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19 : かけがえのないもの

 荒野を駆ける。

 太く逞しい蹄が土を蹴り、砂埃を舞わせた。燦々と照る太陽の木陰を作る木すらこの辺りには一本も生えていない。

 馬車は真っ直ぐに、魔王城へと向かっていた。





 馬が突如大きな嘶きを上げ、前足を上げて取り乱す。邪気を祓ってから問題なく走行していた突然の馬の暴挙に、馬車は大きく揺れた。


 その時、何重にも重ねられた絨毯を突き破り、鋭いドリルのようなものが床から天井を突き抜けた。あまりの勢いに負け、斜めに傾いた馬車はそのまま横転する。


 ガランドンガラガシャン――

 ものすごい音を立てて壁に立て掛けられていた武器や行李が転がった。


 真昼だったため、クッションにもたれ掛っていた笑美は何事かと飛び起きた。また瘴気にあてられたのだろうか。笑美の脳裏に昼間のことが駆け巡る。

 ぐいと手を引かれたと思った次の瞬間には、骨が軋みそうなほどきつくサイードに抱きしめられた。横転するキャラバンの流れに逆らわぬよう、だるまのように身を丸くして床を転がる。混乱した頭で現状を把握しようとしたが、サイードが覆いかぶさっている笑美には、彼の胸しか見ることが出来なかった。


「旅立つ鳥と白い夢」

 サイードの号令を受けた冬馬が瞬時に魔法を展開する。サイードはサイードで何かの魔法を開いた。


「地中から敵! 大型のサソリ、“悪夢割き”です!!」

 御者席からソフィアの切羽詰まった声が、キャラバン内に届いた。


 キャラバンを地面から突き刺さしたのは、禍々しく黒く光るサソリの尾。固い鱗は木も布も、まるで空気のように切り裂いた。

 サイードの腕の隙間から笑美が見渡した時には、すでにキャラバンにコヨルとヴィダルの姿はなかった。外から、固い金属同士がぶつかり合う音がする。ヴィダルが大剣を振るっているのだろうと、今までの経験で笑美は察した。

 応戦するため冬馬とサイードも外へと出るらしい。


「くれぐれもお出でになりませんよう」

 いつもの減らず口もない。本当に緊急なのだとわかるサイードの固い声。笑美は彼を安心させるために、何度も首を縦に振る。

 戦闘の音が響く中、物が散乱し、横転したキャラバンの中で笑美は背筋を伸ばして祈っていた。


 どうか、どうか彼らが無事でありますように。天の神でも、全てを慈しむ女神でも、伝説の魔法使いでも、救世の王子でも、ママでも、もう誰でもいい。どうか、彼らを助けてくれますようにと。ただそれだけを笑美は祈った。





 外から激しく響いていた衝撃音が止む。笑美は居ても立っても居られずにキャラバンを飛び出した。

 黒く光るサソリの甲羅にヴィダルが大剣を突き刺している。ゾウよりも大きなサソリの上に座り、明日の昼飯にでもするかと談笑していた。

 ひぃふぅみぃよぉいつ。全部で五人。しっかりと立っている。

 笑美はもつれる足で地を蹴った。


 走ってきた笑美を受け止めたのはソフィアだった。いつもならよろめきひとつないはずなのに、ソフィアは駆けてきた笑美の体重に耐えられなかった。

『わ、ごめんソフィ――ア』

 トスン、と尻もちをついたソフィアに謝罪しようと、慌てて立ち上がった笑美が見たものは、顔面を血で化粧したソフィアの姿だった。呆然と目を見開く笑美に、ソフィアが微笑みを浮かべる。

