21 : 君の笑顔が、
「団長、団長!」
魔王城の一室で、ソフィアの悲鳴が木霊した。夢のように白く広い空間はソフィアから思考を取り上げ、愛情を増加させた。深い霧の中で一人、ソフィアは蹲り胸に男を抱く。
「団長、息をして、団長、団長!」
旅の間、一度も呼んだことのない呼び慣れた呼称がソフィアの口から幾度も噴き出す。少しばかり適性を持っている癒しの魔法を惜しげもなく使っても、腕の中の男は息を吹き返さない。
「だんちょ、だんちょぉ――おねがい、めを、あけて……」
ソフィアの声は腕の中の男には届かない。
――そしてまた、ヴィダルの声もソフィアには届いていなかった。
「ソフィア! 立て! 敵はまだいるんだぞ!!」
大剣を振り回しながら、ヴィダルはソフィアに怒鳴りつけた。ソフィアは涙に暮れ、ヴィダルの言葉に耳を貸さない。ただ一心に、胸に抱いた事切れた魔物に呼びかけている。幻覚に侵されたか、とヴィダルは舌打ちをした。
笑美とコヨルを置いてヴィダル達が旅立ったのはもう丸一日近く前のことになる。馬車を転がすよりも随分と短い時間で魔王城に辿り着いた彼らは、勇者冬馬の持つ強力な魔法の元、魔王城最上階まで順調に歩を進めてきた。
上に登れば登るほど狭くなる廊下での戦闘は不利と、広間に入った途端に一行は深い霧に包まれた。視界を遮られながらも、前線で戦っていたヴィダルとソフィアは撲滅速度が落ちていることに気づいた。後方援護をしていたはずの魔法使い二人の姿が霧の中に消えていた。はぐれたか、とソフィアとコンタクトを取ろうとしたヴィダルが見たものは、魔物を抱え、膝をついているソフィアの姿だったのだ。
それから、ソフィアはずっとヴィダルのことを呼んでいる。霧には幻覚と錯乱の魔法でもかかっていたのだろう。いくら呼びかけても呼びかけても、ソフィアは正気を取り戻さなかった。
魔法耐性の強いヴィダルはまだ正気を保てているが、それもいつまで持つかわかったものではない。
幻覚は術者に利くことはない。共に幻覚にかかってしまえばヴィダルとソフィアは、すぐに術者によって葬られるだろう。ヴィダルは必死に正気を保った。
「団長、団長!!」
ヴィダルはこの甘い幸福に、自分の方こそ幻覚を見ているのではないかと剣を持つ腕が震えた。
「ソフィア、立て! 後にしろ! くそっ――肝心な時に魔法使いがいやしねえ!」
幻覚を破る方法はふたつ。
ひとつは術者を倒してしまうこと。これは先ほどから必死にヴィダルが探しているが、どの魔物が幻覚を操っているのかヴィダルには全く検討がつかない。手当たり次第に倒してはいるが、術者がわざわざ自分から突っ込んでくることはないだろうとヴィダルはわかっていた。
そしてもうひとつは、幻覚を操る魔法使いよりも高位の魔法で打ち消す方法。しかし、魔法の素養がからっきしなヴィダルには、この方法は難しかった。
「いやだ、団長、いかないで!」
深い幻覚は心を犯し、錯乱していく。取り乱せば取り乱すほど、ソフィアは深い術にはまっていった。
「待って、まだ、まだ傷が塞がるはず、壺姫に、彼女の聖水なら――」
戦場ではいつも冷静さを欠くことがなかったソフィア。だからこその、右腕だった。だからこその、副長だった。どれほどの劣勢でも冷静に状況を見極め、常にヴィダルを支え続けた。
ソフィアを狙う魔物をヴィダルが足で振り払った。二人がかりでやっと倒していた魔物たちだ。広間は広く、武器を振るう分にはよかったが、その分敵が集まりやすいという不利点もある。
