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10 : 自覚のかたち

 ガタンガタガタ……

 揺れる馬車を月明かりだけが照らしていた。

 走る馬車の速度は落ちない。魔王の待つ城に向け、ただひたすらに進んだ。


 ガタガタガタッ……

 御者を交代し、馬を替え、車輪を取り換え、馬車は進む。馬の嘶きと、蹄の音。そして時たま聞こえる御者が手綱を打つ音だけが、人が生きている空気を思い出させた。


 馬車は夜の間は出来るだけ灯りを落としていた。灯りで寄ってくる魔も獣も、今は行路の邪魔にしかならない。

 暗い室内で眠っている影はふたつだけ。大きな影の背に流れる銀髪が月の光で淡く光る。ぎこちなく体をくっつけている小さな影が寝言を零した。


『パパ……ママ……』

 毎晩紡がれる愛の言葉を、起きている者は誰も拾い取れはしない。ガタガタガタと揺れる馬車だけが、少女の雫を吸い取っていた。




***




 少年と商人には口止めをしていたが、人の口に戸は立てられない。笑美たちが王都を出発してから十日。遠く離れた国境地帯にまで、勇者旅立ちの報が伝えられていた。


 やり手の商人や、胡散臭い領主。果ては大使館までもが挙って魔王討伐一行を歓迎したがった。コヨルが人に紛れ集めてきた情報を聞く度に、サイードは冷たく切り捨てた。そして増える一方の誘引にほとほと嫌気がさしてきたころ、隊長が口を開いた。


「馬車を変えるか」

 ヴィダルの言葉に、サイードが頷く。


「そうですね。丁度辺境伯領です。烏には事足りるでしょう。コヨル、早烏を」

「お前の実家にも随分行ってないなー。芋の甘煮、食えるかなー」

「寄りませんよ。うってつけに、最近弟がキャラバンを誂えていたのでそれと交換しましょう。なに、誉れ高き勇者様と聖女様が乗っていたのです。多少の痛みや傷など勲章でしょう」

「ちげぇねぇ! あいつが仕立てたキャラバンかーソファーあるかなー俺もう腰痛くって痛くって」

 色々と突っ込みたいことを我慢して、冬馬は頭を下げた。

「すみませんでした。俺が考えなしに、勇者だって教えちゃったから……」

「不穏分子を入れた時点で、計画が予定通り遂行しえないことなど想定内です」

 不穏分子……と口をへの字に曲げる冬馬を、笑美が笑った。





 笑美がこの世界が現実なのだと理解してから、少しばかり変化があった。

【ありがとう お腹空いた ほしい したい サイード ヴィダル ソフィア コヨル 勇者】

「お上手です、とてもよく書けております」

 ソフィアの褒め言葉に、笑美はえへへと頭を掻く。壺がしなを作って照れているところなど、誰も得しないとわかってはいた。


 笑美は現世(うつしよ)の言葉を勉強し始めた。

 今まで笑美はこの世界で、ずっと受け身だった。助けてもらう、恵んでもらう、手を取ってもらう。当たり前の幸運は、けして笑美の功績の上に立つものではなかった。

 尽くしてもらえるのが当たり前だと、“聖女”と言う名前と周りの反応に思い込んでしまった。

 それはこの世界を受け止めきれていなかったのと同時に、笑美自身の心の未熟さからくるものだった。


 自ら選んでこの世界に来た。その事に、責任を負うにはいささか笑美は若すぎた。


 これではいけない、と。自分で気づくことができたのは笑美にとって初めてだった。

 今まで笑美を導いてくれる大人は沢山いた。家族、先生、近所の大人。誰もが笑美の悪い行いを見れば叱ってくれた。


 しかし、異世界ではそうではない。笑美にとって一人で抱えきれぬほど重い責任を持たせるくせに、誰も笑美の行いを責めない。笑美はその危うさにようやく気付いた。気づけた。

