24 : 一生に一度の恋でした
瓦礫が散乱するもう城とは呼べない地に、笑美はぺたりと座り込んでいた。
既に瓦礫と化した城を囲むは、名のある霊峰。峰々は気高く誇り高く、魔王の狂暴な姿にも顔色ひとつ変えない。
青い空は澄んでいた。どこまでも、どこまでも。雲ひとつなく。鳥の鳴き声ひとつ聞こえないこの場所で、笑美はゆっくりと仲間を振り返った。
『――魔王、食べちゃった』
えへ、と小首を傾げる笑美を、ぽかんと仲間たちは見つめていた。
笑美が魔王の尾を自分の壺に突っ込んだ瞬間、魔王は笑美にどんどんと消化されていった。昨日の昼から何も食べていない上のオーバーワーク。笑美は相当、腹が空いていたらしい。
――お誂え向きに、その壺がよろしかろう。何とも役に立ちなさる。自分のお好きなようにお使いなさい――
おじいちゃん。
この世界に来て、初めてあたたかさをくれた。笑顔をくれた。そして、力をくれた。
壺の使い方を勝手に限定していたのは笑美自身だった。効果を付与した水を作ること。それしか出来ないのだと、そう思い込んでいた。けれど、そうではなかった。
何かないのかと冬馬に叫ばれた笑美は、壺しか思い浮かぶことが出来なかった。しかし、壺しか、ではなく、壺が、笑美にはあったのだ。
壺は欠けることもあれば傷がつくこともある。きのこを飲み込んだとはいえ、あんな大きなものが入る確証はなかった。傷ついた場合の命の保証だって、もちろんない。それでも笑美は、自分ができることをするため、一心不乱に駆けたのだ。
「お、おい、壺姫……?」
『と、と、冬馬ぁあああわあああ生きてるぅうう!!』
笑美は冬馬を見つけると、大声で叫びながら駆け寄った。もちろん、魔王を倒したところで笑美に声が戻るはずもない。笑美はだって、壺なのだから。けれどもう、その壺を。笑美が厭うことは無いだろう。
笑美は冬馬に駆け寄ると、ぎゅっと抱きしめた。体の隅々を点検するが、冬馬に大きな傷はない。かすり傷と呼べるような傷が、ところどころついているだけだった。
「――見た目はぼろくても、竜の牙さえ跳ね返す……」
震える声で、冬馬が呟く。羽織っていたボロボロのローブを手に取ると、冬馬はくしゃりと笑った。
「じっちゃんの言った通りだったなぁ」
老師に授けられていたローブが、魔王の爪を防いだ。猛烈な勢いに敗れ吹き飛びはしたものの、鋭利な爪が冬馬の体を貫通することは無かった。
よかった、よかったぁと抱き付く笑美にハッと気づくと、冬馬は笑美の肩を掴んで揺らした。
「そうだ、壺姫、大丈夫か?! あんなおっきいの飲み込んで!」
『あ、わ、わわわわ、ま、まって、ゆらさ、揺らさないで……』
吐く、さすがに吐く、と口に手を当てて制止のポーズを取ると、冬馬は揺らしていた手をピタリと止め、背をさすり始める。
「壺姫、無事か」
ソフィアに肩を担がれたコヨルが、瓦礫の向こうからやってきた。その後ろに、斧を背負ったヴィダルが続く。
「なんとも、ない?」
コヨルが朦朧とした意識で笑美に問いかけた。
三人とも、満身創痍だが、生きている。あれほど勝機も見えない中、彼らは決して挫けずに冬馬のためにチャンスを作り続けてくれていた。怖かったはずだ。辛かったはずだ、逃げ出したかったはずだ。なのに、彼らは、仲間たちは。仲間を信じて戦ってくれた。
笑美は泣き出したいのをぐっと抑えて、何度も何度も頷く。
感極まっていた笑美を、何かが強く抱きしめた。
「よくぞ、ご無事で」
切れ切れの、掠れ声に、笑美は胸が詰まった。自分の気持ちを、言葉を伝えたかったが、何も伝えることができなかった。だから笑美は、強くサイードの背にしがみついた。
「聖女様、今一度、この世の民としてお礼申し上げる」
片手を胸に、片手を背に。深く頭を下げたヴィダルに倣い、冬馬を除く全員が笑美に頭を下げた。笑美はそれを、見えないとわかっていても笑顔で受け取った。
笑美からサイードが離れた事を確認すると、ヴィダルはにっこりと笑う。
「おう、サイード」
爽やかな笑顔と明るい声とは裏腹に、サイードの腹に衝撃が走った。ヴィダルの拳が、深くみぞおちに入ったのだ。
地に倒れ咳き込むサイードに、笑美が駆け寄る。あまりにも突拍子もないヴィダルの行動ではあったが、サイードは素直にそれを受け入れていた。
「これは、隊長からの分。これは、幼馴染としての分」
そういってヴィダルはサイードに手を差し出した。サイードは苦笑を浮かべてその手を取る。
「守るなら、問答無用で守れ。俺らのこと気にしてるから、陣を練るのに時間がかかんだ」
「それは申し訳ないことを」
はてなマークを浮かべる笑美の隣でサイードが立ち上がる。立ち上がったサイードに手を伸ばされ、笑美は立ち上がった。満身創痍な皆に手当をしようとコップを探すために顔を動かした笑美が、信じられないものを目に入れる。
