心から派生した狂愛の片鱗であったことを知る由もなかった。
フレデリック・ファルコン
ヴァシュヌ王家とも繋がりのあるファルコン家の長男でありながら、王家親衛隊総隊長の職を得ている。
王ポイニクス、王妃ウンディーネ、次期王である皇太子グレイプニルからの絶大なる信頼と、親衛隊隊員達からの圧倒的な支持を持ってして、総隊長の座に就いた。
親衛隊発足以来最年少の総隊長の誕生は、前総隊長であるファルコン卿の辞職に伴うものであったが、それが秘密裏に行われた事であることを知る者は少ない。年の変わりと同時に発表された総隊長の交代。少なからず異議が出ると思われたが、結局は親衛隊内でのフレデリック支持により黙殺された。
ヴァシュヌ王家親衛隊という組織は、完全なる不可侵組織である。
王とその家族を護るためだけに発足したそれは、如何に王であろうとも人事においてはおいそれと口出し出来る物ではない。総隊長である者には王家に対しての絶対的な忠誠心と、献身が求められるのはそのためである。
王の身を護るために配置された隊員が、もしよからぬ事を考える事があったとすれば、総隊長自らが隊員を抹殺するのも厭わない。
必然と隊員達にも王家に対する忠誠心が得られる。入隊試験に身分は問わないが、その分、狭すぎる入隊の門を潜り抜けた者には、いつの間にか王家への忠誠心が刷り込まれていると言っても過言ではない。むしろ、いくら試験の結果が芳しくても、王家に対する忠誠心が刷り込まれていなかったら合格にはならないのである。
そんな親衛隊総隊長を父に持ち、図らずも自身も総隊長となったフレデリックには、王家の忠誠心とはまた別に、第二皇女であるルビーに対する狂愛があった。
入隊する以前は王家と縁戚関係でもあり、年も同じだったことから、皇子のグレイプニルとフレデリックはあっという間に仲良くなった。それは邪心のない全く友人関係だったのだが、双方ともに年を経るにつれて、主と臣下という立場の違いが明確に分れるようになった。しかしながら、一歩枠を出ると年頃の男の子らしく一緒につるんでいたりもした。
そんな中、ポイニクスとバンシーの間にアビゲイルが生まれたのだが、彼女の待遇はお世辞にも良いとは言える物ではなかった。第一皇女としての自覚を見に付けるための処置として取られた教育方法は、父王からの慈愛を全く受けない、そして母バンシーからは愛情ではなく、憎しみしか受けられないといった苛酷なものだった。そんな義母妹を哀れに思ったが、たかだか九歳かそこらの子供が父に何かを言っても無駄だった。それを親友でもあるフレデリックに愚痴ったグレイプニルは、意外な言葉を聴くことになる。
「お前がどうのこうの言ってもな…。グレイ、お前が気にかけてやればいいんじゃないのか?」
グレイプニルはフレデリックの言葉の意味をそのままに受け取ったのだが、やはり実情はそんなに上手くは行かなかった。そのうち、アビゲイルに自我が目覚めると、気にかけているはずのアビゲイルから避けられる様になる。意味がわからないまま無作為に毎日が過ぎる中、母ウンディーネが子供を身ごもった。妹か弟がもう一人出来ると無邪気に喜んだのも束の間、側妃でアビゲイルの母であるバンシーがウンディーネを襲うという事件が起きた。単純にバンシーが嫉妬に駆られたモノだと思われたが、アビゲイルの存在を忘れられないために起こした事件である事が後に発覚、結局はお咎め無しの処分が下ったものの、更にアビゲイルの立場は悪いものになった。
ギスギスとした雰囲気の中で生まれて来たのが、第二皇女であるルビーだった。風貌は両親の特徴をよく引継いでいて、将来はウンディーネに良く似た美人になるだろう事は予想できたことだった。
第二皇女という比較的安易な立場に生まれたルビーは、両親や兄からの愛情を一身に受けたのだが、そこにフレデリックの姿もあった。
初対面以来、何かと理由を付けて妹に会う様になったフレデリックを諌めようとグレイプニルは自室に呼んで話をしたのだが、返ってきた言葉に返事をする事が出来なかった。
「ルビー様は俺がもらう」
王家の者に対して、不遜とも取られかねないその発言をした本人は至って平然と立っている。同性でもあるグレイプニルですら、偶にぞくりとするほどの色気を漂わせる親友の、その漆黒の瞳にはからかいの色は全く無い。そもそもフレデリックが他人への興味を示す事は本当に稀で、彼が歩くたびにキャーキャーと黄色い悲鳴を上げる貴族の令嬢達には全く興味を示さず、ファルコン家の人間であるのならば縁談も山のように持ちかけられるはずなのに、その話が表に出てきたことがない。フレデリックの父である総隊長のファルコン卿に聞いても、詳しくは教えてはくれない。
グレイプニルが訝しく思っていたところに、今回の発言だ。驚かない方がおかしい。しかも、妹であるルビーはまだ生後一年も経っておらず、親友の性癖を真剣に疑った。