「安心して。出血量が多い場所を切っただけだよ。大事ないから」

 ソフィアの血がぽたりと地面に沁みを作る。その姿を見て固まってしまった笑美の手を、誰かが強く握った。

『いたっ』

「お怪我を」

 笑美の手を持ち上げたのはサイードだった。鋭い目つきで笑美の腕を睨みつけている。笑美はサイードに釣られて自分の腕を見た。肩から肘まで、ぱっくりと肉が開いていた。

 いつ怪我をしたのだろうか。サイードに抱えられ、キャラバンの中を転がった時だろうか。笑美は今まで全く感じなかった痛みを強く感じ、蹲りそうになる。

「お静かに、すぐに治癒します」

 サイードが笑美の腕に向けて手を翳す。笑美は慌ててサイードから体を離した。


 目を見開くサイードに、笑美は『やめて』と言って首を振った。両手を合わせて目を閉じ、痛みを追いやって祈る。


 今祈らないで、なにが聖女だ。

 仲間の危機を支えられず、なにが聖女だ。


 笑美は祈った。


 出来るなら、どうか。一瞬でも早くこの痛みを取り除いてほしかった。その思いを全て、全て、水に溶かす。


 痛い、と痛みに泣くのではなく。

 痛みよ早く立ち去れと。いたいのいたいの、とんでいけ。


 自分の痛みの時には気づけなかった。ソフィアの痛みを早く取り除きたくて、笑美は一心に祈った。


 ふらつく頭を押さえながら笑美がコヨルを呼ぶ。笑美の手招きに、コヨルはすぐに飛んできた。

『掬って』

 コヨルの手を取り、壺に近づけると承知したと頷いた。コヨルは懐から木のコップを取り出すと水を恭しく掬った。壺の中に手を入れられる感触はやはり慣れず、腕の痛みに気分の悪さが加わった。

 ふらついた笑美をサイードが支える。今度は離れることは許さないというように、ぐっと笑美を抱く力を込める。


「ソフィア」

 差し出されたソフィアは戸惑いつつも、すぐにコヨルの差し出したコップに口を付けた。ここで笑美に先に勧めたとしても、サイードの手当てを断った彼女がすんなり飲むことは無いと判断したのだ。聖女に一瞬でも早い休息を。ソフィアは武人としての覚悟で、コップを傾ける。


 ソフィアの体が癒されていく。傷が塞がるのはもちろん、流れた血まで湧いてくるようだった。ソフィアはぐっと涙を押し込んで、笑美の前にしゃがみ込む。


「壺姫、いえ。聖女様。大変立派な聖水でございます――もうどこも、痛くない。大丈夫だよ」

 笑美の手を握り熱いものを堪えながらソフィアは最後まで言葉を紡いだ。安心した笑美はほっと体の力を抜く。

「さぁ次は壺姫の番だ」

 ソフィアの声でコヨルがコップを壺に差し込んだ。コヨルは水を掬い取ると、笑美の負傷部分にかける。みるみるうちに変化していく自らの体に、笑美は驚いた。

『すごい、本当に効くんだ』

 笑美は傷が癒えた安堵と、自分の作った薬が役に立ったという事実に浮かぶ涙を抑えられない。役に立てた。笑美は初めて、心から強くそう思えた。


「急ぐか。ここは元々魔獣の多い地域だ。加えて魔王の影響で活性化してる」

「正直なところ、連戦は厳しいですね。出来るだけ体力を温存して、魔王城に挑みたい」

 ソフィアは遠くを見つめながら言った。その視線の先には、きっと魔王城があるのだろう。目視はまだ難しい距離だが、このペースであと半日も進めば魔王城に着く。


『馬にも飲ませて、お願い、サイード』

 笑美を腕に抱き見下ろしているサイードに、どうにか伝えようかと笑美がもたつく。もう大丈夫だから離してもいいんだけど。それもどう伝えていいのか、腕のあたたかさに笑美はわからなくなった。

 その時、ものすごい地響きが大地を震わせた。ヴィダル達が一斉に陣営を張る。


 砂煙と共にやってきたのは馬に乗った人間だった。

 魔物ではないことで警戒を解いた冬馬とは違い、ヴィダルは大剣を構えたまま前方を見据えている。


 大サソリを前にすると馬が屈とうして止まった。砂埃の中から人の輪郭が浮かび上がっていく。

 帽子を被りマントを羽織った男性を中心に次々と馬が止まっていった。先頭の男性が顔を覆うほど大きなゴーグルを外す。キラリと、太陽がゴーグルに反射して光った。


「おーっと、狩り終わってたかな。こりゃ結構。ここいらの“悪夢割き”は魔王の影響力でそこそこの難易度になってたんだが――まぁここまで来る手練れだ。そんぐらいでなきゃあなぁ」


 カカカと声を上げて男は明瞭に笑う。渦巻いていた緊迫した空気を吹き飛ばすようだった。


「――と。ありゃ。まさか、お前さん、ヴィダル……そっちはサイードか?」


 男は目を見開いてサイードとヴィダルを見た。知っている人物なのだろうかと笑美はサイードを見上げる。サイードはいつも通りの表情をしているが、笑美を抱きしめている腕の力が抜けていた。安心しているのだろうと笑美は感じ取った。


