第1話 痩せこけた兵士
七つの鍵の物語 -『英雄』-
第1話 痩せこけた兵士
1
およそ、一千年前、旧文明は神焉戦争と呼ばれる大戦争によって滅んだ。
辿りついた者に、あらゆる願いを叶えるとされる世界樹。
彼の地へいたる扉を開く、七つの鍵を巡って諸国は争い、致命的な災厄を呼び込んでしまった。
ミズガルズ大陸。神焉戦争の後、人工の浮遊大陸を除いて、ただひとつ残された地上の大陸。
この大陸もまた、神焉戦争で中央部に隆起した大断崖によって、東西に分断されてしまった。
大陸西部を治めるは、『西部連邦人民共和国』。通称、共和国。
大陸東部を治めるは、『ガートランド聖王国』。通称、王国。
けれど、世界に存在するのは、そんな巨大国家ばかりではない。
大陸南部には、共和国にも王国にも属さぬ小国家がひしめきあい、日々を生きていた。
アレックス=ブラウンの生きるナラール国も、そんな小国家のひとつだった。
☆
ナラール国首都、ヨンハンは荒廃していた。
国を治める大元帥、ユーリ=オールドマンの住む中央部はともかく、郊外の農村地区は、数年前に首都を襲った未曾有の大洪水から未だ復興していない。
少し畑を歩いてみればわかるだろう。
刈り入れた麦は、穂が短く粒が小さく、栄養不足で未発達な茎は中ほどから折れてしまっている。
極度な密植が災いしたのか、畑の土はやせ細り、ひび割れした大地は、種を蒔き、苗を植えても実ることはほとんどなくなった。
洪水をきっかけに起こった飢饉は、農地崩壊とあいまって、瞬く間に全国土へと広がった。
”偉大なる指導者”ユーリ・オールドマンは比較的荒野に強いとされる、ジャガイモや豆類などの作付面積を増やすように命じたが、彼も彼のブレーンたる官僚も、掛け声ばかりが大きくて、具体的な支援政策を何一つ立案できず、施行する事もなかった。
そして、飢饉の被害を受けたのは人間だけではない。
飼料の不足は農家の家畜を次々と餓死させ、あるいは食料へと換えられた。
家畜の死は畑の肥料となるたい肥の生産量を減らし、たい肥の減少が更なる生産量の減少を招く。
まさに、悪夢のような、抜けられない窮乏のスパイラルにナラール国は陥ったのだ。
あるいは、共和国のように広大な領土と莫大な人口を有するか、王国のように外交貿易で培った潤沢な資金があれば、このループから抜け出す事もできたかもしれない。
だが、ナラール国の元帥は致命的な程に内政手腕に劣り、外交においては喧嘩を売るしか能の無い無能者だった。
ナラール国の斜陽は加速する。
ユーリ=オールドマンは、外交上の後見人にあたる共和国に援助を求め、外貨を得るために阿片やタバコの栽培を進めて、密貿易へと踏み込んだ。
よく知られているように、阿片は貪欲な食物だ。土地の栄養分を根こそぎ吸い取り、死の大地に変えてしまう。
阿片に侵され崩れ行く大地と、麻薬に汚染された国家上層部。
内政においては、ナラール国の窮乏と崩壊がいよいよ進み、外交においては、国家が犯罪を後押しするという宣戦布告ものの愚策に大陸の諸国は激怒した。
それでも元帥は止まらない。
大陸最強の軍事国家である共和国の後ろ盾を使って周辺諸国を恫喝し、国内で反抗するものは片端から憲兵に捕らえさせて収容所に送り、重労働で使い潰した。
彼にとって重要なのは、自らの権力を維持する事であり、国外の風聞などまさに蛙の面に小便をかけるようなものだった。
元帥にとって、国民は死ねば替えのきく都合のいい道具に過ぎず、そして、ナラール国の国民は…。
(何もかも王国が悪いんだ)
アレックスは、ヨンハン郊外にあるスラムの、半ば崩れ落ちた家々の間を歩いていた。