常ならばこれほどの数をこんな見晴らしのいい場所で一度に相手取ったりなどしない。逃げまわりつつ、敵に囲まれないよう一匹ずつ対峙すれば死角を減らせるからだ。なのに今、守らなければならない存在がいるヴィダルにその戦法はとれなかった。
ヴィダルは大剣を片手で持つと、予備の武器として持ってきていた片手剣をもう一方の手で振るった。持ち前の腕力で突っ込んできた魔物をなぎ倒す。その大振りな動きに見合った隙を見逃さず、魔物がすかさず腹に牙を突き立てた。その魔物に、片手剣で止めを刺す。腹に魔物をくっつけたまま、ヴィダルは次の敵に向かった。
ソフィアが邪魔だ。
彼女を守りながら戦うのはこれ以上は不可能だった。
腹から噴き出す血を止血する暇はない。今はただ一秒でも早く、この場を切り抜けるしかなかった。
「ソフィア!」
最後のつもりで名前を呼んだ。ソフィアに騎士としての名誉を与えるか、自分にとってかけがえのない者として自ら引導を渡すか――ヴィダルにはもうそれしか選択肢が残されていなかった。
「行かないで、おねがい、また、おいていかないで」
ソフィアの声に、ヴィダルは歯を食いしばる。
――また、おいていかないで。
その言葉に、ヴィダルは一瞬ここが戦場だということを忘れた。
その昔、ヴィダルはソフィアの姉と婚約を結んでいた。王侯貴族では珍しいことではない。当時15歳だったヴィダルも例に漏れず、領土と年の近かったソフィアの姉と将来を共にする運命にあった。
ヴィダルの婚約者はたおやかな女性だった。
およそどんな男でも喉を鳴らして生唾を飲み込む白い肌。豊満なふたつの丘。緩やかな髪は真っ直ぐに伸びていて、太陽と同じ色をしていた。
微笑みひとつで男を魅了する彼女の婚約者になれた僥倖を、ヴィダルはとにかく周囲に自慢しまくった。同世代のマドンナでもあった彼女の婚約者の座に収まったヴィダルは、周囲の男たちの羨望の的にあった。
そんなヴィダルにとっての幸運は、彼女とは別にもうひとつあった。婚約者の後ろをついて回るおてんば娘。婚約者の妹であるソフィアだった。
くるくるの髪の毛は姉と同じ色をしているものの、くせがひどく羊の毛のようだった。そばかすだらけの頬は、まるでまんじゅうのよう。恥ずかしいことがあるとすぐ真っ赤になる桃色のまんじゅうを、ヴィダルはいつもつついてからかっていた。
ソフィアは姉に会いにヴィダルが赴く度に、必ずいの一番にすっ飛んできた。今日は凧揚げをするだの、木登りを教えろだの、弓を教えろだの。これが本当にあの深窓の令嬢の妹かと、婚約者とのギャップに最初の内はよく驚いたものだ。しかしヴィダルは、自分に懐き、片時も離れなくなったソフィアが、可愛くて堪らなくなっていた。ソフ、ソフと。ヴィダルにだけ許された愛称で呼んでいた。
ソフィアは、ヴィダルが婚約者の館から帰る時、いつもこの世の終わりのように泣き叫んでいた。
『いやだ、いやだ。ソフィーをおいてかないで』
わんわん泣くソフィアの声を聞いてしまうと、駄目だった。娘の一言が出てしまうと、娘に甘い婚約者の父は王城に遣いを出すのだった。
毎日が幸せだった。尊敬する父の背を見て育ち、競い合う兄弟の目は澄んでいて、武に優れ勇に誇り友に恵まれ、世間が羨む婚約者がいる。ヴィダルは自分の人生に何ひとつとして不幸を感じたことがなかった。
なので、『世界を見に行きたい』と世迷言を呟いた幼馴染と家を飛び出したことも、当然と言えば当然の成り行きでしかなかった。ヴィダルは生きていく矢印の向こうに不幸が存在したことがなかったのだ。