「お前は……火竜のホセか」

「おーっと。そんな素晴らしい名で呼んでくれた礼はしねぇとなぁ。業火のヴィダルに、白雪の貴公子サイード」


 とんだとばっちりですね。と呟いたサイードの声は届かなかった。ヴィダルの大笑いにかき消されたのだ。


「久しぶりだなぁ! 何年ぶりだ、え? 年とったなぁおっさん!」

「おっさんにおっさん言われたかぁないのう」

 カカカと笑ったホセは一行の状況をぐるりと馬上から確認した。

 転がったキャラバン、倒れている馬、血を流している女。状況はホセにとって中々興味をそそられるものだ。


「どうすんだいホセ」

 走り出したいのか、足を動かす馬を馬上で宥めながらホセの後ろの男が口を開いた。ホセはカカカと笑って指示を出す。


「サソリ狩りは奉迎に変更だ。勇者様ご一行、村総出で歓迎だ」




***




 ホセ達の協力の元、転がったキャラバンを起こし、馬車を引く馬を替えた。冬馬が冷や汗を流しながら『これ、詐欺集団とかじゃないよな』と不安になるほどに、ホセの連れてきた男達は親切だった。


 乗馬している人は、馬車と歩を合わせゆっくり進む。

 しばらく移動した先に、彼らの言う村はあった。

 案内された場所は村と言うよりも小さな集落のようで、笑美の想像していた村とはずいぶん趣が違った。遊牧民が暮らすゲルのようなものを有り合わせの素材で作ったものが、ぽつんぽつんと点在していた。それ以外には、店も塀も何もない。

 笑美はキャラバンの窓から顔を覗かせ、その様子をしげしげと観察する。


 ホセの指示で先に戻っていた男が村の入り口で両手を振っていた。その後ろには、わらわらと人が集まっている。

 その様子を見てサイードは頬を引きつらせるどころか、何故か少し安堵しているようだった。こんな目立つこと、今までなら絶対に許さなかったくせに。笑美はサイードの顔を見て、何故か一抹の不安に取りつかれた。


 村に着きキャラバンから降りると、わっと人垣が寄ってきた。サイードはごく自然な動作で、笑美をローブの中に仕舞う。


「ホセが勇者一行を連れてきたって?!」

「でも速報が出てからまだ二月近くだよ」

「しかしティガール国の青騎士団長と王宮魔法使い官長がいるらしいぞ」

「なら本物か……」


 馬車飛ばしたもんねーと笑美は頷いた。サイードのローブがもぞもぞと動く。笑美の動きが揺れでわかったのか、サイードが諌めるように肩を抱く力を強くした。


 カカカと笑いながらホセが馬から飛び降りた。彼は、サイードとヴィダルが傭兵と言う名の放浪の旅に出ていた時の仲間だったらしい。

 当時10代だった二人はそこそこにやんちゃだったという。若い二人を諌め、戦い方を教え、そして勝たせてきたのがホセだ。二人にとっては、頭が上がらない存在でもあるのかもしれない。

 タイミングよく現れたのも、見張り台から魔物の出現を監視していたかららしい。


「さぁ歓迎の宴でもしようじゃないか。魔王城への挑戦は明日でいいだろう?」

「ホセ、話があります。招待していただくか、受けてほしいのですが」

 サイードの言葉にホセは振り返った。

「ダメだ。宴はせんといかん。お前らは、明日誰が死んでもおかしくないんだ」

 せっかちなサイードをよく知るホセは、わかり切っていたようにそう告げた。


「ええ。その事で折り入って相談があるのです。ぜひ聞いていただきたい」

 涼しいサイードの言葉にホセは笑う。彼はサイードがせっかちなことも、頑固なこともよく知っていたらしい。しょうがないと言って、ゲルのひとつに入っていった。サイード達はそれに続く。