冬馬が、発光していたのだ。
蛍のような光が飛び散る。笑美はこの姿を、見たことがあった。桜が舞い散る穏やかな春の日に、笑美はこの光に包まれてこの世界へやってきた。
笑美はこの光の意味を、知っていた。
「これは――?」
光り始めた自分を不思議そうに見つめる冬馬に、サイードが穏やな声で答えた。
「帰還の火です。勇者様の帰還に定められていた条件が揃ったのでしょう。聖女様、勇者様とお手をお繋ぎください。常世へのお帰りです」
蛍の光よりも静かなサイードの声。雪が降り積もるようなその声に、咄嗟に笑美はサイードのローブを握った。ピクリとサイードの体が揺れて、笑美を見下ろす。
「私を、連れて帰るつもりですか?」
見たこともないような、柔らかい苦笑だった。
笑美は頷けなかった。その様子を見て、わかっているという風にサイードが頷く。今までにないほど、一等恭しく笑美の手を外した。
まるで宝物を触るかのように優しく触れるサイードの手に、笑美は戸惑った。笑美の戸惑いも視界に入れず、サイードは笑美の手を冬馬に手渡す。冬馬はしっかりと、笑美の手を握った。
サイードは、信じられないほど。優しく慈しむような目で、笑美を見つめていた。
「虎屋笑美」
なんで、こんなときに。
初めて、名前を呼ぶの。
「貴方はよく頑張った。聖女の名に恥じないお働きでした。冬馬、貴方も。私の弟子を名乗ることを許しましょう――よく食べ、よく笑い、健やかにあれ」
冬馬の体がどんどん光っていく。それは笑美にも伝染するように、笑美は冬馬と繋がっている手の境目が分からなくなっていた。笑美の左手からも、淡い光が放たれていく。
サイードは自分の髪から組紐を解くと笑美の壺の中に投げ入れた。茫然としている笑美の顔をサイードが両手で包む。
撫でる熱が、くすぐる匂いが、引き寄せ合う瞳が、重なる唇が。
何よりも如実に、サイードの心を物語っていた。
「――貴方が、この地でも咲く花であれば、よかったのに」
笑美は衝動で足を前に踏み出していた。サイードの手が、ひらりと離れる。たった今まで触れていたはずなのに、もう手を伸ばしても、触れられない。笑美の延ばした手は、サイードの体をすり抜けた。
「壺姫!」
わかってる、わかってるけど!!
冬馬の手を離せない。手はもう溶けてしまって、緑色に光っている。もうすぐに、全身に光が届くだろう。
サイードは柔らかく微笑んで笑美を見ていた。
笑美は到底、微笑むことなんてできない。この名前に相応しくあれと、なるべく笑顔を心掛けていたというのに。笑美は今、全く笑えなかった。
『やだ、やだよ、なんで、なんでよ、やだやだやだ、なんで最後に、こんな、やだ、やだ! 知らない知らない、もうサイードなんて、知らない!!』
誰にも聞かれていないことをいいことに、笑美は気持ちを吐き出した。
本当は、もっときちんと皆と向き合って。今までのお礼とか苦労話とか、沢山したかった。なのに、なのにさ。
無理、無理だよ、だって。
『うそ、知らなくない。帰りたくない、傍にいたい。ねぇ、ねぇ。サイード、嫌いじゃないでしょ、言って、言ってよ。傍にいろって、言ってよ!!』
そうしたらきっと、魔法が。ねぇ、ねぇサイード!
望む私の気持ちを、サイードは全て受け止めるかのような、穏やかな笑みを湛えている。
知らなかった、こんなの。全然知らなかった。
魔王は倒した。世界を救った。サイードは無事だ。皆も無事だ。これからきっと、私たちがいなかった日常に戻るだけ。サイードは死なない。命の危機はない。なのに、それなのに。
もう会えない。
それが、こんなに、こんなに――辛いものなの。
『サイード、サイード! ねぇ、ねぇ――』
光が溶けていく。
蛍が散らばり、青い空に吸い込まれていった。
二人がいた場所で、小さな瓦礫がコロンと音を立てた。
***
「ひっ、ひっく――ひっく……」
自分の声を久しぶりに聞いたな。笑美が最初に感じたのは、そんなことだった。
穏やかな春の陽は優しく笑美を照らしていた。あの日、あの時、この場所で。サイードと出会った。サイードの雪のように美しい髪が、笑美に今こうして降り積もる桜よりも、ずっとずっと綺麗で。
私はきっとあの時に、彼に囚われてしまっていたのだ。
「きゅええ……」
知らぬ間に握りしめていた何かが、笑美の腕の中で鳴いた。ぺろぺろと、笑美が零す涙を舐めとっている。
笑美のセーラー服に、黒色の組紐がへたりと掛けられていた。茶色く薄汚れたセーラー服には似合わない、高級感のある金糸を施した意匠だった。それは、笑美と同じ髪の色。
「かえって、きちゃった、きちゃったよぉ……」
腕の中の物体を抱きしめ、笑美はしばらく蹲って泣いていた。




