11 : それぞれの立ち方
冬馬は異世界にやってきてすぐに、自分が人を傷つけたことを忘れてはいなかった。
忘れるどころか、それは16歳の冬馬にとって深い傷となっていた。
負傷させた本人に、今ならば何かしら冬馬の言葉で伝えることが出来るかもしれない。しかし、冬馬には、その時間も迷いも許されていなかった。それは冬馬の中でしこりとなり、淀みとなっていた。
しかし、勢いにものを任せたとはいえ、騎士団長であるヴィダルに謝罪した冬馬は、ようやく彼らと屈託ない笑顔で話せるようになった。
傷つけた面々に、冬馬が送る言葉は何もない。この世界の平和を、安寧を。皆が望んだ希望を。それだけが、冬馬にできる贖罪だった。
***
馬車の中でがたんごとんと荷物が揺れる。荷物の揺れを横目に感じながら、笑美はひたすら文字を書いていた。
日本語と現世語をどちらも聞き取れることを笑美は女神に感謝した。教えてもらった単語を覚えきれてなくとも、聞いたままに書き留めておけば辞書を作れる。笑美の横に腰掛けたコヨルが――こちらは日本語を覚えようと、首を伸ばして笑美のスケッチブックを覗き込んでいた。
「歌、声、寝る、聞く、愛、好き」
コヨルが鳥の鳴くような綺麗な声で、笑美の書いたたどたどしい言葉を読み上げていく。
自分の書いた文章をコヨルが読み上げてるのが面白くて、笑美は機敏に手を動かす。
「コヨル、可愛い、――好き?」
無表情で読み上げたコヨルが、不可思議な顔で笑美を見上げてきた。笑美はこくこくと何度も頷く。
それに対し、コヨルは意味が分からないというように首を傾げた。
コヨルは笑美よりいくつか年下の可愛らしい少女だ。卵のような美しく白い肌は瑞々しく張りがある。その名の通り、夜のような髪も、闇のような瞳も、どれもこれもコヨルの可愛らしい顔を甘いばかりでないものへと引き立てていた。コヨルを見て不器量だと評する者は、そうはいないだろう。
同じく不細工と言われたことがない笑美は、幼い頃から褒められ慣れていた。近所のおじちゃんおばちゃんからのべっぴんだねぇはもはや定型句ですらあった。
なのに、同じく可愛らしい顔をしたコヨルは笑美の伝えた単語を見て、まるで珍妙な生き物を見るかのように笑美を見つめている。
この国と日本では美人の基準が違うのだろうか? こんなに愛らしいコヨルに、可愛い、好きだよと伝えるものはいなかったのだろうかと笑美は憤慨する。
「コヨル。この手紙を、至急」
仕事がひと段落ついたのか、サイードがコヨルを呼んだ。コヨルはピッと音がするんじゃないだろうかと思うほど素早く立ち上がって、パタパタとキャラバンの中を移動する。
「どちらに」
「弟へ」
「承知しました」
コヨルは御者席の方へ移動する。そういえばどういう風に手紙を飛ばすのだろうかと、笑美もコヨルの後をついていく。
手紙の中身を覗かないようにと監視に来たのか、珍しくサイードも付いてきた。ついには冬馬までついてきて、面白がったヴィダルがそれに続く。
結局、御者席の後ろに、一行全員が立っていた。今ソフィアが振り返ったら、焦りのあまり手綱さばきを間違えてしまうのではないだろうかと笑美は不安になった。
コヨルは御者席へ続く窓から顔を出すと、冷静な顔で空に声を張った。
「カァアーッ」
コヨルの鳴き声に反応して、一羽の烏が現れた。黒い遣いは飼い慣らした鷹のように、コヨルの手に舞い降りる。コヨルの手には烏の爪を遮るための固い小手が巻かれていた。
コヨルは慣れた動作で烏の足に手紙をくくりつけると、烏の背を何度か叩いて行先を指示した。了解した、と伝えるように烏は一度鳴くと、再び空へと飛び立ってゆく。