彼の赤い短髪は栄養失調でくすみ、頬はこけて、手足はまるで針金のように細い。
十三歳のときに徴兵されて、およそ5年を軍で過ごした。
毎日の過酷な軍の調練とは裏腹に、最低限の食事しか得られなかったため、アレックスの身長は目に見えて低く、鍛え上げたはずの肉体も、どこかひょろひょろとして、もやしのように見えたる。
アレックスの着る軍服は、質が最悪で所々ほつれ、ズボンも穴だらけだったが、この冬の寒さの中何も着ないよりはマシだ。
ナラールの国民は一部の富裕階級を除いて、ほとんど半裸で暮らしていた。
火を焚く練炭はとうの昔に尽き果て、石炭や油はすべて軍の幹部が掌握している。
ナラール国の危難は大陸の各地に知れ渡り……。
毎年王国や他の国々から、毛布などの防寒具や食料、粉末化したミルクなどの支援物資が届いていたが、これらは軍需物資に変えるために、共和国に売り渡されていた。
必要な…事なのだ。
すべては諸悪の元凶である王国を討つ為に。
豊饒な大地と富をナラール国が得るために。
(僕たちの国が貧しいのも)
ヨンハン郊外のスラム街に、アレックスの目的地はあった。
軍人は、ナラール国では憲兵と共に、最も怖れられる存在だ。
20歳に満たない若造に過ぎぬアレックスが歩くだけで、人々は家の扉を固く閉じて息をひそめる。
(彼女が……ったのも)
凍死した死体の転がる裏道を歩き、入り組んだ路地裏を潜り抜ける。
スラムの奥、朽ち果てた家々の中に隠れ潜むように、その男は住んでいた。
取っ手の壊れたドアを叩いて声をかける。
「こんにちは、今日はいい天気ですね?」
しばらくして、聞いたこともない訛りの、低い声が返ってきた。
「……ええ、読書日和です」
「百科事典はご入用ですか?」
「是非」
ドアが、微かに開けられる。
アレックスは身を滑り込ませるように、家へと入り込んだ。
腐り落ちた床に横たわる、四つ足の折れたテーブル、粉々になった椅子やたん笥の残骸。
中央には、それらをくべて焚いたらしい火の跡が残っていた。
薄暗い部屋の中、頭まで毛布をすっぽりと被り、口に木の枝を咥えた得体の知れない男が立っていた。
「あなたが噂の”逃がし屋”か?」
「”逃がし屋”とは人聞きが悪いが、君が探していたのは、おそらく俺だ」
アレックスは、腰に縄で縛り付けた支給品のナイフを、いつでも抜けるように気を引き締めた。
緊張に震える手で、軍服のポケットから大事に畳んだ紹介状を取り出し、彼に見せる。
これを入手するだけで、給料の半年分が消えていた。
そして、この依頼で、すべての貯蓄が消えるだろう。
次に頼む金は無い。
そもそも事が露見した時点でアレックスの命は無い。
国外脱走は重罪で、見つかったものには酷い拷問が課せられる。
二度と逃げられぬよう、手を砕かれたものや足をくだかれたもの、半身不随になるまで弄びながら壊されたものもいる。
それでも、彼は探し出した。
囚われた…を救うため。
身元、正体、一切不明。
しかし、めっぽうに腕が立つという外国人の”逃がし屋”を――。
「お願いだ。ナーシャを、テムスンの収容所からナロール国へ逃がしてくれ」
☆
ナラール国と隣国ナロール国の確執と悲劇は数百年前に遡る。
ナラールとナロールは元はひとつの国家であり、一万年の歴史を持つ平和な国家だった。
だがナラールの繁栄を妬んだ邪悪な王国は200年前、突如ナラールに侵攻し、都市の全てを破壊し、女子供問わず全人口の三分の一を強制的に徴兵、本国へと連行したのだ。
100年前、王国と共和国に何度目かの休戦協定が結ばれ、ナラールは独立を果たしたものの、唾棄すべき王国は浮遊大陸アメリアの威を借りて、非常に醜悪な干渉を行った。
