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第二十五話 第一皇女アビー

アビーが小さい頃、広い城の隅でいつも一人で泣いていた。



どうしてお父様は私に笑いかけてくれないの?



どうしてお母様は私をそんな目で見るの?



どうしてみんなルビーばかり好きなの?



アビーにとって、城での生活は楽しいものではなくただひたすら寂しく冷たい無機質なものだった。

父であるポイニクスは遠目にしか見た事はなく、異母兄であるグレイプニルと(たま)に会っても、アビゲイル自身が苦手だったこともあり、早々に身を翻していた。それに、アビーにとって唯一の繋がりであると言っていい母バンシーは、いつも小さなアビーを泣きながら責めた。



「どうしてお前が生まれて来たの?お前さえいなかったら、王だって私に振り向くはずなのに!こんなはずじゃなかったのに!!」



悲鳴交じりの母の責めは、なんの(とが)もない彼女の心をどこまでも傷付けていく。

アビーは小さな身体で、ただそれを必死に耐えていた。


たった一人で。



フレデリックに初めて会ったのは、そんな頃だった。



いつもの様に庭で一人で泣いていると、後ろに人の気配を感じ、振り返るとそこに男の子が立っていた。

小さなアビーは、思わず涙が止まるほどの衝撃を受けた。


そこにいたのは、綺麗としか言い表せない男の子だったからだ。

黒い髪は短く整えられていて、端正な顔を引き立たせている。年は兄グレイプニルと変わらないように見える。それに、黒曜石のような双眸。思わず引きこまれるほど美しく、澄んだ瞳に一瞬で心を奪われた。



「どうしてこんな所で一人で泣いてるんだ?」


「だって…お部屋に帰るとお母様が私を怒鳴るんだもの…。私はなにもしてないのに…」



引っ込んだはずの涙が再びこみ上げてきて、急いで顔を俯ける。こんな綺麗な子に泣き顔を見られたくない。その一心で。

だが、その俯けたアビーの顔を彼が上げ、流れた涙を自分の着ている服の袖で拭った。



「悪いけどハンカチがないんだ。これで我慢して」



ちょっと乱暴に拭かれた頬は痛かったけれど、そのぶっきら棒な優しさに思わず笑みがこぼれた。その笑みを見た彼は、少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに満足そうに微笑んだ。


その華やかな笑みを見て、アビゲイルは頬が熱くなるのを感じたが、後ろから乳母の自分を呼ぶ声がした瞬間、それは萎えた。



「アビー様!!こんなところにいらっしゃったんですか!お母様が探していらっしゃいましたよ!!」


「ばあや…。どうせお母様が探しているなんて嘘でしょう…?」


「本当でございますよ!さあ、お戻りになりませ…って…まぁ、フレデリック様!!どうしてここに!?」



フレデリック?それが彼の名前なの?

フレデリックと呼ばれた彼は別段それを気にするような事も無く、だた悠然とそこに立ってアビーと乳母を、じっとその黒曜石の瞳で見ていた。



「グレイに会いに来たんだ。だけど、まだ勉強中だって言われてね。暇だから庭に出てみたら、その子が泣いてたから慰めたんだ。いけなかった?」


「いえっ…!お手数をおかけしました!!アビー様、フレデリック様にご挨拶を」


「…?」


「いいよ、そんな畏まらなくても。ここで会った事は秘密にしておこう。僕がなんだかんだ言われるのもうっとおしいし。ああ、そろそろグレイの時間も空いたかな…じゃあな、アビー」



「あ、はい、フレデリック様!」


「様はいらない。敬称を付けられる様な者じゃないから」


「…っ!…ふ…フレデリック…」


「よくできました」




そう言ってアビーの頭を撫でた後、フレデリックは城の中に入っていった。

よくわからない状況を説明してもらいたくて、乳母の方を見ると彼女もまた、うっとりとした表情でフレデリックが歩き去った方向を見ていた。



「ねえ、ばあや…。あの人って…」


「フレデリック様でいらっしゃいますよ。グレイプニル様にお会いに来たと仰ってましたから、多分近々城に上がるんではないでしょうか。」


「城に?どうして?」


「フレデリック様は先々代の王弟のお孫様でいらっしゃって。ファルコンの名をご存知でしょう?」



うんと頷いて、頭の中の記憶を探り出す。

ファルコン卿は、ヴァシュヌの中でも王に匹敵する力を持っている、貴族中の貴族だったはずだ。だが、その強大な力は今まで使われた事は無く、あくまでも王家を支える一柱であった。