その様を、はぁーっと感心して見送ったのは冬馬と笑美だ。
よく飼い慣らされた烏である。いや、異世界なのだからもっと違う何かがあるのかもしれないが、見た目は完全なる烏であった。そして烏と言えば、笑美にはひとつ心当たりがあった。
――烏とお呼びください。
コヨルに名前を聞いた時。彼女は、自分のことを烏と呼べと言った。それがこの一連の流れと無関係とは思えない。教えてくれないかな、とチラリとコヨルを見たが、コヨルは無表情のまま笑美を見返すだけだ。
『あとでこっそり聞いてみよー』
なんでもないんだよーと、笑美はコヨルにひらひら手を振った。
***
「隊長、本日の手合せを」
「おーやっとくか」
「お願いします」
お互いに得物を手にして、礼をする。ガキン、というヴィダルの大剣とソフィアの槍がぶつかる音がして二人の日課が始まった。
ソフィアは槍を矛に、盾に、支えに。手慣れた動作で素早く動かしていく。ヴィダルはそれを得手の大剣で庇い、流し、打ち付けていく。騎士団員である彼らにとっては慣れ親しんだ日常だろうが、笑美にとってはそうでない。ちゃんばらなんて時代劇ぐらいでしかお目にかかったことがなかった笑美に、剣戟は刺激が強すぎた。
ヴィダルの振るう大剣が空気を切り裂いた。飛びのいたソフィアは槍の石突を地につけひらりと体を翻す。逃げるソフィアをヴィダルが追う。ヴィダルが通った後に、ドスンと大きな音が響いた。先ほど振るった剣が、大木を伐採していたのだ。
「自然破壊はんたーい」
冬馬がサイードに魔法を教えてもらいながら突っ込んだ。
『何でそんなに悠長なの!?男の子はいつまでも剣に夢見ちゃうって!?』
鋭い金属音がするたびに火花が飛ぶんじゃないかと、笑美はこの手合せを最後まで見ることが出来ない。大地に響かない悲鳴を上げながら、洗濯籠を引っ掴む。
『川に洗濯に行ってきまーす』
どんぶらこーどんぶらこーとのんびり川へと向かった。
しばらくして川にやってきたのはソフィアだった。
「壺姫、申し訳ない。一人で向かわせてしまったね」
『いんだよーぐりーんだよー』
へらへらーと笑った笑美は冷たい水の中でソフィアに手を振った。
汗と泥にまみれた服を手のみで洗うのを諦めた笑美は、川に汚れ物を突っ込んで足で踏みつけていた。細かいところは後で手で洗う。
頑丈な守護魔法をかけられた服は、笑美の体重なんてものともしない。
ソフィアはよほど慌てて来たのか、手に槍を持ったまま、汗もぬぐっていない。
笑美はソフィアの鎧を指さすと、脱ぐ動作をした。次に洗い終えていたタオルを渡すと、拭く動作をする。
緊急時での即座の対応の為か、ソフィアが鎧を脱いだところを笑美は見たことがなかった。それに、自分の体に手をかけている場面もほとんど見たことがない。
旅は移動以外の細々したことが多く存在する。笑美がそれに気づくまで、コヨルがいない間は、ソフィアが一手に引き受けていた。限られた設備の中で行うのは楽なことではなかっただろう。ソフィアが自らの身の回りに気が回らなくても、いた仕方なかった。
笑美はソフィアやコヨルが警備に立ってくれている中体を拭いたりすることもあるが、ソフィアはそういう時間を持てているのか笑美は不安だった。騎士である彼女は笑美の気遣いを、笑顔で躱してばかりだ。しかし、今日ばかりはうんと言わせるぞと意気込んで、笑美はソフィアを見つめた。
ソフィアは笑美が言わんとすることに気付いて苦笑する。護衛対象を前に、呑気に鎧を脱ぐ騎士がいるはずもなく、ソフィアはやはり丁重に断った。
笑美は自分が浸かっている川を見た。川だ。真水だ。海水ではない。