共和国の比護の下、ナラール独立を図る初代元帥に対し、浮遊大陸アメリアと諮って反乱軍を支援、旧ナラール領の半分を占拠するナロール国を打ち立てた。
かくて兄弟であり、同胞であったはずのナラールとナロールは、肉親で骨肉を相食む悲劇の戦いへと導かれた。
もっとも、近年は両国の交流も盛んで、ナラールからナロールへ、ナロールからナラールへ、使節団やスポーツ選手団が派遣されることもある。
アレックスの幼なじみ、ナーシャは音楽学校の生徒で、応援団としてナロールに派遣され……行方不明になった。
そして、一ヶ月前、アレックスは、政治犯が収容されるテムスンの収容所で、囚人として囚われた彼女と再会した。
”逃がし屋”は相変わらず毛布に包まったまま、アレックスの話す王国の悪業とナラール・ナロールの悲劇に耳を傾けて、やがて噛んでいた木の枝をピンと指で弾いた。
「アレックス、ひとつ聞いていいか?
この世界の文明は、1000年前に一度滅んでいるらしいんだが。
旧世界から王家の血を残しているのはガートランド聖王家だけと聞く。
いくらなんでも、ナラール一万年の歴史には無理がないか……?」
胡散臭そうに木の枝をかじる”逃がし屋”の反応に、アレックスは肩を震わせ、顔を真紅に染めて反論した。
「大陸の文明は、ナラールから始まったんだ。
ガートランド王家の伝説なんて嘘っぱちに決まっている。
歴史の無い粗野で野蛮な王国が、ナラールを占領して、ナラールの王様と王妃様を殺して、歴史的な遺産のすべてを焼き払ったんだ」
アレックスは大声で威嚇して怒鳴りつけたも、”逃がし屋”は怯えるそぶりひとつ見せない。
防寒着のつもりなのか、毛布をひきずったまま家の隅へと歩き、そこから見たことも無い、珍妙な素材で出来た白い長方形の物体を取り出した。
驚くべき事に、木の枝を咥えた”逃がし屋”が指でジーと音を立てると、中からドサドサと羊皮紙や植物紙を束ねて綴った本が零れ落ちた。
どうやら魔法道具の一種で、鞄のようなものらしい。
「俺も一応、この国を訪ねる前に、歴史について調べたんだが…。
幸い、当時、ナラールは大陸の注目を浴びていたから、資料も残っていた。
残念だが、このナラールの地は、古来から共和国の属国も同然で、立法も司法も、行政府も、ほとんど機能していなかった。
すべてを共和国に依存していたから、通貨も流用だし、独自性のある建造物、技術は皆無だ。
そもそも王族の追放と王妃殺害はナラールの民が先導してやった……」
「黙れッ!!」
無知で傲慢な”逃がし屋”のあきれ果てた暴言に、アレックスは心底腹を立てた。
これだから外国人は信用できないのだ。
学校でも軍隊でも、ナラール人と共和国人以外は、粗野で野蛮な虫けら以下だと習ったがその通りだ。
文明人の基本である道徳や、栄光あるナラールの歴史を知りもしないで、生意気な口を利く。
なるほど頼みをもちこんだのはこちらだが、そもアレックスは軍人だ。民間人として然るべき態度があるのではないか。
これだから未開人はと、アレックスの身体は怒りで燃えるようだった。
「そんなものは王国の捏造だ!
ナラールでは、子供だって知っていることだ。
学校の国定教科書に書いてある。
王国は、ナラール中の建物を焼き払い、民の三分の一を奴隷として本国へ連行したんだ」
「言葉を返すようだが、他国に伝えられた王国のナラール併合は、大陸の歴史上まれに見るほどに平和的なものだった。
ナラールは共和国に攻められても、ルナーク国に攻められても、逃げるばかりで闘おうともしなかった。
逃げて逃げて踏みしだかれて、自分ではどうにもならないからと、王国に泣きついて外敵から保護してもらったんだろう?