旅は楽しかった。喧嘩もしたし、命の危険も感じたし、やってられるかと全てを投げ捨てたくなることもあったが。自分の手が届かないほどの自由が何よりも楽しかった。
自分が楽しいことは、他者も楽しいのだと信じて疑わなかったあの頃。
置手紙ひとつで家を出た自分を、もちろんのことながら婚約者は待っていてくれなかった。
18になり家に帰ると、婚約は破棄。母は怒り狂って敷居をまたぐことを許してくれず、ヴィダルはそのまま騎士団へと逃げ込んだ。幼い頃から母が苦手だったヴィダルは、これ幸いと父に願い出て、臣籍を手に入れた。
胸の大きな嫁をもらうことができなくなり、王族ではなくなったが、それでもヴィダルは幸せだった。
騎士団員となり幾度かの季節が廻った。騎士としての誇りを持ち始めたころ、ヴィダルは思わぬ再会をしたのだ。
自分の後をついて回り、そばかすだらけのピンク色のほっぺを染めて木を登らせろとせがんできていた、可愛い可愛いヴィダルのマイレディ。
彼女に、当時の面影は見る影もなかった。
そばかすは消え、くるくるの髪を撫でつけひっつめたソフィアが入団してきた。姉譲りの穏やかな笑みで分け隔てなく接するソフィアは、当然のように男たちの注目を集めた。ソフィアはあの姉にも劣らないほど、美しい女性に成長していたからだ。深窓の令嬢であった姉にはない肉感的な体は、座禅室を大人気スポットに変えさせたぐらいだった。
女騎士もいるとはいえ、圧倒的に数が違う。男ばかりの騎士団でやれるのかと、ヴィダルはソフィアが心配でたまらなかった。しかし、いつの間にか身に着けていた粗野な男言葉で周囲の壁を取り払ったソフィアは、いつしか自然に騎士団に溶け込んでいった。
もちろん、実力主義の青騎士団に入団した時点でソフィアの腕も測ることが出来た。泥だらけの小さな手はタコのできた固い武人の手に。まんじゅうのような白い頬は小麦色に。もう、ヴィダルの支えがなくとも木も自在に上れるだろう。
懐かしさから声をかけたヴィダルは、再び笑顔を向けてもらえるものだと信じていた。
泥だらけの手と歯抜けの笑顔は向けられずとも、たおやかで穏やかな笑みをもらえると、そう信じていた。
しかし、冷たい瞳は真夏をも切り裂いた。
まんべんなく振り撒かれるソフィアの笑みは、ヴィダルにだけ向けられることがなかったのだ。
これが、自分の犯した罪だとヴィダルは知った。
姉の信頼を裏切り、幼いソフィアの心を傷つけた。ヴィダルに寄せられるのは業務上の信頼であって、遠いあの日のような温かい愛情ではない。
それでもいいと思っていた。それでいいと思っていた。自分は幸せなのだと、そう思っていた。
それが、いつからだろうか。自分にだけ向けられることのないあの笑顔を、他者に向けているソフィアを見る度に、胸が疼いた。
団長として決して抱いてはいけない感情を団員に持つことになってしまった。あの小さな泥だらけの手を、切望するようになった。
その時にヴィダルはようやく気付いたのだ。ヴィダルが失った幸せは、もう二度と、彼の手の届かないところへ、零れ落ちてしまったのだと。
ソフィア目がけて鉄球のような魔物の尻尾が振り払われた。ヴィダルは肩当てでそれを弾き返す。びりり、と衝撃で腕が痺れた。反動で、再び腹から血が噴き出る。
「いい加減に、立て! ソフィア・リーネル!!」
避けた魔物とは別の魔物の腕がヴィダルの二の腕を切り裂いた。
見捨てることも、切り捨てることもできなかった。