 甘やかされて育った女子高生の軽率な行動を、命の危険も付きまとう世界で誰も叱ってくれない恐ろしさに、初めて気づいたのだ。


 今から動き出したとしても、笑美の今までの軽薄な行動や態度は、消えることはない。

しかしだからと言って、後ろを向いているだけではいけないと笑美は知っていた。

 けれど、笑美に出来る事などたかが知れている。今役立っていると胸を張って言えることはサイードの髪結い係くらいなものだ。


 つまり、笑美は自分が魔王討伐隊随一の役立たずなのだと、ようやく自覚したのだ。


 役立たずと自覚して、初めて自分が立っている場所をよく見ることができた。笑美は、作られたはりぼて台座の上で胡坐をかいているだけだった。


 なにもできなかった笑美は、手始めに文字を覚え始めた。この世界に生きる“人”とのコミュニケーションを自ら行える地盤を作るために。


 次は洗濯を覚えた。人が生活する限り汚れ物は発生する。今まで、どうにかなっていたのは誰かがやっていたからだ。笑美は休憩時間にソフィアが度々いなくなっていた原因を知った。


 自分が聖女でいるために、誰かに何かを強いていた。なんという、厳しい世界なんだろう。


 笑美は小川の水で洗濯物についた汚れを掻き出しながら、指先の冷たさに凍えていた。日本と同じ季節が巡っているのなら、今は春。流れる川の水は、笑美の手を芯から冷やす。

 痛む指先を懸命に握り、洗濯物をこすり合わせていく。たかだかこのぐらいで、悲鳴を上げそうになるほど冷たい。痛い。男性物の下着だって、最初のころは顔を赤らめていた笑美だが、今では憎しみの対象としかなりえない。


 ここには洗濯機もないし、凍えた体で潜り込める炬燵もない。ソフィアに教えてもらった通りに洗ってはいるが、彼女ほどうまく汚れを落とすことが出来ない笑美はどうしても時間がかかる。

 川に上半身を乗り出した中途半端な姿勢は、笑美にとって維持することさえ厳しい。自慢だった細く長い腕や足に筋肉がもっとつけばいいのにと思うようになっていた。


 痛い、辛い、心細い。


 笑美は知らぬ間に唇を噛みしめていた。流れる水は冷たく、いともたやすく笑美の心まで水浸しにした。


 この世界は怖い。自分じゃ到底勝てない魔物がいる。それを簡単に倒す人がいる。その人達は魔物の敵ではあっても、自分の味方ではないかもしれない。思っていることを伝える手段がない。無条件に甘やかしてくれる人がいない。


 私をこの世界に、と求めてくれた人は、私を求めていたわけじゃなかった。冬馬の台風を吹き飛ばす晴れ女を求めていただけだ。


 なのに――か、だから――か。今、笑美の価値は格段に低い。何もできないくせに面倒ばかりをかける、迷惑なだけの壺でしかない。

 笑美の作る水のほとんどの効果はサイードの魔法で賄え、冬馬の機嫌もサイードとソフィアでうまくやっている。

 旅は予定よりも遅れている。壺に必要な食糧調達のため、コヨルに毎日無理を強いて出かけてもらっているからだと、笑美は誰もが口を閉ざす事実に気付いていた。


 何のために、私はここにいるんだろうか。笑美は途方に暮れて空を見上げた。


 皆、友好的だ。こっちの話にも耳を傾けてくれる。だけど、それは仲間と同義ではない。

 笑美の意見を聞きながらも、それは世界の違う人間の言う言葉だと思って聞いている。笑顔を向けてくれても、心は差し出してくれない。

 自分が自分で作っていた壁に気付くまで、受け入れられてるのだと思ってた。皆によくしてもらってるのだと、思ってた。しかし、自分の立ち位置を自覚した途端に見え始めた現実に、笑美は怯えてしまっていた。


 手を伸ばしてもいいんだろうか。伸ばした手を、振り払わずに握ってくれるだろうか。


 老師のくれた名前を胸の中で思い起こす。


 あのおじいちゃんだけだった。

 私に、笑顔をくれたのは。


『――パパとママに会いたいなぁ……』


 ポツリと呟いた自分勝手な言葉に驚いて、笑美は慌てて口を噤んだ。ギュッと食い縛っていなければ、もっとひどい弱音が出ると思ったのだ。


 私って、こんなに弱かったんだ。

 くしゃくしゃに顔を歪めながら、笑美は洗濯物を絞る。汚れは綺麗に落ちていた。


 ごしごし、と笑美が涙を拭うように壺を擦る。その様子を茂みから静かに見守っていた人物が、声をかける前に立ち去る。白い雪が空になびいた。




***




「だから、なんでダメなんだよ!」

 洗濯物を抱え、川から戻った笑美を待っていたのは騒音だった。

 怒鳴り散らす若い声が耳に入る。笑美はつい、またかと呟いた。


「勇者様が言うほど、この棒っきれを振り回すのは簡単じゃねーって言ってんの。魔法に特化はしてても、体術の方はからっきしだろ? ふたつなんて極めなくていいんだから、おめーさんは魔法を頑張ろうや」