ナラールを併合した王国は、通常の租税のほかに、毎年王国の国家予算の一割を投じて、水道・道路、教育機関などの公共設備とインフラを整えている。
今、ナラールで使われている文字も、王国が広めたものじゃないか。
何より、”王国の統治下で、ナラール人の寿命も人口も、王国併合前の2倍に増えている”。
人口の三分の一を強制連行して2倍に増やすなんて、王国はどんな魔法を使ったんだ?」
プツンと、アレックスの中で何かが切れた。
瞳孔が開き、腕と脚が痙攣し、心臓が爆発しそうになる。
ありったけの罵詈雑言で、”逃がし屋”たち外国人の後進性と道徳の低さをののしり、ナラールの偉大な歴史を神話を交えて歌い上げ、王国の悪逆さを説明した。
「ともかく! 王国が全部悪いんだっ!!
何もかも王国のせいなんだ。
それが正しい事なんだ。
わかったか!?」
無能な”逃がし屋”も、ようやく理解してくれたらしい。
自らの無知蒙昧さを恥じているのか、口に咥えた木の枝をぽっきり折って、重い息を吐いている。
これでわからなければ、アレックスは彼を殴りつけるところだった。
「ああ、よくわかったよ。あの陰険根暗女め、大変だったんろうなあ」
”逃がし屋”は、毛布からはみ出した黒い髪をかきみしり、奇妙な事を言った。
「根暗女? 僕は男だ」
「ああ、こいつは別件だ」
アレックスは、大事に貯めた銀行の預金通帳を”逃がし屋”に差し出した。
「頼む、これで、ナーシャを救ってくれ」
「悪いが、そいつを受け取る気はない」
アレックスの脳裏で、何かが弾けた。
腰からナイフを引き抜き、有無を言わさず”逃がし屋”に切りつける。
「あ、あ、うわああああああああああああああああっ」
「逆切れで殺人かよ! 洒落になってねーぞ」
”逃がし屋”は逃げ出そうとでもするかのように、後ろに一歩退いた。
逃がしはしない、わずかに残った理性で、アレックスは判断する。
彼は正規の訓練を受けた軍人であり、そして、喜ばしいことにナイフの扱いには一定の評価を受けていた。
アレックスのナイフは縦横無尽に毛布を切り裂いて宙に散らし、逃し屋の乱雑に結わえた黒髪と、薄茶色の眼鏡があらわになる。
”逃がし屋”の身長は、アレックスに比べて頭二つ高く、肩幅も大きい。体格では明らかに負けているだろう。
外国製のものなのか、どんな麻や綿にも似ていない…見たことも無い厚い生地で作られた上着を身にまとい、毛布の下に黒光りするバールのようなものを持っていた。
だが、体格差など、殺し合いに何の意味があるかとアレックスは思う。
生き残ったものが勝ちなのだ。
逃げ回るだけしか能のないドブネズミと、名誉あるナラールの軍人。
元帥の威光に逆らう少なからぬ抵抗分子を処分してきたアレックスに、たかが一介の”逃がし屋”風情が勝てるはずもない。
「……っ!」
「そがっ」
アレックスはナイフを振りかざし、床が崩れ、むき出しになった地面を蹴って、”逃がし屋”の懐に斬り込んだ。
一方、”逃がし屋”は一歩左に踏み出すや、右手で毛布の残骸をアレックスに投げつけてナイフの突進を阻み、左手首をひねるようにしてバールのようなものを跳ね上げた。
腰下から顎に向かって伸びる鉄棒。しかし、毛布をいなしたアレックスは、首をそらす事で、鉄棒に髪一本切らせて避ける。
リーチ差のある敵と戦う場合、最も重要なのは間合いだ。
ナイフは、鉄棒に比べて確かに短いだろう。
だが、アレックスの方から接近してしまえば、”逃がし屋”の優位点である獲物の長さは、取り回しの悪さに変わり、致命的な隙を生む。
「死ねぇっ」
「死ねるかよっ」