我が身を食い千切られてでも守りたい女を捨ててまで、世界を助ける意味がヴィダルにはなかった。
「ソフィア!」
ふらつく頭で張り上げた声は、錯乱しているソフィアの元に届かない。なのにヴィダルは、斬撃でかき消されるほど小さな声を拾っていた。
「――いかないで、ヴィー……いかないで」
あぁ駄目だ。
やはり自分は幻覚に陥っているらしい。
「ヴィダル! しゃがむ!」
ヴィダルは声に反応して、反射的に伏せた。
『う、う、うそ! まっ、待って、きゃーーーーー!!』
今までヴィダルが立っていた場所に、ブンッと棒のようなものが振り回されたかと思うと、びしょ濡れになったソフィアが目をぱちくりとさせてこちらを見上げていた。
この場所で聞いてはならない声の持ち主を、同じく水に濡れたヴィダルは振り返る。笑美の足を掴み、フンと鼻を鳴らす小生意気なコヨルの姿がそこにはあった。
笑美は振り回された衝撃で目を回しているらしい。どうやら、ジャイアントスイングでソフィアに笑美の水をかけたようだ。魔王の瘴気にあてられ混乱した馬を沈めたのと同じ方法だとヴィダルは気づいた。
聖水をかけられたソフィアは、パチパチと大きく瞬きをする。呆けているソフィアの上に飛びかかってきた魔物をコヨルが飛び道具で始末した。
「ボケッとしない。次、来る」
「え、え――と……?」
突然現れたコヨルに、そして目の前で呆れた顔をしている男に。ソフィアは動揺を隠せなかった。今まで胸の中で事切れていた男が今、不遜な顔で自分を見下ろしているのだからそれも仕方ない。
ヴィダルは不覚にもほっとしていた。突然現れた予期せぬ仲間と、聖女の水が呼んだ奇跡。ヴィダルは手を握って広げた。血の流しすぎで鈍くなっていた感覚が戻っている。
正気と勝機。そのどちらも戻ってきた。
「お前なぁ。戦場で泣き崩れちまうくらい俺のこと好きだったわけ?」
甘い夢をここで断ち切ろうとヴィダルは軽い口調でソフィアに告げた。大剣を両手で構え、敵の刃を受け流す。
飛んでくるのは罵倒か鉄拳か。どちらでもいいから立ってその身を守ってくれよとソフィアを見たヴィダルに飛び込んできたのは、
なによりも如実にソフィアの心を伝えた、頬の桃色。
幼い頃に見せた、まんじゅうのような頬だった。
顔を真っ赤にして口を戦慄かせたソフィアに、ヴィダルはぷっと噴き出した。
「なんだ――先走らなくてもよかったな」
「下品。非常事態に何垂らしてる」
「おう暴発するとこだったわ」
「な、なんの、会話を!!」
更に顔を赤らめて反発するソフィアを見て、ヴィダルが笑った。手だけは立派に今まで通り魔物を切り倒しているのだから御見それする。いや、今まで通りどころか。その何倍も軽やかな手さばきだった。
「ソフィア。俺のへそくりはブリュノを通してお前に譲与することになってるから」
「は、はぁ……?」
いつものキレが寸分もないソフィアは、コヨルとヴィダルの動きを見て今がどういう状況かやっと思い出したらしい。くらくらと頭を抑えながらしゃがみ込んでいる笑美を守るため立ち上がると、転がっていた剣を拾って構えた。
何を馬鹿なことをとソフィアは剣を振るった。そんな手続きをした覚えはない。ソフィアは魔物の目に剣を突き刺した。
ヴィダルの言うへそくりとは、家令が管理しない彼個人の私財だ。
分の悪い投資や、頭の固い家令には言えない夜の街での刺激的なことに、彼はこっそり興じていた。そうして密かに貯めたへそくりは、ちょっとやそっとの額ではない。あまりにも続く0の数に腰が引けたヴィダルは、ソフィアに管理を頼み込んだ。上司の、それも内緒の遊び金など絶対に預かりたくないと強く断るソフィアに、ヴィダルもまた、しつこく追いすがった。最終的にはヴィダルの懇願に負けたソフィアが、法的な手続きも含め細々と管理していた。