 ゲルに全員が入ったのを確認すると、ホセが両手を大きく広げた。


「ようこそ、最果ての村へ」

「最果ての村?」

 今まで静かについてきていた冬馬がついに口を挟んだ。ホセは小さな冬馬に今気づいたというように片眉を上げると、鷹揚に笑った。


「そう。ここから先、魔王城まで。村どころか人っ子一人いないだろう」


 ホセは明るく続けた。

 ここは魔王城に挑み、敗れたパーティーが集って出来た村――と。


 笑美は大いに納得した。今まで他の魔王討伐隊を考えたことはなかったが、自分たちの世界の危機に立ち上がる者が皆無なはずがない。皆各自で立ち上がっていたのだ。笑美たちよりも近い場所から出発した人間は、より早く魔王に挑んだことだろう。


「最初はこの倍いたなぁ。傷を癒して再びパーティーを組み魔王城へ挑んでも、帰ってくる奴は、五人に一人。更には魔王に到達する前に門前払い」

 ホセは明るく笑っているが、その心情は計り知れぬものがあるだろう。彼にとっても、大事な仲間を失っているに違いない。


「悔しいからな。滅ぼされるなら、その前に滅んでやりてぇ馬鹿たちの集まりだ」

「よくぞ持ち堪えてくださいました」

 サイードは敬意を表して頭を下げた。片手を前に。片手を背に。丁寧に丁寧に腰を折る。


 サイードの言葉の意味が、笑美にはよく分かった。

 ヴィダルが言っていた。ここは元々魔物の発現率が高いと。なのに笑美たちはほとんど魔物とかち合うことはなかった。

 彼らが、魔王城へ挑む傍ら、荒れ狂った魔物たちが人の住む里まで下りぬよう沈静していたのだ。

 キャラバンが通ってきた道には、溢れる緑も、流れる川も、なにもなかった。こんな人が見捨てた地で、彼らはただ自分の大切なものの為に、魔王に挑んでいた。


 物語では語られぬ場所に立つ英雄たちに、サイードは心からの賛美を送った。


 サイードを見て、ホセが息を詰まらせた。一瞬だけ止まった言葉の後は、またカカカと笑みを浮かべる。


「そんで。勇者様と聖女様をお前らが引率してるのは聞いてるぞ。物見遊山にはちと厳しい道行であったと思うが……勇者様は――その坊主として。聖女様は? そっちのべっぴんさんか?」

 ホセがソフィアを上から下までじっくりと見た。ヴィダルが『やにさがってんぞおっさん』と言ってホセを蹴飛ばす姿を、ソフィアはにこりと微笑んで躱す。いてて、と蹴られたホセは立ち上がると、にたりとしてサイードを見やった。


「お前が後生大事に抱えてる掌中の珠、興味があるなぁ」

 サイードは涼しい顔でホセの目線を受け止めている。


「ええいかにも。このお方が聖女様です。ですが尊い身の上、ご尊顔を拝す光栄も、玉音を拝聴する名誉も全て叶わぬことをご承知おきください」

 しれっとのたまったサイードに、ホセはカカカと笑った。


「おっかないこったなぁ。なぁそう思わんかヴィダル」

 ホセに釣られてヴィダルも笑う。人間のような顔をするようになったものだと、ホセは続けた。


「頼みがあります」

 ホセの軽口も取り合わず、サイードはホセに真剣な声をぶつけた。サイードのローブの中で、笑美がびくりと震える。


「高くつくぞ」

「何でも、いくらでも、望むだけ」

「なんだつまらんのぉー。何だ」


「聖女様の御身を預かっていただきたい」


 笑美は顔を上げた。


「そちらが切迫した状況だということは十二分も承知。先だっての街で援助の交渉は済ませております。生憎人手は適いませんが、食料、水、薬、馬、全て今頃揃っている頃でしょう。用立てていただきたい」

「そりゃあ助かるな、こんな僻地じゃ食事一つでさえままならん。しかしいいのか? ここまで連れてきたんだろう」

「実力は大したことない癖に、肩書ばかりが立派でこれ以上はとても持て余す。ここで世話役を放棄できるのならば僥倖」


 ローブの隙間から覗くサイードの顔はいつも通り涼しく、何を考えているのか笑美に思惟の隙を与えない。


「ですが、腐っても聖女。もし我々が帰還しなかった場合は、王城へ無事に送り届けてほしい。聖女は女神の御使い、世界の道しるべ。万が一失ってしまうことがあれば凶兆です――けして、その誇りを汚さぬよう」


