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12 : 壺の価値

 戻ったソフィアと笑美はサイードにしこたま怒られた。まるで洗濯機の中に押し込められたかのような熱風を受けながら、嫌味な皮肉をねちねちねちねちと。

 そしてサイードの皮肉が終わるころには、笑美とソフィア――そして洗濯物は完全に乾いていた。


 ソフィアは全て自分の責任ですと名乗ってくれたが、全般的に自分が悪いことを笑美は知っていた。そしてサイードも知っていた。

 ソフィアを庇った笑美に『えぇそうでしょうね』と笑顔を浮かべると、えんらいこっちゃに怒ってくれた。笑美は正座のしすぎで足が痺れるかと思った。


 鬼教官が気が済むのを待っていたコヨルは、話がひと段落つくとサイードに近づき会話を始めた。

 サイードに相談を持ち掛けたかった笑美は、正座のままその場で待つことにした。


 食料補給方法の目途が立ったこともあり、壺の中の水を有効的に使えないだろうかと考えていたのだ。


 サイードはコヨルと話していたが、笑美の相談が壺の中の水の話だと知ると、こちらの話にも耳を傾けてくれた。

 笑美の用件を咀嚼したサイードは笑美に様々な実験を勧める。笑美の作る水の用途は抽象的で、結果を識別するのが容易ではない。そこで、サイードが笑美に題目を用意したのだ。


 症状を指定した即効性のある毒薬と、回復薬。その二種類を笑美は作ってみることになった。


 皆に見守られながら、切り傷を癒す薬、頭痛薬などといった細かい分類の薬をひとつずつ作ってゆく。効果は重複するのか。少量の水だと薬になるまでに時間が変化するのかなどという、笑美の意識にのぼらなかった工程までしっかりと検分してもらえることとなった。


 結果として、薬は出来た。笑美の念じる気持ちが強ければ強い程、効果として現れた。

 しかし、誰かを強く痛めつけたい、と具体的に強く想像できない笑美には殺傷系の製薬はできなかった。

 そこでサイードはもう一つ提案をした。サイードの提案に頷き、笑美は念じ方を変えてみた。

 『人が辛くなりますように』ではなく、『便秘を解消できますように』と。

 気持ちを込めた水を舐めた冬馬は、紙束を抱えて森の茂みへと走っていった。下剤は十分な毒薬である。


 壺の水量は関係なく、笑美の念じる強さがそのまま症状の強さとなって表れた。つまり、心から願わなければ、ただの水のままであった。


 そして問題も見つかった。笑美の作った水は、壺から離して保管するとただの真水に戻ってしまうのだ。その間約10分。小分けしてポーションとして活用できないかと考えていた笑美は肩を落とした。


『なんか、役に立つのか断たないのか微妙なスキルぅ……』

 落ち込んで座り込んだ笑美の肩をソフィアが撫でた。

「壺姫、私のはねっ返りの髪もこの通り、すとんと憧れのストレートに」

『……そうね、ありがとう。うん、ありがとう……』

 ソフィアがいつもは纏めている髪を流して笑美をフォローする。ソフィアは随分とギブソンタックが上手くなっていた。

 人間の顔をしている時の笑美は極太ストレートだ。その笑美にとって、ソフィアのカールは羨ましい限りだった。しかし、子供のようにくるくるとしたうねった髪はソフィアのコンプレックスとなっていた。

 即効性のある薬としてソフィアが提案したそれに、笑美は全力を注いだ。カールは羨ましいが、同じ女として容姿コンプレックスはわかるつもりだったからだ。

 サラサラストレートヘアーになぁれー! と念力を込めた水を飲んだソフィアは、あら不思議。うねるブロンドの髪はサラサラストレートヘアーへと生まれ変わったのだった。


 笑美はソフィアに『ありがとう』のポーズを返した。笑美が考案した、紙が無くても意思を伝えるコミュニケーションポーズだ。手話を覚えていなかった笑美は、自分勝手にポーズを作って皆に教え込んだ。