空を見上げた。天気もいい。
ソフィアを見た。油断している。
笑美はにやーと笑うと、足に敷いていた洗濯物を両手でつかみ水を掬った。
『いっせーのー』
せっ! 笑美は洗濯物を振り上げた。当然、掬っていた水は飛び散る。
「つ、壺姫?!」
『あはははは!』
素っ頓狂な声を上げるソフィアに、笑美は大笑いした。
ソフィアと笑美は、びしょ濡れだ。
『ほら脱いで、水浴びしよう。たぶんコヨルが気にかけてくれてるから、男たちが近づいてきたら教えてくれるよ』
大丈夫大丈夫と言いながら、笑美はソフィアに再び鎧を脱ぐ催促をした。ソフィアは苦笑し、手に持っている槍を地面に置くと、潔く鎧を脱ぎ始めた。
『いよっごーかい! 色女!』
やんややんやと囃し立てていた笑美は、豪快なソフィアに段々と拍手を送れなくなっていった。鎧を脱ぎ陽当たりがいいように地面に並べると、ソフィアはインナーまで脱ぎ始めたのだ。下着姿になったソフィアを見て、笑美は完全に黙り込んでしまった。
笑美の声は聞こえなかったが、賑やかな体の動きを見ていたソフィアは笑美が黙りこくったことに不安になり顔を上げた。不興を買ったかと焦っていたソフィアは、笑美を見て息を飲んだ。
笑美は自分の胸元に手を当てて、肌着姿になったソフィアを見ている。
「つ、壺姫はまだ幼くていらっしゃるから……」
笑美が地面に川の小石で数字を書く。
「じゅ、16でしたか……ええと……」
自分が16の時にはほとんどこの体型が出来上がっていたとは、ソフィアは口が裂けても言えなかった。
まぁいいわと小石を投げた笑美はソフィアを川へ促した。ソフィアはほっと息をつき、浅い小川に足を入れる。
「気持ちいい、生き返るようだ」
冷たい川だが、運動を終えたばかりのソフィアには丁度よく感じた。笑美は小川の水を蹴って遊ぶ。今洗濯物を洗い始めてしまえば、きっと律儀なソフィアは隣でリラックスなんてできないだろうと思ったのだ。
「16の若い身空で、常世から参られたのみならず、我が世界の不始末を押し付けてしまい……壺姫にはなんと申し開きすればいいのか……」
せっかくリラックスしていたというのにそういうことを言い始めたソフィアに、笑美はえいっと水をかけた。
ソフィア、知っているか。
日本にはスチルというものがあってな。
川といえば美少女たちが『えーい』『きゃーやめてー』と水を掛け合うシーンが描かれているものなのだ。ただし壺の顔をしたスチルなんざ、見たことないが。
つまりなソフィア。
お主はもう少し、本当に笑わねばならぬ。
わしゃしゃしゃしゃと水をかいて笑美はソフィアに水をかけた。ソフィアは呆然と突っ立ったまま、笑美の猛攻を受け入れている。全身がびしょ濡れになったところで、ソフィアはぷっと噴き出した。
「あはははは……壺姫、ご容赦ください。反撃したくなるよ」
よっしゃかかってこい! 両手を広げた笑美に、ソフィアがキラリと目を光らせる。
「よろしいので?」
『本気で来い!』
その後ソフィアの猛攻に笑美はなす術もなく、『撤退だー! 引けー! 引けー!』と騒ぎながら川から上がることとなった。
びしょ濡れのまま戻ると、サイードに殺される。
笑美の無言の訴えを聞き届けたソフィアは、『鎧がまだ乾いていませんから』と鎧を指さしながら微笑んだ。
「……こうしていると、今が魔王を屠るための旅の途中だということを忘れてしまうね」
周りにコヨル以外の誰もいないことを気配で悟ったソフィアは、下着も脱いで水を搾った。騎士用のそれは、笑美が城で用意してもらった下着とは形状が違う。固くしっかりとした下着も、ソフィアの握力にかかればまるでガーゼのように柔らかく見えた。
