第三十一話 次期ヴァシュヌ王グレイプニル
「王家に生まれたからには、私達は民のためにいなければならない。それをお前はわかっていない。だから今回の事も何も理解できていない。自分の思うように事が進んでいると思っているのなら、それは間違いだ」
顔から笑みを消したグレイプニルの言葉が部屋に静かに響く。両脇に立ったコラーダとティソーンもまた、表情を消していた。
その清廉とした威厳はやはり王家の者、それも次期ヴァシュヌ王だと再確認させられる。同じ王家の人間でも、マルスとは本質が違う。
「アビゲイル、お前はヴァシュヌ皇女だという事に固執しているようだが、その本当の意味を知っているのか。私が見る限り、そうではないと思うのだがね」
「わかっていますわ、勿論。だからこの国の王妃にもなれましたのよ。皇女でなくてはありえないでしょう」
「…皇女であるから王妃になれたのか?それは違う。単にお前の歪んだ考え故だ。お前のその歪んだ考えによって、人が何人死んだと思っている」
「民が死のうが、生きようが、民の事などは私の知った事ではありませんわ。むしろ感謝して欲しいものです、私の糧になれるんですもの。それがあれらの為でなくて、なんになります」
民は搾取される側。王家は搾取する側のその頂点に立つ者として、凛然としていなければならない。その為にしなければいけない責任や、国を率いる者としての重圧が圧し掛かるのだが、アビゲイルは根本的にその部分をわかっていない。
ヴァシュヌにいた頃からわかっていたことだった。ルビーが貧困対策に心を砕く中、アビゲイルはひたすら自分磨きをしていた事に。確かに帝王学を修めさせ、国内外にはアビゲイルは優秀だという事が伝わった。しかし、裏を返せばアビゲイルの言葉は机上の空論でしかない。本当の貧困というものの現場を知らずに育ったアビゲイルの出した政策は、重臣たちの席で一笑にふされた。それに憤ったアビゲイルは、金だけをかけた、とても現実的ではない公共政策などを出した。ついには、アビゲイルに執政能力はないと黙認されていたのだが、グレイプニルはそれを残念に思った。
もしも、ルビーのように現場を知っていたのならもっと実現可能な政策を持ってくるだろう。だからと言って、アビゲイルが現場を好まないのは知っていた。彼女は側妃の娘であるものの、安全で綺麗なままの王宮生活にどっぷり浸かっていたおかげか、アビゲイルは自分と反対の境遇のものには酷く冷たい。
ルビーが孤児院に行ったとしたら、アビゲイルは貴族の選ばれた娘達とのお茶会を開いている。また、お転婆なルビーが親衛隊を引き連れずに、頻繁に城下へ行くのに対して、アビゲイルは用がない限り城から出ようとはしない。皇女としての自覚があるためだと言えば聞こえがいいが、その実、城下に出て下々と交わるのを厭うているのもわかっている。
金の使い道もわかってない。その価値すらわからないのでないかと思う。ただモノの価値だけでフラフラと彷徨う金銭感覚を持っていては、国家事業を行うと言っても、その現場が中間搾取や賄賂の応酬になろう事もわかっている。
本当に惜しい。
兄として、次期王として見ても、アビゲイルという人材は惜し過ぎると思う。だが、ここまで一国を腐敗させたのもアビゲイルだ。
フレッドに対しての執着の片鱗は、アビゲイルが幼い頃に忠告した通り、グレイプニルも気付いていた。あれは彼女がどうこう出来るような人間ではない。扱い方を間違えれば、確実に自分に刃が向かうだろう。歴代のファルコン家の人間を抱えた父や祖父達も、自分と同じプレッシャーを持っていたのであろうか。いや、あれはどう見ても別格だと思う。自分の治世でフレッドと言う優秀な人材が出てきたのは喜ばしい。だが、同時に恐ろしくもある。諸刃の刃とは、あいつの事を表す言葉のようなものだ。
自分はヴァシュヌ王家の次期王だ。その自負と背負うべき責任も、幼い時より徹底して頭の中に叩きこまれている。
一と千。
千より万。
王として、選ぶべきはわかっている。
それが人として間違っていることだとしても、そこに一つの家族としての情はかけられない事も知っている。
だから、ルビーをフレッドに捧げた。
兄として間違っている事もわかっている。だが、自分は王になる。数百万の民の命と妹の命。
どちらを取るかと言われれば
――出すべき答えはわかっている――
「私はね、お前が嫌いではなかったよ。酷く人間じみたその考えに、軽く羨望も持っている。私にはない感情だからね」
「え?」
「持ってはいけない感情とでも言うのか。同時にお前を哀れにも思う。愛されたかった男に無碍にされた挙句、駒にされた事も気付けなった愚かな妹。フレッドはルビーがこの国に取られた事に激怒してね、その為にお前がどう動くか逐一見ていたと思う。じゃなかったら、ここまで上手く事が運ぶわけが無い」
「…それは、どういう事ですか」
「ルビーを自分の物にしようとしたマルスを破滅させる役目を追わされたんだよ、お前は」
グレイプニルは妹の瞠目している表情を見て、良い様に使われた哀れな駒だなと内心嘆息した。