もちろん旅立つ前に、ソフィアは必要なものをヴィダルに一式返却している。上司の私的財産を横領など絶対にしていないし、名義変更の手続きだって勝手に行っていない。
段々と頭が回り始めてきたソフィアは、ヴィダルの世迷い事ごと、魔物を切り捨てた。
そもそも、私財を管理するだけならまだしも、譲与ともなればその手続きは計り知れない。未婚のソフィアに不名誉な噂が立たないためと、ソフィアの従兄のブリュノを挟んでの譲与ともなれば更にその手間は増える。例えば今回の魔王討伐隊出立を受けての緊急措置が適応されたとしても、本人の承認なしで他人への譲渡など成り立つはずがない。
権力を笠に着せれば別だろうが、ことさら爵位を振りかざすことを嫌うヴィダルが、そんなことするはずがないとソフィアは知っている。当然、頭の固い上との折り合いも悪い。そんな融通を利かせてもらえる相手が、官吏受けのよくないヴィダルにいるはずが――
ソフィアは魔物の口に剣を突き立てる。前足を片足で踏みつけると、喉の奥まで深く剣を押し込んだ。
――公に発表されていない勅命を一介の侍女に告げるなど、減俸ではすみませんよ
あの時。
風紀は乱しても規律は守るヴィダルの行動を、何故不審に思わなかった。
あの侍女は誰だったか。ソフィアは魔物を弾き飛ばしながら記憶の隅を漁っていた。あれは、確か。
財政長官の姪御だったのではないか。
「な、なん、なんで」
「なんでって。俺の持ちもんは俺が死ねばほとんど全部国に還るからなぁ。お前にやれるのはあれぐらいしか――」
「そうではなくて! なぜ私に! もらういわれが……!」
「俺が死んだ後ぐらい、お前のこと大事にさせろよ」
ポカンと口を開けたソフィアの足元にヴィダルが大剣を振るう。ソフィアも、呆けながらも体は動いていた。騎士団に所属して十年。ソフィアの身に沁みついた、ヴィダルとの呼吸だった。
「あーあ、お転婆娘が。こんなとこまでついてきやがって……大人しく騎士団に残ってりゃあ、終焉の日までは豪遊して暮らせたのになぁ」
ソフィアはぐっと唇を噛みしめた。
なんだ、なんなんだ、くそったれ。こっちの気なんて、何も知らないくせに。
「ヴィーの、ばかやろう」
「おぉ、おぉ。口の悪いソフちゃんのおかえりか?」
「うるさいっ!!」
とにもかくにも、とりあえずは目の前の敵だ。ソフィアは気持ちを切り替えて魔物に剣を向ける。
桃のような色の頬の熱が収まるのに、ソフィアは随分と時間を必要とした。
***
「――で、これはどういうことですか」
嫌味が吹雪いた。
これ以上ない程顔を顰めながら声を絞り出したサイードに、てへ、と小首を傾げたのは笑美だ。ちゃぽん。お馴染みの音がする。
ジャイアントスイングですっからかんになった壺には、コヨルが持ってきていた水を補充している。あれほど慌ただしい中でもきちんと旅の用意をしていたコヨルのパーペキ具合に、笑美は頭が上がらない。
サイードと冬馬は、白い霧によってヴィダル達と引き離された。
分断されたことに二人が気づいた時には、既に周囲を敵に囲まれていた。二人は前衛がいない中、冬馬を攻撃役、サイードを回復役とし、逃げた。ひ弱な魔法使い二人が相手をしていい数ではなかったのだ。
逃げながら追いかけて来る敵を倒しつつ、サイードと冬馬はヴィダル達を探し回った。
