第十九話 カーン王マルス
「皇太后と母上が城に帰って来ただと!?」
ルビーが目を覚ましてから数日後、王宮を離れていたマルスがようやく帰還した。
それまで視察の名目で、城から離れた王家直轄地にいたマルスは、その報を聞いてすぐさま帰ってきたのだ。
ベルフェゴールでは全く役に立たなかったらしい。
汗を流し、醜く太った体でマルスの後を付いて来る総理に内心苛立ちながら、愛する妻の元へと向かう。
アールマティと母ミネルヴァに立后を反対されていたアビゲイルだ。きっと、心無い言葉を浴びせられて、しかも守ってくれる自分がいない心細さから泣いて居るのでは無かろうか。
そう思うといてもたってもいられず、半ば走る様にアビゲイルがいる部屋に急いだ。
先触れを出していたのだが、あまり意味はなかったらしい。女官長とほぼ同時に部屋へ到着したマルスは、すぐさまアビゲイルを抱き締めた。
「お帰りなさいませ、陛下。お仕事とは言えお会い出来なくて、私寂しゅうございました」
「あぁ、アビゲイル。今は陛下ではなく、名前で呼んでくれ。寂しかったのは私も同じだ。身体は辛くないか?」
「えぇ、大丈夫ですわ。マルス…」
そう言って妖艶に微笑んだアビゲイルに見とれて、思わずマルスは噛み付くような口付けを落とした。
アビゲイルの唇が甘く柔らかくなり、開くと同時にそれを深くする。口付けを拒まない彼女を良いことに、そのままベッドに連れて行こうとしたが、抱き締めている彼女の腹から小さく衝撃が与えられ、それでようやくお互いの唇を放した。
どうやら腹の子が自分達の行為に待ったをかけたらしい。その事に少しだけ苛立ったが、愛しいアビゲイルと我が子の為だ。仕方がない、ここは我慢するしかないだろう。
欲望に煙ったアビゲイルの青い瞳に魅力されながらも、なんとかなけなしの自制心を使い、話をするために応接室のソファーへと座らせた。
「アビゲイル、皇太后と母上が王宮に帰って来ているようだが、何か嫌な事をされなかったか?」
そう聞いた途端、曇ったアビゲイルの顔を見て、自分の予想が外れていない事を直感したマルスは、激しい怒りを感じた。
さめざめと泣き出した彼女を抱き締めたマルスは、事の詳細を聞き、尚も怒りを募らせていく。
自分がいない間に、嫁イジメとは…。
まさかそのような低俗な事をする様な人達であったとは思いたくなかったが、愛しいアビゲイルが泣いている。
マルスにはそれだけで十分だった。
「アビゲイル、泣かないでくれ。母にはきつく言っておく。もう二度と君を悲しませたりはしないと約束する。それに、追放したはずの二人が戻って来たところで処分は決まっているんだ、安心してくれていい」
「マルス…。ありがとう、マルス…。あと…あのね…ルビーがお二人の所にいるの。私、目が届かないから心配で…」
「アレが?何故あの二人が連れて行くん…っと。あぁそう言えば、皇太后はアレと面識があったのだったな。ちっ、余計な事を吹き込まれてないといいが」
「マルス、まさかとは思うのだけれど…シャリヴァー殿下も帰って来ているの。そんな事はないと思うけど、あの子がシャリヴァー殿下に抱き上げられていたと…」
「何だと!?」
勢い良く立ち上がったマルスは最早怒りの頂点に達しており、逆にアビゲイルに宥められる事になった。
そんな彼女をきつく抱き締め、小さな声で囁いた。
「君は何も心配しなくていい。私が全てカタをつけるから」
アビゲイルもその背に腕を回し、微笑みながら優しく同じように耳元で囁いた。
「…マルス…愛しています。貴方を誰よりも何よりも…」
そう言ったアビゲイルの顔を、マルスが見ることはなかった。