 両手を合わせてお辞儀をする。日本人なら誰にでも伝わる感謝の気持ちを表す仕草だった。


「あーあ、ふわふわソフィアちゃんのほうが可愛かったのに、なぁー坊主」

「坊主じゃねーよ」

「んなこと言ってお前もソフィアが髪ほどいてる時に見とれてたじゃねえか。あぁ見とれてたのは髪じゃなくて、鎧脱いだせいで大きさがしっかり見えたおっ――」

「おーっとおっさん!! 腕立ての仕方少しはうまくなったと思うんだ見てくれよ!! そうだそうだそれがいい!!」


 ヴィダルの背を冬馬が慌てて押す。冬馬の軟弱さに呆れてものが言えなかったヴィダルは、その言葉にのってやることにした。加えて言えば、笑美は一度も腕立て伏せをすることが出来なかった。


【役に立つ やっぱり ない?】

 笑美が落ち込みながら紙に文字を書く。ガリガリガリと書かれた文字をコヨルが訳す。


「進展はしなかったのかと」

「何を寝ぼけたことを」

 一々舌を突き出したくなる言い方をする人だ、と笑美はサイードに向かって衝動のまま行動した。突き出した舌は、幸いなことに壺に変わっている。


「国宝にすら勝るとも劣らない、素晴らしいお力です」

 見え見えの世辞に笑美ははいはいと手を振った。


「なにが?育毛会社でも始めるわけ?」

 筋トレに向かったはずの冬馬が、面白そうな話題だと戻ってきた。背伸びして笑美の壺を覗き込む。冬馬が見やすいように笑美は少し屈んでやった。壺の中には今、半量ほどの水が注がれている。

 育毛会社かー確かにめっちゃ儲かりそうだなぁと笑美は生暖かい目でサイードとヴィダルを見た。彼らはまだ現役だが、この中では一番早く必要になってくるだろう。

 サイードから豪雪のような視線を受け、笑美は慌てて顔を逸らした。その笑美に、サイードはしんしんとした声を降り注ぐ。


「聖水、毒薬、美容薬、媚薬、万能薬、不老長寿の秘薬――」


 ぽかん、と笑美が口を開く。自分では思いつきもしなかった効能を聞き、顔を赤らめていいのか青ざめていいのかわからなかい。


「その価値は竜の眼にも匹敵する。お転婆も結構ですが、決して、かすり傷ひとつつけることもないように」


 すごむようなサイードの言葉に、笑美はぶんぶんと首を縦に振った。




***




「照準を合わせて――」

 サイードの声を聞いた冬馬は、動く馬車の窓から半身を乗り出すと片目を瞑って腕を伸ばした。綺麗に伸ばされた腕の先には、大きな岩がある。

「行きます――旅立つ、鳥と、青い空、今は、闇と、共にあり」

 サイードが区切る単語ひとつひとつのテンポに合わせて、冬馬が魔法陣を展開する。青とも白とも呼べる魔法陣が冬馬の周りにぐるりと浮かび上がっては消えていく。


 今冬馬は、早打ちの練習をしていた。魔法の陣を覚え、瞬時に魔法を展開し、火力の調整が出来るようになった冬馬は次の段階に入っていた。

 離れた場所から照準を定める特訓だ。走る馬車の中から、同じ的を狙い続ける。


「天の、光に、選ばれし。六人の翼、羽ばたけて」

 規模を小さく調節した雷がどんどんと打たれていく。大きな岩だったのに、もう見る影もない。バラバラに砕かれた岩を見て胸を撫で下ろす冬馬に、サイードが冷酷な声で告げた。


「では次は、今手にしている書の5頁から。魔法を順番に展開していきます――用意」

 え、わっ! 声を上げた冬馬は慌てて頭を切り替えた。すでに粉々になっている岩に照準を合わせ、サイードの号令に間に合うように記憶の本を捲る。5ページ、5ページは確か探索の魔法で、6ページは調査、7ページは――


「行きます――永い永い、冬も、終わる。青い、空に、鳥が飛ぶ……」


 ぱっぱっぱっと浮いては消えていく陣の何がどう違うのか、笑美にはさっぱりわからない。することもないので、ただぼーと冬馬の練習を頬杖をついて笑美は見ていた。隣でコヨルが、同じポーズを真似ていた。




***




 これがおべっかでなければ、笑美は今異世界へ来て以来、初めてと言っていいほど大喜びされていた。


「う、うめええ! うめぇ、嬢ちゃん、このスープなんてうめぇんだ!」

「聖女様、です。ヴィダル」

「――これは美味しい……」

「……」

『あ、ありがとう……』

 皿に注がれたスープを、がっつく四人を見て、笑美と冬馬は呆然としていた。


 洗濯や雑用に慣れてきた笑美は、自分に出来る事の一環として食事の支度も手伝うことにした。雑用の傍ら目にするソフィアの手際の危うさに、見ていられないと名乗り出たのだ。