『――サイード?』

 今まで静かに聞いていた笑美が、震える唇で言葉を紡ぐ。当たり前だが、笑美の耳にさえ、笑美の声は聞こえない。


「コヨルも残りなさい」

 サイードの声に、一拍置いてコヨルが返事をした。承知しました、といつも通りの従順な返事だった。


『どういうこと、サイード。ここまできて、どうして。私ちゃんと、役に立ててたじゃん。役に、立ったじゃん』

 サイードの服を掴んで、サイードを揺らした。ゲルの中は不気味なほど静まり返っている。

 サイードは揺すられるばかりで笑美に説明のひとつも落とそうとしなかった。


 笑美はサイードのローブから抜け出した。冬馬に駆け寄る。

 冬馬ならきっとサイードの暴挙に否を唱えてくれると笑美は信じていた。サイードは冬馬の言葉なら聞き入れるだろう。魔王への挑戦は、冬馬なくば達成しない。この村が、それを証明していた。


『冬馬』

 笑美は冬馬の手を取った。

 冬馬はふいと、視線を逸らす。


『とう、ま……?』


「壺姫は、ここに残るべきだと思う」


 笑美は雷を打たれたようなショックを受けた。私はもう、テルテル坊主じゃないのだと冬馬の視線が、冬馬の言葉が、告げる。


 冬馬は感情のコントロールを覚えていた。即席の付け焼き刃ではない。もうこの世界の人間を恨むことはないし、台風のように荒れ狂うこともなくなっていた。冬馬はしっかり仲間と連携し、絆を深めていっていた。冬馬にテルテル坊主は、必要なくなっていた。

 冬馬はもう、私が必要ではない。自己憐憫に、私が必要ではない。


『なに、それ。なんで、なん、で?』


 ――冬馬は、私を置いていく気だ。


「壺姫は俺と違って、あんまり魔法。得意じゃないだろ」

 するり、と冬馬を掴んでいた笑美の手から力が抜けた。


『なによ、それ』

 冬馬が、私をこの世界に望んだんじゃない。声なき声が、笑美の口から零れる。


 勝手だ、勝手だ! 貴方がいると、言ったんじゃない。だから私はここにいて、貴方の親鴨を引き受けていたのに、なのに。


 私にこの世界に来いって言った、冬馬が。

 私に世界を救えと言った、サイードが。

 私を置いて行くの? 


 笑美は助けを求めて皆を振り返った。笑美の視線から逃れるように、皆顔を逸らす。


『なんで、だめよ。待って、だって、じゃあ、じゃあ』


 ――じゃあ、誰がこの人を守るの。


 言葉が浮かんだ瞬間に、笑美は愕然とした。

 体に力が入らずに、ずるずると地面に座り込む。


 なにそれ。大事なのは、魔王でしょう? 魔王を倒して、世界を救うために、ここまで来たんでしょう? 


 私にとってはお伽噺のような、ゲームのような、修学旅行みたいなノリで。けど実際はもっと怖くて、ひどくて。大変で。

 皆で力を合わせて戦おうねって。世界を救おうねって。魔王を倒そうねって。


 なのに、なんで一番最初に考えたのが。


 すました顔でこっちを見てもくれない、あんな男のことなの。


 愕然とする。絶望する。私は、この世界に来た理由も意味も、なにもかもが、変わってしまっていたのだ。


 ――あぁなんだ。


 私、


『サイードのこと、好きだったんだ』


 ショックだ。絶望した。笑美は顔を覆う。笑美の絶望に反応したのか、壺から大量の水が溢れ出る。吹きこぼれる水を前にサイードが、目を見開いていた。


 背後でホセが頭から水を吐き出す少女を目にし驚愕していたが、誰も彼もそんなことに頓着している余裕はない。しゃがみ込んで泣き出した笑美を宥めようと近づくソフィアを振り切って、笑美はゲルを飛び出した。


 ゲルの入り口には多くの人がいた。幸いにも俯いていたため、笑美の顔が壺だとばれることは無い。笑美は今来た道を戻り、キャラバンへと縋った。最後の味方であるキャラバンは、いつも通りの顔をして笑美を迎えてくれた。


 笑美は散乱した荷物を分け入りながら、いつもの場所へいきクッションを抱き込んだ。

 笑美の旅の防具たち。大きなキャラバンに、柔らかいクッション。


 笑美はそのまま泣き崩れた。






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