踏み込んだアレックスに対し、意外にも”逃がし屋”も踏み込んで、拳を突き出してきた。
無駄なことだ。
アレックスは後ろに跳ねるように距離をとり、ナイフを逆手に構える。
”逃がし屋”の右拳は届かず、突き刺しがいのある無防備な腹をさらしている。
「ぐわっはああああああっ」
アレックスがナイフを抉りこもうとした瞬間、視界の左半分が赤く染まった。
届かないと判断した”逃がし屋”の右拳、否、そこから伸びていた中指が、アレックスの左目蓋を切っていたのだ。
「悪いな。これでも、このデタラメな世界で修羅場をくぐってきたんだ。
お前のナイフは鋭いが、それだけだッ」
アレックスには、何が起こったのかさえわからなかった。
”逃がし屋”が半身の構えから放った、大上段からの回し蹴り。
熱く重い衝撃を、左側頭部にまともに受けて、そのまま彼は昏倒した。
☆
アレックス・ブラウンが、ナーシャ・キスカと初めて出会ったのは、幼年学校に入る前の事だった。
軍人だった父の同窓生が、娘を連れて家に挨拶にきたのだ。
二本に分けた山吹色の髪、つんと澄ました横顔、人形のようなドレスで正装して、いかにもよそよそしく振舞いながら、青い目を見開いて興味津々と見回っていた姿が愛らしかった。
アレックスは、幸福など感じたことはない。
だが、少なくとも、あの頃は不幸ではなかった。
父、イワン・ウリヤノフは数学教師として大学で教鞭をとり、母メアリ・ブラウンも講師として外国語を教えていた。
父は上流階級の出身であり、母はナラールでは数少ない外国語の教師として重宝されていた。
生まれた国の異なる、二人の結婚が幸せなものだったのか、幼いアレックスには知る由もない。
けれど、両親が生きていた頃の生活は平穏で、穏やかだった気がする。
アレックスが8歳のとき、父が元帥暗殺計画の首謀犯の一人として拘束され、処刑された。
父の死を待たずして、母も自殺、アレックスは父の弟である叔父の家に引き取られた。
それからの生活は、地獄だった。
ナラールの社会差別は凄まじい。
王国に住むナラール人の中には、永住特権の認可や、幾度でも変更可能な偽名・通名の社会権確立、その通名を利用した口座の無限増殖による脱・節税、公務員への就職の認可と特別優先枠の確保、私設学校や私設会館への税金免除……など、他の外国人以上の待遇を、むしろ王国人にもありえない冗談のような特別優遇措置を保障され、その特権を利用して巨大な財産を築いている……という噂もあるが、アレックスにはまるで御伽噺のように聞こえる。
元帥の決めた100以上の階級に分類され、上級にふるい分けられた者達は、下級のものを人間扱いしなかった。
命令して、従おうと従うまいと、殴る蹴るの暴行は当たり前。
なかでもアレックスのような混血児は、階級以上に差別され、文字通り”家畜以下”の扱いを受けた。
叔父の家に引き取られてからは、有良血族を意味するウリヤノフ姓を名乗る事は許されず、日々叔父の家族や縁戚から”穢れた子”として日々暴行を受けた。
辛うじて通うことが許された幼年学校では更に悲惨だった。
アレックスの教科書やノートは支給されず、私物は追いはぎ同然に略奪された。
生徒も教員も雑務をすべて押し付けて、少しでも処理が遅れると容赦なく体罰や制裁を課した。
食料の配給は誰よりも制限され、たとえ支給されても叔父の家族や学友に奪われて、生ゴミにすらありつけなかったこともある。
それでも、アレックスは頑張った。生きるためには、そうするしかなかった。
誰もが、自分よりも下のものに当たるというのなら、最下級のものはどうすればいい?