 思えば、今までの食事は肉や野菜を焼くばかりの簡単な調理品ばかりであった。パンに干し肉を載せただけ、というのも多かったようだ。現世(うつしよ)に来て以来食べ物とは縁が深いのに、味とは無縁の世界に生きている笑美は、あまり料理の内容を詳しく見ていなかった。

 とりあえず簡単に出来るポトフもどきでも、とスープを作ってみた笑美はお玉を持ったまま突っ立っている。皆スープを掬う手が止まらなかった。


「う、うまいよ。壺姫」

 これは自分も言わなければ――と思ったのか、冬馬が強張った笑顔を添えて笑美に告げた。笑美は無理しなくていい、とやんわり首を振る。

 少しの調味料と、少しの干し肉を使ったが、それだけだ。炭で炙るだけの肉に飽きた四人には至極の料理に感じられたかもしれないが、きっとチート知識でもなんでもない。この世界にある材料を使ったのだ。どこの家庭でも普通に作られるようなスープだろう。

 しかし、キャラバン市場は明らかな品薄状態だった。現代日本で様々な調味に慣らされた舌の肥えた冬馬が、コクとうま味の足りないスープを飲み干す。その様子を見ながら、笑美は『次の買い出しに連れて行ってもらえないか聞いてみよう』と呟いた。




 そうは言っても、空になった寸胴を見ると気分がいいものである。野菜も皮ごと使ったため、ほとんどゴミは出ていない。それでも出た少量の生ゴミをヴィダルの指導の下、森の中に埋める。


「ま、これでいいだろ」

 生ごみにかけた腐葉土を踏みしめながらヴィダルが笑った。


『丁寧にありがとう。次は一人でがんばるね』

 ぐっと両手を握る笑美を見て、ヴィダルが真夏のような顔で笑う。


「こんな小せえのに、本当よくがんばるよなぁ」

『小さいって、もう16だよ』

 森に落ちていた枝で地面に数字を書くと、ヴィダルは目を見開いて驚く。

「16?! こんなちっこいのに?」

『そういう人種なのー』

 ソフィアにも驚かれたなぁ、と笑美はケラケラと笑う。


 あれ、そういえば。と、ヴィダルと向き合って話をしていることに、笑美が違和感を覚えた。

 彼とこうして二人で話をすることが、もしかしたら初めてかもしれない。

 ヴィダルと笑美は基本的に、休憩時間ぐらいしか顔を合わせることがない。笑美が起きている時は寝ているか御者をしてくれているし、笑美たちが寝ている時は反対に見張りのために起きていてくれている。頼りになる大人って、こういうことを言うんだなーと、笑美は意地悪椅子を思い出した。


「はー……16ねぇ……」

 ヴィダルの視線の先を追うと、自分の胸にいきついた。笑美は自分の小皿分の山を両手で押さえると、しょぼんと顔を俯かせる。せっかく夕食を食べて補充されていた水が、ぼとぼとと腐葉土に落ちた。


【魔法 ない?】

「魔法? 今ここにか?」

 地面に書いた文字を読んだヴィダルは首を傾げた。違うそうじゃなーい! 必死に伝えようとすればするほど、ヴィダルは首を傾げていく。

「大きな魔法? 攻撃魔法とかか……?」

「胸を膨張させるための魔法がないのかと聞いている」

『膨張……』


 ガサリと落ち葉を踏みしめてやってきたのはコヨルだった。真っ暗な場所から、真っ黒な衣装に身を包んだコヨルが姿を出したため、一瞬びくりと震えてしまった笑美をどうか許してほしい。