「魔法のやることはやったって!! サイードが持って来てた本も全部読んだ! なぁいいだろ、女のソフィアに教えてるんなら、俺にも教えてくれよ!」


 冬馬とヴィダルのやり取りを聞きながら、笑美はキャラバンのステップに足をかける。一人で登れなかった階段も、自力で登れるようになっていた。


 室内に入り息をつく。サイードの弟が誂えたキャラバンは、前のキャラバンに比べて少しだけ派手だった。

 キャラバンの交換はものの数時間でアッサリと終わった。あまりにも難なく馬車の交換が済んだため、笑美は呆気にとられてしまったほどだ。しかし、呆気にとられていたのは笑美だけではなかった。兄の暴挙に、当事者の弟さえ仰天し、涙に暮れたという。


 キャラバンの指定の場所に、笑美がぽんと洗濯物を突っ込む。あとで冬馬に魔法で乾かしてもらうのだ。


「なんだよ! せっかく下手に出てんのに!!」


 キャラバンから出ようとドアを開けると、まだ怒鳴り声が続いていた。ガタガタガタ、とキャラバンが冬馬の怒気で揺れる。

 最近は冬馬も安定していたため、こんなことはあまりなかった。揺れる木板を見て、そろそろ止めたほうがいいのかもしれないと感じる。

 笑美は少しの疲れを感じてため息を吐き出した。たった一人の、同じ日本人。こんな感情は抱くのはよくないと思いつつ、立場を自覚した笑美は、どうしてもひとつの考えが頭から離れなかった。


 なんで冬馬はもっと、みんなと協力して仲良くしようと思えないんだろう。


「勇者様、どうぞお気持ちを静められて――」

「あんたらじゃ魔王は倒せないんだろ?」


 冬馬が強い言葉を吐く。もう、落ち着いてよ。笑美は止めるためにキャラバンのステップを一段降りた。


「じゃあ俺がやるしかないじゃん、俺が頑張るしかないじゃん!! 俺は、だって、勇者なんだから――」


 ――パシャッ


 空気を震わせるほど大きな音が鳴った。え? と思ったのは笑美だけではなかったらしい。怒りに身を震わせていた冬馬でさえ、こちらを振り返っている。その目が大きく見開かれていて、笑美は焦った。


 次いでダパパッという音がしたことに笑美は気づいた。肩が濡れたのを感じ、雨だろうかと笑美が天を仰ぐ。しかし冴え渡る青空は雨どころか雲ひとつない快晴だ。


 冬馬が無意識の内に生み出していた猛烈な風が止んでいる。

 静かな場に、戸惑いを多分に含んだ冬馬の掠れ声が響いた。


「つ、壺姫?」

「大丈夫かい?!」

 慌てたソフィアが、キャラバンのステップで立ち止まっている笑美に駆け寄ってきた。

 仲間たちのその顔を見て、笑美は顔をひきつらせた。皆の顔から、自分が今何か、ものすごく良くないことになっているのがわかったからだ。


 近づいてきたコヨルが懐から小さな手鏡を取り出した。鏡の中を見て、笑美は固まる。


 白磁の壺から、大量の水が噴き出していたのだ。


 討伐隊面々は、その青空よりも更に顔を青くして笑美を見ている。笑美の壺から飛び散る飛沫が、全員にかかっていた。


「つ、壺姫。お加減は、ご容態は……」

「おいおい嬢ちゃん、大丈夫か、干上がんねえかそれ」

「なんか、すんげぇ壺から水出てんだけど……?」


『ななななななにそれ、なにこれ、なんで、こんなに水が?!』

 頭から潮のように次々と水が噴き出していた。既に笑美はびしょ濡れである。笑美はショックと驚きでバタバタと体を動かした。その間も、とめどなく水は笑美の壺から溢れ出している。