アビーは、そのファルコン卿という人に会った事は無いが、子供ながらにひそかに耳にした噂では現在のファルコン卿は王家親衛隊の総隊長を務めているらしい。



そのファルコン卿の息子…。

先々代の王弟の孫であるならば、アビーとも縁繋がりである。

あんなに美しく、それも、彼女に初めてと言って良い程の優しさを示してくれた彼を好きになるのは、アビーにとって自然の事だった。



「ねぇ、ばあや。また会えるかしら…?」


「どうでございましょう…。きっと城に上がられた暁には、王家親衛隊にお入りになられるかと思いますが、アビー様付きになるかは…難しいかもしれませんね」


「…どうして?私、フレデリックがいいわ。他の人は嫌…」


「わがままを言わないで下さいませ、アビー様。仕方がないんですよ。それにあの方だったら、きっと親衛隊の総隊長にまで昇りつめられる事でしょう。そうなれば、グレイプニル様の直轄になられますので…」


「…グレイプニルお兄様の…」


「え?何か仰いましたか?」


「…ううん、何でもない…」



アビーの沈んだ声を訝しげに思った乳母であったが、特に追求する事もなく、アビーは彼女の手を握り、母の叱責の待つ部屋へ戻った。



それからアビーは変わらぬ日常を過ごす日々。

いつもルビーの事を表に出され、比べられる日々だった。父と無視されるのももう慣れた。と言っても、傷付かないわけではない。その傷付いた心の矛先を全て、全部を独り占めにしているルビーへのと憎しみへと変えた。

しかし、アビーの心の中にはフレデリックがいた。あのぶっきら棒な優しさも、優しく微笑んでくれた笑顔も、忘れる事無くアビーの胸を焦がす記憶として年々膨れるばかりだった。



そんな中、グレイプニルがアビゲイルを自身の部屋に呼び出した。苦手な異母兄であるグレイプニルだが、何故そんなに苦手なのかわからない。多分、あの父親とそっくりな赤紫の瞳が気味が悪いのだと思った。

何の用だろうと怪訝に思いながらも、心の中では自分にとって良くない事を言われるのだろうという予感があった。



「あぁ、来たか、アビゲイル」


「何の御用でしょうか…」


「まあ、座れ。お前とこうして面と向かって話すのも初めてなような気がするな。いつも私は逃げられているような気がするから」



アビーはその言葉に答えられるはずがなく、俯いたままグレイプニルの言葉を待った。早くこの部屋から出たいという一心で。久しぶりに見たグレイプニルは、やはりその気味の悪い赤紫の目で自分をじっと見ているが、怯んだアビゲイルを見ると困ったように笑んだ。



「何をそんなにビクビクしているんだか…。別に私はお前を取って食おうとは思っていないんだけどね」


「…申し訳ありません…。それで用とは…」


「…まあいいか。アビゲイル、お前フレッドに好意を持っているのか?」



最初言われた事がわからなくてきょとんとしたが、言葉の意味を理解して、アビゲイルは真っ赤になった。その反応が全てを物語ったかのように、グレイプニルはその目を細めた。



「悪い事は言わない、フレッドはやめておけ。あいつはお前がどうこう出来る相手じゃない」


「どういう事ですか」


「お前はまだ小さいからわからないだろうが、フレッドは誰も見ていないぞ。誰もな。だから傷つかないうちに諦めろ」



だから止めておけと言われ、アビーはその場を後にした。

まさか兄にまでフレデリックの事を言われると思わなかった。だが、何故諦めないといけないのだ。こんなに好きなのに。

絶対に諦めたりしない。私は皇女だ。しかも第一皇女。他の女がフレデリックに近づく事なんて許さない。


それからアビゲイルは、自身の地位を利用し、徹底してフレデリックに近づく女達を排除した。側室が生んだの皇女とは言え、一国の姫である。そうなると、太刀打ち出来る女はそうそういない。