「わりぃなぁ嬢ちゃん。んな魔法聞いたことがねぇわ!もしあったらコヨルこそかけてほしいよなぁ」

 笑いながらヴィダルはサラッとコヨルに喧嘩を売った。

「必要ない」

「重宝しそうだけどねぇ。よし嬢ちゃん。サイードに頼んで作ってもらおうぜ」

「骨は拾ってやる」

「あ、やっぱお前もそう思う?」

 大きく笑うヴィダルに笑美も笑った。


 ヴィダルはふと、夜の空気を吸い込むと笑美を見た。笑美はドキリとして、居住まいを正す。


「――この隊の隊長として、この国のいち民として。現世(うつしよ)の火急に駆けつけてくれ、厚くお礼申し上げる」

 片手を胸に、片手を背に。この世界の礼を尽くしてくれたヴィダルに、笑美はにっこりと微笑んだ。


『どういたしまして』


 どーんと胸を張った笑美が、謙遜も卑下もなく、しかし慎み深く自分のために受け取ったのがヴィダルにはわかった。


「いー女だなぁ」

『本当? ありがと、もっと言っていいよ』

 にこにこと笑った笑美はヴィダルにすり寄る。大きく笑うヴィダルに、冷たい雪が吹き荒む。


「まだこんなところにいたのですか」

 遅くなった笑美たちをサイードが迎えに来たらしい。


「体調に問題でも?」

「ありません」


 コヨルが頭を下げる。そういえば、コヨルが丁寧な口調で長々と話すのはサイードにだけだなと笑美は思った。


「おい嬢ちゃんにも聞いてやれや」

 にやにやと笑うヴィダルに、サイードは鋭く冷たい視線を返す。


「必要ありません」

 わかりきっていることを聞くな、というような強い口調だった。わかりきっていた答えだったのか、ヴィダルは顔をにやつかせている。


「へぇへぇ」

「さぞご立派なご高説でも垂れてたんでしょうね、随分と時間がかかっていたようですが――」

 サイードとヴィダルが話す言葉は、笑美の心を滑って行った。


 サイードによく思われていないことは知っていた。向けられる冷たい言葉にも、建前の笑顔にも慣れているつもりだった。


 体調を気遣う価値すら私にはないのか。


 しょうがないしょうがないと割り切って笑おうと思っているのに、うまく笑えない。コヨルは心配するくせに。そんな詮無いことがふつふつと心に浮かぶ。

 今が壺で、よかったと笑美は思った。


「どうかしましたか」

 声をかけられて、笑美はハッとした。気づけば、サイードとヴィダル、そしてコヨルがこちらを見ている。


「――聞いておられましたか?」

 訝しげなサイードの声に、笑美はぶんぶんと首を縦に振った。ちゃぷちゃぷと音がする。


「では行きますよ」

 衣を翻して歩き出したサイードに、何の話をしていたか聞く勇気はない。わざわざ聞いていたかと念をおしたぐらいなのだ。大事な話に決まっている。

 笑美は隣にいたヴィダルの腕をくいと引っ張った。


「ん? 本当に俺にするか?」

 何を? と首を傾げる笑美をサイードが呼ぶ。


「壺姫」

『はいっ』


 氷点下の声を聞いて、笑美はピッと背筋を伸ばした。

 先に歩いていたはずのサイードが振り返ってこちらを見ていた。彼の背後のコヨルまで振り返り、珍しく顔を顰めている。小刻みに首を横に振るコヨルは、サイードから見えない位置で手を小さくパタパタとさせた。


 なんだろう、あおげ? 