「気持ちをお鎮めください」

 サイードの声が笑美の背筋を反射的に伸ばした。こんな時に何か皮肉を言われてはたまらない。笑美は、吸って吐いてを繰り返し、必死に心を鎮めようと努めた。しかし、いくらも足しになりはしない。


「何、何があったんだ、誰かになんかされた?!」

 ブンブンと大きく首を横に振る笑美の隣で、しれっとサイードが答えた。


「勇者様のお声は森の獣を寄せ付けぬほど大きいですからね。聖女様の元にも届いていたのでしょう」

 冬馬はそこで、笑美のこの奇妙な暴走が、自分が始めた仲違いのせいなのだとようやく気付いた。


「んあああああっ! っもう!」

 虚を突かれ目を見開いた冬馬は、一息吐き出すと、大きな雄たけびをあげた。

 その様子を何事かと見守る面々に向け、冬馬は顔を上げる。

 ムンッと気合を入れた冬馬は、意を決してヴィダルを振り返り、大きく頭を下げた。


「――っごめん!」

 唐突な冬馬の言葉に、ヴィダルは片眉を上げた。


「色々悩んだり、あんたたち騎士に申し訳なかったりで、焦ってた。頼りにならないって、思ってるわけじゃないんだ」

 冬馬の言葉に、ヴィダルは笑う。


「馬鹿野郎、誰しも一度は通る道だ。何も気にしちゃいねえよ。ただ今から二ヶ月ぐらいじゃ体力作りぐらいしか出来ねぇな。期待するような面白そうなことは何もねぇぞ」

「それでもいい! やる、なんでもやる!」


 輝く冬馬の顔を見て、二人の間にあった確執が溶けたことを笑美は感じた。素直になれた冬馬。聞かれたこと以上の親切をかけてやるヴィダル。

 感動に胸が詰まり、笑美が再び壺から大きく水を噴出させる。握手をしていた冬馬とヴィダルが、大慌てで駆け寄って来た。


「嬢ちゃん、ほら、これ見えるか?握手、あーくしゅ」

「これ以上どうしろっつーんだよ!」

 詰め寄ってきた二人から隠れるように、笑美はサイードの背後に回った。サイードの背に自分の背をつけ、地面を睨みつける。甘えたがりな指先が、知らぬ間にサイードの衣装をキュッと握っていた。


「肩でも組んでみてはいかがでしょう」

 首を捻り笑美を見下ろしているサイードの傍で、ソフィアが涼しい顔をしてそう言った。その提案、乗った! ヴィダルと冬馬は肩を組む。


「あー俺ちょっとかけっこしたくなっちまったなー!」

「お、俺も! ちょっとそこら辺走ってみようかなー!」

「よしっ競争だ!」

「おー!」

 あ、逃げた。とコヨルが小さく呟いた。遠ざかる足音を聞きながら、ずるずるとしゃがみこんだ笑美をサイードが抱える。いつの間にか潮は止んでいたが、サイードの背中は笑美と同様びしょ濡れだった。


「二人は出発の用意を」

 野営所の片づけを命じると、サイードは水が噴き出す笑美を抱きかかえてキャラバンへと移動した。

 行李から数枚の布を取り出すと、いつもの場所に腰を据える。膝の間に笑美を座らせ、ぐるぐるぐると肩や背中に布を巻きつけた。梱包された壺を、サイードは腕に囲う。

 毎晩二人で眠るポーズだった。濡れた服をお互いに着替えたほうがいいことはわかっていたが、笑美はこれが何よりもありがたかった。本当に、ありがたかった。

 笑美の体をローブで包むと、サイードは堪えていたかのようにため息を吐き出した。


「いつまでそうしているのですか。しっかりなさい」


 冷たい声に、笑美は身を縮こまらせる。サイードの服を握り、最近とみに嗅ぎ慣れてしまった匂いに顔を寄せる。腹の底まで吸い込んだ匂いに、笑美の肩が震えた。


 全身で息を吐く。

 今、壺でよかったと。笑美は心底思った。

 こんな顔も、泣き声も。誰にも知られたくない。今の私に、泣く権利はない。


 笑美の体のこわばりを無視して、サイードは手を伸ばして書類を取る。笑美の背に手を回し、まるでいつものように書類を見始めた。笑美はサイードが何も言わないことに安堵しながら、濡れている彼の肩に顔を押し付けた。