そんな中、父から許しが出て社交デビューの日が決まった。しかし、当日になり生憎母の具合が思わしくなく、結局はアビーが一人で出ることになってしまった。

初めての社交場でアビーが晒されたのは、好奇な眼差しと心無い嘲笑ばかり。いくら気持ちを強く持った所で、結局は幼いままのアビーは、泣き出したくなる気持ちをなんとか堪えてテラスまで出ると、途端に堪えていた涙が堰を切ったように流れた。


一体、自分が何をしたと言うのだろう。

ただ、側室の娘として生まれただけなのに、どうしてこんなにも辛い事ばかりが我が身に起きるのか、アビーはさっぱりわからない。


そうして一人で泣いていると、後ろに気配を感じた。

慌てて涙を拭い、振り向くとそこには、アビーが恋い焦がれたフレデリックが昔と同じように立っていた。

ただ昔と違うのは、着ている服が黒で統一された親衛隊のものであるということだけだ。月光と城の照明の光を鈍く輝かせ、黒を纏った少年と青年の(はざま)にいるフレデリックは、記憶にあるよりも数段美しかった。



「また泣いてるのか」


「…フレデリック…様…」


「様は要らないんだけどな。まあ、いい。で、中に戻らないのか?」


「…居たくないんです…」


「まぁそうだろうな。あんなに悪意の真っ只中に放り込まれたんじゃ、君みたいに逃げて泣いてばかりいる子には、辛いだろうな」



ぎょっと目を見開き、フレデリックの方をまじまじと見る。相変わらず美しい顔は申し分ない。しかし、そこに浮かんでいたのは笑みでもなんでもない、真剣な顔だった。



「悪意をはねのけるだけの力が無いのなら、このままここに居て泣いていればいい」


「そ…そんな…」


「しっかり見るべきを見ろ。自分が成すべき事をしろ。それをしようともしないで捻くれているだけなら、あそこに存在している悪意に負ける事になるんだ。強くなれ。泣かなくてもいいくらいにな。利用出来る物は何でも利用するぐらいの心情で生きろ」



それだけ言って、フレデリックはまた中に戻った。

強くなれと言われたアビーは、何故あんな事をフレデリックが言ったのか必死に理解しようとして、一つの結論に達する。



フレデリックは自分を見てくれているのだ。

助けようとしてくれるのは、他の誰でもない、あのフレデリックなのだ。


アビーはそう結論付けたのである。



それからと言うもの、アビーはフレデリックに付きまとい始めた。

親衛隊にいるフレデリックを訪ねて行ったり、彼が読んでいる本を読み、同じ物を食べるようにした。家柄と相貌に惹かれる女達は、昔の様に裏で手を回して排除した。

最初のうちは楽しかった。当初こそ困惑ぎみに対処していたフレデリックも、最終的には諦めたようにアビーの好きにさせていた。なにせ第一皇女だ。いくらファルコン家の子息だと言え、今は王家親衛隊の隊員である以上、無碍に出来るはずがない。利用出来る物は何でも利用する。まさにフレデリックが言っていた通りにしたのである。

しかし、いつもルビーがそれを邪魔するかのようなタイミングで現れた。その度に、フレデリックはルビーを優先してアビーをその場に置き去りにする。

それが毎日のように続くと次第にアビーは、フレデリックに対する思慕と、ルビーに対する憎悪を発散する方法を思い付き、それをルビーにやらせる事にした。



それは、母が大切に持っていた宝石をルビーに割らせる事だった。


その宝石が王から貰った物だとわかっているからこそ、ルビーに割らせた。きっと、母から父ポイニクスに報告が上がって、忌々しい妹が、妹にとっては優しい父に叱られるだろう事も。


言葉巧みにルビーに宝石を持たせ、まず自分が割る。それを見て面白がったルビーが、勝手に次々と割っていく様はとても愉快だった。

そして、その場面を見つけた侍女達に叱られて、泣いているルビーを見るのも…


いつも自分を責める母が大嫌いだった。その母が、見向きもしない王から貰って大事そうに付けている宝石を、自分の持っていない物を何もかも持っているルビーに壊させる快感。