そして、なんとか合流できたサイードと冬馬は、血濡れた姿に悲鳴をあげるムンクの壺を見たのであった。
「貴方は、私がなぜ置いてきたのか全く分かっていない」
『わかってる! 大丈夫、敵は倒せないけど、ちゃんと水、作るから。足手まといにもならないように気を付けるし、気持ちも取り乱さないよう頑張る!』
握り拳を作って身を乗り出す笑美に、サイードは眩暈がした。
「何故わざわざ、死を選びに来た」
『大丈夫、死なない』
「安全な場所で、ぬくぬくと祈祷していればよいものを」
『だってそれじゃ、守れない』
「貴方に、何が出来ると」
『ごめん、でも』
サイードに覇気はない。想定外の出来事ばかりを運んでくる笑美に呆れ返っているのだろう。サイードに呆れられるのは怖かった。しかし、サイードが、仲間が死ぬことのほうが、笑美はずっと怖かった。
笑美は一呼吸置いて言った。
『私、皆の仲間だって、思ってるから』
笑美は聞こえないとわかっていながら、サイードの手を握る。気持ちの欠片でも、何かが。サイードに伝わればいいとそう思って。
『けどきっと、迷惑もかけると思う。だから――』
笑美はホセに言えなかった言葉を言おうとして、喉で止めた。サイードに聞こえていないとわかっているのに、彼に直接伝えることが、こんなにも恥ずかしい。
笑美は小首を傾げて、口を開く。けれど言えずに、口を閉ざして俯いた。勇気を振り絞り震える唇を薄く開き、サイードをこっそりと上目づかいで盗み見る。
『お願い。守って』
サイードの手をぎゅっと手を握りしめる笑美に、サイードは片手で顔を覆い心の底から息を吐き出した。
「なぜ常世はこのような聖女を遣わせたのか……幾度祈っても、女神は嘆きを聞き届けてはくださらない……」
あぁやっぱり、駄目か。落ち込む笑美の手をぐっとサイードが引いた。重なる視線に笑美は息を飲む。
「離れれば見捨てます。よろしいですね?」
サイードの夜空色の瞳を笑美が見つめる。いつか、サイードが笑美に似合うと言ったラピスラズリの宝石のようだった。
湧き上がってくる歓喜を受け止めると、笑美は満面の笑みを浮かべて頷く。
「サイード様、お役目守れず、申し訳ございません」
膝をつき、深々と頭を下げたコヨルのために、笑美はサイードの手を離して脇に逸れようした。しかし手を掴んだままのサイードがそれを許なかった。笑美はつんのめり、サイードの体にポスンと寄りかかる。
「……顔を上げなさい。それと――私のことは主と呼ぶように」
サイードの返事に、コヨルは言葉を詰まらせる。一拍後、やはりいつものように固い声で、承知しましたと呟いた。
「見捨てるとかこえーなー。来ちゃったもんはしょうがないじゃん。俺が守ってやるからな」
『ぉぉう、冬馬、どうしたの似合わない……かっこいいぞ……』
笑美は口元に手を当て、冬馬の急なイケメン度にドギマギする。その笑美の心情を知ってか知らずか、今度は冬馬がえへっと首を傾げた。
「いやー実は来てくれてかなり助かったわー。“健康祈願水”、作ってくれよ。あれMPポーションだったらしくってさぁ……俺もう、魔力スッカラカン」
ひらひらと手を振る冬馬に、笑美は合点! と敬礼した。“健康祈願水”なら眠っていたって作れる。サイードにくっついたまま、むむ、と両手を合わせて祈りを込めた瞬間、背後で何かが動く気配がした。
え、と笑美が思った時には既に全員動いていた。
しかし一歩遅かった。先手を取られてしまった代償は、小さく大きかった。




