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19.寝耳に水の聖女

「ああもう、最高!」


 聖堂の一室で、カリンはうっとりとつぶやいていた。


 細かな彫刻が壁や天井に刻まれた、荘厳そのものの室内。壁には見事な絵が飾られ、窓には重厚なカーテンが美しいドレープを描いている。


 部屋の真ん中には、長椅子が一つ置かれていた。優美な曲線を描く脚に最上級のビロードを用いた、この上なく高級なものだ。


 カリンはその長椅子にゆったりと寝そべって、感嘆のため息をつき続けていたのだ。


 今の彼女がまとっているのは、神官たちのローブに似て、しかしずっと装飾の多い、女性らしい曲線を際立たせるドレスだ。女官たちにより髪は丁寧にくしけずられて結い上げられ、顔にも丹念に化粧を施されている。


 彼女がこの世界に呼ばれてきたときにまといつかせていた、生活に疲れた雰囲気はどこにもない。ふるまいのほうは少々品に欠けるものの、いでたちはどこぞの令嬢に見えなくもない。それが今の、カリンの姿だった。


「贅沢な暮らし、素敵な男性たち! ちょろっと魔法を使うだけで、毎日あくせく働く必要もないし!」


 ここで過ごすうち、彼女もまたここが夢の世界ではなく、どこか別の、実存する世界なのだと気づいていた。しかし彼女はその事実をすんなりと受け入れると、ここぞとばかりに贅沢を楽しむことにしたのだった。