「……行きますよ」

『あ、ちょっとヴィダル隊長と話してから行くから』

 ヴィダルを指さし、ばいばいと手を振る笑美に、コヨルが額を抑え、ヴィダルは爆笑した。

 場の空気が、三度ほど低くなった。





 空気を凍らせたサイードとコヨルが立ち去ると、笑美は慌ててヴィダルに話を聞こうと巨体を揺すった。

 ヴィダルは大笑いしている。目から涙が出そうな勢いだ。おいこら話聞けや! 笑美が蹴ろうと足を振り上げると、更に大笑いし始めた。


「16歳で、聖女で、女が、スカートで足を……!」

 大笑いである。明石家すんまもびっくりな引き笑いだ。笑美がヴィダルの太い腰を何度か蹴ると、彼はひーひーと涙を拭きながら立ち上がった。


「わかってるよ、お前、聞いてなかったんだろ」

 その通りだと笑美は首を縦に振った。


 ならそう言えばいいのに、と再び笑うヴィダルに、あの場で言える勇気があればその者は勇者と貴ばれるだろうと日本語で叫んでやる。


「俺なぁ、男の沽券と股間に関わる話にはのらない性質なんだよなぁ」

 腕を組み、ふーーーんと半眼で見下ろした笑美は、にっこりと微笑んだ。もちろん、ヴィダルには見えていない。


【残念】

 笑美が木の棒で地面に書くと、ヴィダルは全くだと頷いた。


【ご飯 作る 楽しい しかし ヴィダル お願い 仕方ない ソフィア 戻す】


 言葉を読み取る力のないヴィダルのために、笑美はたんまり言葉を足してやる。


「……脅す気か、この俺を」

『滅相もございません。自己嫌悪でフライパンが握れなくなりそうというだけです』

 笑美のほほほほほという高笑いが聞こえたのか、ヴィダルはぐっと奥歯を噛みしめた。


「……ソフィアは何かと忙しい。仕事を減らせるなら減らしてやりたい」

 そう言いながら、ヴィダルは今日の夕飯のスープの味を思い出していた。


 笑美は後ろ手で、ぐっとガッツポーズを握った。





 笑美がキャラバンに戻るとサイードは月明かりで書類を捲っていた。そんなに暗い中で仕事をしなくても、と思った笑美はクッションを重ねて眠っている冬馬の姿を見つける。

 冬馬は出発してすぐのころは、夜遅くまで魔法の練習をしていたり昼寝をよくしていたため就寝時間がずれていたが、最近は笑美達と共に夜に眠りにつく。笑美はすでに眠っていた冬馬のために足音を立てないように気を付けながらサイードに近づいた。


 サイードはこちらを一瞥もしない。笑美はおずおずと結ったままのサイードの髪に手を伸ばした。


 笑美が触れても何も言われない。よほど頓着がないのだろう。今日はピンも使っていたため、きちんと取ってあげねばならない。髪を解いた後も、笑美はサイードの髪の中に手を突っ込み、手探りでピンを探した。


 このままご機嫌取りに、少しヘッドマッサージでもするかと笑美は頭を指圧していった。頭全体を揉みほぐし、時に髪を、時にこめかみを、時に耳を、優しく、強く押していく。

 ママにもパパにも好評のヘッドマッサージだ。サイードも喜んでくれるだろうと確信に満ちていた笑美に残酷な声が突き刺さる。


「それ以上は、容赦しませんよ」


 ピッと固まった笑美は、手をゆっくりサイードの頭から離した。名残惜しそうに、サイードの髪は笑美の手にくっついてまわる。


「今夜はお役目ごめんだと思っていたのですが」


 先ほど、聞いていたかと笑美が念を押された話。それは、今晩の安眠椅子を誰がするかというものだったらしい。


 出発してこの方、安眠椅子が変わったことはない。他の人間が名乗り出ることもなかったし、笑美がサイードを嫌がることもなかったからだ。もちろん、サイードからもう無理だと言われたこともなかった。

 サイードは、壺のことを大層大事にしているようだった。国宝と同じほど価値があると言っていたし、相談を持ち掛ければふたつ返事でこちらを向くし、夜はこうして毎晩抱えて眠る。いまだ何の役にも立てていない微妙な壺だが、彼にとっては何か可能性が見えるのか、もしくは希望の象徴とでも思っているのかもしれない。

 そのサイードであったから、壺の安眠椅子を嫌がっているようには見えなかったが、先ほどヴィダルに任せたいというような話をしていたということは、本当は嫌だったのだろうか。笑美としては、梱包材どころか衝撃材にしかならない汗臭い男よりも、座り慣れたイケメンの胸で寝たいものである。


 そう答えた笑美に、息も絶え絶えというほどまで笑ったヴィダルはアドバイスをくれた。笑美はヴィダルのアドバイスにもならないアドバイスにのっとり、いつも通りサイードの膝に腰掛ける。サイードは書類から一度だけ目を離し、ちらりと笑美を一瞥した。

 その目を離さなかった。笑美はぐぐぐっと眼力を込めてサイードを見つめる。


 ――膝に乗って、目を逸らすな。目を逸らしたら負けだと思え。そんでこう言え。


『乗るなら、こっちがいいな』


 言えって言ったって、通じないんですけど。と笑美はサイードの手を取った。そして言われた言葉を手のひらに書いていく。の、る、は、さ、い、ー、ど、が、い、い……書き終え一息つくと、自分が言いつけを破っていることに気が付いた。あっやばっ、目逸らしてた! 慌ててサイードを見上げると、サイードは笑美が握っていないほうの手で顔を覆っていた。


『サイード?』

 どうしたのかと手を引く笑美に、サイードは、いいえと首を振る。


「早く寝てしまいなさい」

『はぁい』

 おやすみなさい、と笑美はいつものようにサイードの胸に頬を寄せて眠った。







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