 笑美は恥じた。己を、深く。


 笑美を打ちのめした現実は厳しい物だった。ここは異世界だからと何処かで浮かれていた浅はかさ。実際に魔物が人を傷つけている衝撃。人に助けられていることにも気づかない未熟さ。

 そのどれもが、笑美を傷つけ落ち込ませるのには十分だった。しかし、だからと言って


 ――なんで冬馬はもっと、みんなと協力して仲良くしようと思えないんだろう。


 だからと言って、人を傷つけていいわけじゃない。


 笑美は慢心していた。傷つき、現実を見つめ直した自分は偉いのだと。いつまでも同じ場所から動かない冬馬を侮っていた。

 笑美と冬馬では、立つ位置も、見る方法も違ったというのに。


 ――じゃあ俺がやるしかないじゃん、俺が頑張るしかないじゃん!! 俺は、勇者なんだから――


 冬馬は。

 何もできない笑美とは違い、強大な力を持っている。魔王を倒す役目を期待されている。ただ旅について回って、好き勝手ふらふらしていればいいだけの笑美とは、最初から何もかも違ったのだ。


 焦って、当然じゃないか。傷ついて、当然じゃないか。不安になって、当然じゃないか。


 冬馬は一度も笑美を責めたことがなかった。お前がもっと役に立てばと。罵られたこともなかった。冬馬は自分の役目に真摯であった。

 世界を知り、魔法を覚え、魔王を倒すと、そして笑美をも守ると誓った。だからこそ、冬馬は今、暗闇の中を必死に声を上げながら走っている。


『冬馬、ごめん。ごめん……』


 冬馬もこの世界に慣れ、笑美への依存も薄まっていると笑美は感じていた。だが、今回とおなじように。もしかしたらそれすら、どこかで必死に顔を取り繕っていたのかもしれない。


 笑美は声を絞り出した。当たり前のように、その場に響かない懺悔。冬馬に聞かせられない、しょうもない自己満足のための謝罪。


 今笑美がしなければいけないことは、暗い顔を晒して謝罪を口にすることじゃない。いつものように明るく笑って、冬馬を笑顔にしてやることだった。魔王を倒す、冬馬を支える。


 晴れ女でテルテル坊主。冬馬の泣き顔だって、晴れにできるはずだ。


 笑美はサイードの服を掴んだままだったことに気付いた。離そうとした手は、ずっと力を入れていたためか、痺れて動かない。

『あれ、どうしよう……』

 開かなければ。もうサイードから、離れなければ。濡れた服を着替え、着替えさせ、平然な顔をしなければ。

 そうわかっているのに笑美の体は動かなかった。書類を読んでいたサイードが、壺の身じろぎに気付いたのか、そっと笑美の背を撫でた。


 驚きに笑美の息が止まる。信じられなかった。分厚い布越しに、しかし確かに感じた振動を笑美は何度も反芻した。


 サイードには、きつい言葉しか投げかけられたことがなかった。厳しくしか、接されたことがなかった。

 雪のような人だと思っていた。冷たく、厳しく。降り積もれば降り積もるほど、どう接していいかわからない気高い存在。

 なのに、撫でられる手のあたたかさに――抗えず。笑美は再び体の力を抜いた。


「あれ? 壺姫どうしたの?」

「眠られたようです。発車しましょう」

 キャラバンに入ってきた冬馬はすっきりした顔をしていた。一人で抱えていた重荷を大人に晒すことで、冬馬にも心の変化があったのだろう。

 彼はこの世界で、頼れる大人を見つけることが出来た。心細さに震え、笑美に依存していた冬馬にとってそれは跳躍であった。


 笑美はなるべく皆に動きがばれないように、顔をサイードの胸に押し付けた。笑美が起きていることなど、サイードは気づいていただろう。それなのに、笑美の心情を慮って眠ったことにしてくれた。


 ――手を伸ばしてもいいんだろうか。伸ばした手を、振り払わずに握ってくれるだろうか。


 笑美は悔しさに歯を食いしばる。皆から見えぬよう、書類で隠しながら撫でてくれるサイードの手のあたたかさに笑美は涙を堪えた。

 何も見えていなかった自分の未熟さと、今はただ向き合おう。そしてここから立ち上がったその時は、いつものように笑っていよう。そう決めて。


 馬車はゆっくりと動き始めた。夕日は赤く、溶けるように揺れていた。






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