豪快な女、ここに極まる。笑美はソフィアの豪快さにあっぱれを送った。
『そうだねーのどかだもんねー』
馬車の外の景色のなんと綺麗なことか。なんと高い空、なんと広い大地、なんと大きな地平線。緑に囲まれた川べりで笑美はうんと頷いた。
笑美はソフィアの肌を失礼にならない程度にまじまじ見た。真剣に見た。壺の顔ってこういう時楽だわーと考える笑美の、こずるいこと、こずるいこと。
ソフィアの体はいつも鎧で守られていた。それなのに、あの分厚い鎧でも防ぎ切れなかった多くの傷が彼女の肌には刻まれていた。
笑美の視線に気づいたのか、ソフィアは絞った下着をパタパタと風で煽ると手早く着込んだ。
「お見苦しいものを見せてしまったね」
『こっちこそ。そんな言葉吐かせてしまってごめんなさい』
ソフィアの苦笑に真剣な笑美は声を返す。深々と頭を下げると、笑美がそっとソフィアの傷に触れた。
『痛い?』
「どういたしました? 穢れとなる」
慌てて身を引いたソフィアに、笑美はむっと腹を立てた。
『祟り神じゃあるまいし。そんなわけないでしょ。まだ引きつったりするの? 触らないほうがいい?』
「壺姫、申し訳ないのだが私はコヨルほど観察眼がない。気配なら読めるのだが……ご心情を推しはかることは、とても難しい」
それもそうだ。笑美は申し訳なくなった。今笑美は、顔の表情さえ相手に見せずに、彼女のプライベートな場所に土足で踏み込んでいる。それほど親しくなれているかと問われれば、うんとは頷きにくい。
けれど、申し訳ないけれど。と笑美はソフィアの傷に触れた。
「壺姫……」
困り果てたソフィアは、珍しく眉を八の字に下げている。笑美はにこっと微笑んだ。
『守ってくれてありがとう、ソフィア。私が聖女だというのなら、どうか女神様のご加護がありますように。いややっぱ頼み慣れた仏様かな』
よしよし、と傷をさすると、くすぐったいのかソフィアが悲鳴を上げて身を善がらせた。
キュピーン、と笑美の目が光ったことを見えずとも感じ取ったのか、ソフィアがじわりと後退する。
ソフィア、知っているか。
日本にはスチルというものがあってな。
くすぐり合いっこといえば美少女たちが『こしょこしょこしょ』『あははっ……あんっやめてっ……』と息も絶え絶えによがる姿が描かれているものなのだ。ただし壺の顔をしたスチルなんざ、見たことないが。
「壺姫、ご容赦ください。反撃したくなるよ」
『かかって来い!』
笑美は一分もたたないうちに握り拳を撤回した。
遅くなったから、サイードに殺される。
いまだ洗い終えていなかった洗濯物を二人で洗うことになったのは、笑美が泣きついたからだ。手でごしごしと最後の汚れを落とすと、固く絞って籠に入れていく。
「壺姫は溌剌としているね」
ソフィアの明るい笑顔に笑美は胸を躍らせる。水を掛け合っている間も、くすぐりあっている間も、ソフィアは常に楽しそうだった。川に反射した太陽の光よりも眩いソフィアの笑顔に、笑美は何度目を細めたか。
ありがとうスチル。ありがとう日本の文化。人付き合いの秘訣が隠されていたのねと笑美は心でガッツポーズを作った。
「最後に、こんなに笑ったのは、いつだったかな……」
自分の零した言葉にハッとしたのか、ソフィアは慌てて口を噤んだ。
追及してもよいのか、川に流したほうがいいのか、決めかねた笑美はこてんと首を傾げてみた。
ソフィアはしばし悩んだ後に、自嘲を浮かべて立ち上がる。
「これ以上は体が冷える。サイード殿には私が叱られるから、魔法で乾かしてもらおう」
ソフィアは搾ったインナーを着込んだ。
ソフィアの鎧は、既にカラリと乾いていた。