黙って嬲り殺されるか、あるいは生きるために強くなるかだ。
テストで明らかな正解を、誤答として撥ねられてもめげなかった。
長距離走大会で好成績を取るも評価は最低で、以後は大会が近づくたびに集団私刑を受けても諦めなかった。
だが、殴られるたび、罵られるたび、何かが壊れてゆく気がした。
その日も、アレックスは級友たちに頭からゴミ箱をかぶせられ、廊下中を引きずり回され、背や腹を蹴り倒され、校舎裏に打ち捨てられた。
いっそ、認めてしまえばいい。
傷ついたアレックスの心と身体が甘く囁く。
自分は家畜以下の存在に過ぎないと。
穢れた二重雑種<ダブル>として、純血の上位家族に仕える為に生まれて来たのだと。
(ふざけるな……)
生まれが違うのは、どうしようもない。
金持ちには金持ちの、貧乏人には貧乏人の生き方があるだろう。
善功を積んだ者には善人の、悪行を犯した者には悪人の、評価が与えられてしかるべきだろう。
だが、何の努力もせず、ただ元帥に振り分けられた階級だけを根拠に、自分よりも立場の弱いものを見下し、蹂躙し、使役する。
”混血”だというだけで、何の犯罪も何の悪事も犯していない者を、ここまで虐げる事が許されていいと云うのか?
(俺は負けない、生きて、生き延びて)
生きて、どうすればいいのだろう?
よろよろと歩きながら、アレックスは自嘲する。
何もない。
希望も、未来も。
混血である限り、ナラールで生きる事は隷属しかない。
母のように外国語の教師や、あるいは軍の諜報員として生きようとしても、父の罪がそれを許さない。
絶望の深遠だけが、アレックスを覗き込んでいる。
(俺は……)
ふと意識が遠くなった。
自分が倒れる音を、どこか遠くで聞いた気がした。
―――――
―――――
意識が戻ったとき。
アレックスはなぜか裏庭の木陰にいた。
「ふん、やっと目が覚めた?」
信じられなかった。
目の前にあったのは、あの懐かしいお人形のような服を着た女の子。
ナーシャ・キスカの成長した姿だった。
「ナーシャ、どうして?」
「何だ。覚えていたの? 感心ね。
重いのよ。いいかげん、どいてくれない?」
アレックスは言われて初めて、自分がナーシャに膝枕されている事に気が付き動転した。
「ど、ど、どどど、どうして!?」
転がるように起き上がったアレックスに、ナーシャは応えず、埃を払って立ち上がると、手に持った小さな鞄から、可愛らしいお弁当を取り出して、無理やり手に押し付けた。
「食べなさい。お腹空いてるでしょう?」
彼女の発言の意味が分からず、アレックスはしばし呆然として、慌てて押し返した。
「駄目だ。受け取れないっ」
「口答えをしない!」
「はいっ」
下級血族は上流血族に従うが定めだ。
アレックスは、愕然としたまま、弁当箱を受け取ってしまった。
「それでいいの」
ナーシャは用が済んだとばかりに歩き出し、裏庭の出口へと向かってゆく。
アレックスは、わけがわからないまま、彼女を見送って。
彼女が、唐突に、振り返った。
「勘違いしないでよ。
今日は食欲がなかったの。
たまたま余ったからあげただけ。それだけなんだからね!」
それだけを言い放ち、今度こそ用はないとばかりに、ナーシャは校舎へと戻ってしまう。
「どうして……?」
わからない。
なにもわからないまま、アレックスは弁当を口にした。
何の変哲もないサンドィッチ。
けれど、アレックスにとっては…。
数ヶ月ぶりの、否、数年ぶりのまともな食事だった。
味を感じて、舌が痺れた。
まるで爆発するように、何かが広がった。
ぽつりと、瞳から熱い何かが零れ落ちた。
それが涙とわからぬままに、
アレックスは、ナーシャの弁当箱を抱きしめて、食糧を貪った。