 差し出されたワイングラスを受け取ると、カリンはそれを一気に干す。すかさず、今度は果物の載った皿が差し出された。


 今彼女の世話を焼いているのは、女官たちではない。神官と、神官騎士たちだ。それも、若くて見目麗しいものばかり。みな、カリンが自分の世話係として指名したものだ。


 彼らにとって、聖女に仕えることができるのは光栄なことであった。だからみな、聖女の命におとなしく従っていた。


 ただこんな日々を過ごすにつれ、彼らの頭には一つの疑問が浮かぶようになっていた。


 魔王を倒すことのできる、唯一の存在。たった一人の救世主。そんな女性が、言い方は悪いが……こんな俗物でいいのだろうかという、そういった疑問だ。


 彼らは今日もそんな疑問を呑み込みつつ、無言でたたずんでいる。


 そしてカリンは周囲に満ちている困惑など意に介せず、近くにいる男性に声をかけた。


「ふふっ、ねえメルヴィル、あなたも飲みなさいよ? 一人で飲むなんて、味気ないわ」


 その男性――神官騎士の副長であるメルヴィルに、カリンはとろりとした流し目をよこしている。


 彼女はすっかりメルヴィルのことが気に入ってしまい、こうして四六時中、そばにはべらせているのだ。


「いえ、私は聖女様をお守りするためにここにいるのです。飲んだくれていては、万が一の際に機敏に動けません」


 そうしてメルヴィルは、普段の彼からはまるで想像もつかないほど生真面目に、堅苦しくふるまっていた。


「真面目ね? そんなところも素敵。だったら、果物はどう? 聖女じきじきに、食べさせてあげるわ」


 そう言ってカリンは、差し出されていた皿からブドウを一粒手に取り、メルヴィルに向かって差し出した。


「……それでは、拝領いたします」


 手を差し出してブドウを受け取ろうとしたメルヴィルを、カリンは色っぽいまなざしでにらみつけた。


「違うでしょ。ほら、口を開けて」


 その言葉に、メルヴィルがまずいものでも飲みこんだような顔になる。がっしりした顔をひきつらせながら、彼はそろそろと口を開けた。


「はい、よくできました。ふふっ、いい子ね」


 とどめとばかりに投げかけられる、そんな一言。メルヴィルは遠い目をしながら、おとなしくブドウを咀嚼していた。


 メルヴィル様が耐えておられるのだから、自分たちも任務を全うせねば。集められた男性たちはみな、心の中でそう決意していた。


 と、部屋の扉が叩かれ、アルモニックが入ってくる。メルヴィルや男性たちが、一斉に背筋を伸ばし、敬礼をした。


「聖女様、少しよろしいでしょうか」


 カリンが召喚されてから、アルモニックはこうしてちょくちょく様子を見に来ていた。日に日に自堕落になっていくカリンのありさまに、表情一つ変えることなく。


 そして時折、彼はカリンのもとに怪我人を連れてきた。彼女はすぐに回復の魔法を使いこなせるようになり、怪我人をすぐに癒していた。


 つまりカリンは、一応聖女としての務めそのものは果たしているのだ。多少羽目を外すくらい、大目に見るべきだろう。アルモニックは、そう考えていたのだった。


 それに彼は、知っていた。彼女がこのような優雅な暮らしを続けていられるのも、そう長くはないということを。


「あら、どうしたの? また、様子を見に来たの? それとも、怪我人?」


 もうすっかり聖女としてのふるまいが板についてしまったカリンは、教会の最高権力者であるアルモニックのことすら、同格……というより、下に見ていた。


 しかしアルモニックは露ほども気分を害していないかのように、いつも通りおっとりと答えた。


「いいえ、聖女様。こたびは、聖女様にお伝えしたいことがあってまいりました」


 その声音に、メルヴィルたちが一斉に息を呑む。彼らは、これから話される内容に心当たりがあるようだった。


「北の地に、魔王が降臨したようです。聖女様におかれましては、急ぎ神官騎士たちを率い、かの魔王の討伐へと向かわれますよう……」


「え、魔王って何? 初耳なんだけど」


 みるみる表情をこわばらせている周囲の男性たちとは裏腹に、カリンはあっけらかんと言い放った。唐突に告げられた内容がよほどおかしかったのか、こらえきれずに失笑してしまっている。


「聖女が存在して、魔法があって……魔王まで出てくるなんて、どういう世界観? ちょっ、おかしいわ……」


 長椅子に突っ伏すようにして、カリンは肩を震わせて笑っている。そんな彼女を見ながら、アルモニックはこっそりとため息をついていた。


 アルモニックの胸の中には、ひとかけらの不安が巣くっていた。シェスターとカレンのことだ。


 いったいどのような手を使ったのかは分からないが、シェスターは教会の束縛を離れ、自由の身になってしまった。まずありえないことではあるが、しかしそれはまぎれもない事実だった。


 この事態に、カレンが何らかの形でからんでいるのではないか。根拠はなかったが、アルモニックはそう思えてならなかった。


 あの二人を、放っておいてはならない。このままだといつか、何か大変なことになる気がする。


 アルモニックは秘密裏に刺客を放ったものの、あの二人は潜伏しながらこまめに居所を変えているらしく、依然として消息はつかめなかった。


 やきもきしていたところに、魔王降臨の知らせが入ったのだった。


 そうして、アルモニックは決意する。こうなったら、一刻も早くカリンに聖女としての務めを果たさせ、聖女の名のもと世に平和をもたらすしかない。


 それに成功すれば、シェスターやカレンが何をしようとも、痛くもかゆくもない。


「え、でもあたし、戦いとか無理だし! ほら、回復しかできないんだもの!」


 もっとも、その聖女がどうにも頼りなく、聖女たる自覚もない。またしても不安を覚えながら、アルモニックは静かに言葉を重ねる。


「はい。聖女様には後方にて、傷つきし者たちを癒していただきとう存じます」


「あ、回復だけなのね、よかった……」


 ほっとしたカリンに、アルモニックはさらに言いつのった。


「……なれど、魔王の力にあらがうことができるのは聖女様のみ。あなた様が魔王と対峙なされないのであれば、いずれこの地は魔王の手により、滅びるでしょう」


「ちょ、ちょっと、いきなり重たい責任をどんと載せてこないでよ!」


「まだ、時間はございます。ゆっくりと、考えを整理してください」


 そこまで言ったところで、アルモニックは深々と頭を下げる。


「では、遠征の準備を整えてまいりますゆえ……」


 まだ動揺しているカリンを残して、アルモニックは部屋を出ていった。いつもより、少し速い足取りで。

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