いろいろと手段を変え、何度か繰り返した所で、あろうことかフレデリックに感づかれた。



愛おしいフレデリックに呼び出された事に、内心びくびくしながら、でもドキドキしながらその場に行った。既にそこにいたフレデリックは、不機嫌極まりない表情そのままに、冷たくアビーを突き放した。



「第一皇女の貴女とは言え、いくら何でもルビー様へのなさり様はあまり誉められたことではないですね」


「…待って、何のことです?」



この頃になると、アビーは仮面を被ると言う事を覚え、喜怒哀楽、全てを演技で表現していた。大概の人間はこれに騙される。しかし、何故かフレデリックと兄には通用しなかった。

現に今も、知らぬ存ぜぬで通そうとしているアビーに対して、フレデリックは何もかも見透かすような目で見られている。


半ば睨む様に対峙していたが、明るい声がその場の均衡を破った。



「ふれっど~!!!どーこぉ?」



ルビーの声がした方向を目線だけで確認し、すぐさま踵を返すフレデリックに思わず声をかけた。



「何ですか」


「あの…私、フレデリックを好きなの!」



あぁ、勢い余ってしまった。何てはしたない!

そう思ったが後の祭りで、出た言葉は取り戻せない。恐る恐る彼を見ると、そこには何の感情も浮かんでいなかった。



「話はそれだけか?」


「え…?」


「どうでもいい事で俺の邪魔をするな。…の分際で」



最後の部分は聞こえなかったけれど、それだけを吐き捨てたフレデリックは突進してきたルビーを破顔して抱き上げた。

その顔に浮かんでいたのは、アビーに対してした事のない愛しい者だけに笑む、それ。

絶対にアビーに対しては向けない笑顔。


なんで…どうして…どうしてルビーにそんな笑顔を向けるの?



「あびーおねえさま?どうしたの?」


「何でもありませんよ、ルビー様。ここは空気が悪いですからね、グレイプニル様の所へ参りましょうか」


「うん!あのね、ふれっど、ぐれいおにいさまがね……」



愕然としたアビーを見たルビーが心配そうに声をかけたのを、フレデリックが優しく言い聞かせながら、その場を立ち去った。

去り際、一瞬だけアビーを振り返った時のフレデリックの目線が何年経っても忘れられない。




嘲笑でもない


ましてや、告白を受けた感激でもない



ただ、凍てつくほど冷たい、アビーに対しての無関心



それが一瞬だけ目線を寄越したフレデリックの、アビーに対しての全感情だった。



『フレッドは誰も見ていないぞ。誰もな』



頭の中にグレイプニルの言葉が反芻する。そう、誰もあの瞳には写さない。ルビー以外、誰も。



「あは…あはははは…あははははっ!!!!」



狂った様に笑い出したアビーは、その場に膝をつき泣いた。



『利用出来る物は何でも利用するぐらいの心情で生きろ』



そうね、フレデリック。貴方の教えてくれた通り、何でも利用してやるわ。

そうして強くなるの。

強くなって、貴方の大事な大事なモノを壊してあげる。徹底的に壊してあげる。



貴方の大事なルビーを、この手で…ね。




そう決意したアビーは既にアビーではなく、それからはアビゲイルとして生きていく事になる。


それからというもの、アビゲイルは姑息な手段を使った。皇女である自分を護る親衛隊はフレデリックがいいと王に直訴した。しかし、親衛隊総隊長であるファルコン卿から、まだフレデリックは未熟であるという理由から外された。第一皇女と言う立場を利用して、必死にフレデリックを手中に収めようとしていても、ことごとく失敗し、結局はルビーを護る親衛隊の隊長になっていた。



だからアビゲイルは策略を巡らした。ついでに邪魔なルビーもいらない。

大事なのはフレデリックだけ。

利用出来る物は何でも利用する。だからカーン国も利用する。バカな王も利用するための駒にしか過ぎない。


早く早く…早くマルスなんて死んで、私が女王になるの。



そして、女王となった暁には手にいれたい男がいるの。



そう、あの男を手に入れるのは他でもない、私だわ。

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