しかしながら、フレデリックは強行手段に出るわけでもなく、ただルビーの成長を側で見守っているという言い方の方が正しかった。しかしながら、グレイプニルは漠然とした不安を胸に抱えたまま、今度はアビゲイルがフレデリックに恋心を抱いているらしいという話が耳に入る。忠告がてらアビゲイルを自室に呼び出すと、案の定アビゲイルはフレデリックを好いている。困った事になったなと心底思った。
アビゲイルは知る事は無いだろうが、フレデリックは相当腹黒い。近くで見て来たグレイプニルであるからこそわかるものの、彼の本質はあの秀麗な顔に全部を覆い隠されている。
人を駒とする事を躊躇なく行い、それに対しての罪悪感を全く感じる事はない。自らの手を汚す事を厭わないくせに、それをせず人の闇の部分に鮮やかに浸蝕していく。そして確実に人を狂わせ、破滅させるだけの手腕は、まさに臣下としては力強いものである。それが、人間としては間違っているとわかっていても。
フレデリックの座右の銘は『利用出来るモノはなんでも使う』である。
まさにその座右の銘の通り、フレデリックは己が持つモノは何でも使って自らが欲するモノは得てきた。
フレデリックの家名と秀麗な美貌に寄って来た令嬢共は、利用価値のある女だけを冷静に見極め、フレデリックにいい様に使われて骨の髄までしゃぶられる。そして利用価値が無くなると、一片の迷いも無く切り捨てる。だが、利用された女達は、それがフレデリックに利用された事などとは全く考える事はない。
自滅
その言葉こそが相応しい。
自分だけの男にしたいという浅ましい考えに付け込まれた女は、いつしか自分の意志で自滅の道を選ぶ。
アビゲイルがいい例だ。
哀れな第一皇女は異母兄であるグレイプニルの忠告を無視した挙句、あろう事かフレデリックの一番大事な、手中の珠に危害を加えた。
王家の人間であるアビゲイルには、ルビーと違い、確実に一線を引いて接してきたフレデリック。アビゲイルの恋心を利用し、自分の周りに寄って来る使い勝手の無い令嬢連中を体よく排除してくれる人間としか考えていなかったのかもしれない。実際、フレデリックの実力を考えれば第一皇女であるアビゲイル付きになるはずが、またしても父親である総隊長を利用したのである。
自分の息子が、ルビーに対しての異常な執着と狂気を知っていたのかもしれない。黙ってフレデリックに水色の腕章を渡しておけば、隊の規律も乱れる事は無い。また、アビゲイルのフレデリックに対する執着も知っていたファルコン卿はあっさりとその申し出を認めた。親衛隊の人事権は王家の意向は酌まれない。その絶対条件をフレデリックは知っていて総隊長に直接申し出たのである。
しかし、マルスとアビゲイルの醜い企みによって、フレデリックの全神経が焼き切れんばかりの激怒を引き起こす。
その書簡が届いた時には既に総隊長の座に就いていたフレデリックは、アビゲイルが嫁げばいいとしつこく進言した。ポイニクスやグレイプニルもそれには同意したのだが、マルスからの返事は否。断腸の思いでルビーを嫁がせるという意見が満場一致で採決されると、その頃から静かな黒い炎がフレデリックの瞳に宿る事になった。
もしかしたら、フレデリックは知っていたのかもしれない。アビゲイルとマルスが、ルビーを騙してカーンにおびき出そうとしていた事に。
だが、知っていたとしても、ルビーがカーン王国に嫁ぐ事実は変わらない。
だから、フレデリックは座右の銘を使ったのである。
『利用出来るモノは何でも使う』
アビゲイルがフレデリックに対しての『恋』という名の執着を抱いている事は熟知している。という事は、次に取る行動は手に取るようにわかっている。
マルスを滅ぼしてもらおう
一瞬たりともルビーを得られるなんて考えた愚かな人間には、死んでもらう。
そのためには、あの忌々しい女にせいぜい頑張って貰わねばならない。
ルビーが王城全体で傷付けられているという報告は、親衛隊直轄の密偵からの報告で届いている。その報いは取ってもらわねばならない。
だったら、カーン城の王以下全員入れ替わってもらえばいい。
丁度、あの愚王と王妃の反感は日増しに増加している。ヴァシュヌからの物資も完全に途切れた今、最早瓦解は目前。少しつつけばあっという間に崩壊する。
マルスは処刑、アビゲイルは良くて幽閉、悪くて処刑。
まぁ、幽閉の処分が決定したとしても、あの高飛車な女が監禁生活になんて耐えられるはずがない。
お可哀想に、傷付いたルビーは自分が癒す。
自分しか見させない。
他の人間なんて見なくていい。
全部はルビーを手に入れるための布石でしかない。
利用出来るモノは何でも使う。
それがどうなろうが…それが死んだとしても、心は痛まない。
全ては愛しい女を手に入れるため、だけの、茶番。
フレデリック・ファルコン
ヴァシュヌ王家親衛隊総隊長に君臨する美しき黒き男に、『失敗』の二文字は有り得ない。




