18.私の決断
「えっ、逃げるって、どうして……? それに、どこに……?」
なおも降り注ぐ、ぞっとするほど美しい流星の雨。しんと静まり返った中で、彼の声はやけにはっきりと聞こえた。
「魔王が降臨するのは、あの流星雨が降り注ぐ先、ここよりもさらに北の地だ。いずれ教会の連中は、聖女を連れてあちらに向かっていく。ここにいたら、あいつらと鉢合わせてしまう」
そう主張するシェスターの声は、必死そのものだった。彼につかまれたままの手が痛い。どうやら無意識のうちに、力をこめてしまっているらしい。
「今なら、まだ間に合う。いったん南に抜けて、やつらの進軍路から外れればいい」
「うん……」
彼の気迫に圧倒されながらも、もう一度空を眺める。ひときわ大きな流れ星がすぐ北の山に向かって飛んでいき、落ちた……ように見えた。周囲の人たちが、恐怖に息を呑む気配がする。
ああ、あれが魔王なんだ。自然と、そう理解できてしまった。
「……魔王って、どんなものなのかな」
そして考えるより先に、そんな言葉が口をついて出る。シェスターの紫の目が、驚きに見開かれた。
やっぱり驚くよね、突然こんなことを聞かれたら。そう思いながら、そっと小声でささやきかけた。
「私が魔法を使えるかも、って分かったときに、あなたはこう言ってたよね。『その力を利用されて、戦いに駆り出されるかもしれない』って。それも、魔王軍との戦いに」
命からがらデルの町にたどり着いたその日、彼はそう言った。だから私は聖堂に戻ることなく、魔法について深く考えることもなく、そのまま旅を続けることにしたのだった。
「あのときは、戦いが嫌で、そんな目にあうのが嫌で、逃げることにした。……でも今の私は、自分の力を使いこなせるようになった。逃げる以外の道を、選べるようになった」
偶然シェスターを助けたことで、自分の力と向き合うことを決めた。そうしてあちこちで人助けをしているうちに、また別の思いを抱くようになっていた。
「……私は、あなたの力になりたい。その思いは変わらない。むしろ、どんどん強くなってる」
胸の内の思いを、そのまま言葉にのせていく。シェスターは驚いた顔のまま、静かに目をまたたいていた。
「でも同時に、この世界の人たちの力にもなりたいなって、そんなふうにも思うようになっちゃって……」
そこまで言ったところで、急に申し訳なさがこみあげてくる。
「……ごめん。あなたが私のことを心配してくれるのは分かってる」
彼の手をしっかりと握り返し、その目をまっすぐに見つめた。
「あなたはいつも、私のわがままをかなえようとしてくれる。だからこそ私は、そんなあなたに甘えてしまっているんだと思う。でなきゃ、こんなことは言えない」
本当は、私はこんなことを言うべきではない。分かっていても、言わずにはいられなかった。
「でも……でも、私……このまま逃げたくない」
シェスターの言うとおり、逃げるのが一番だ。そうすれば私たちは、二人で今までどおり、幸せに過ごすことができる。
でも、その道を選べない自分がいた。
「このまま逃げたら、後悔する気がするんだ。ほんの少しでも、私にできることがあるなら……」
私は、力を得た。その力で、できることがあるのだと知った。たくさんの人の笑顔を守れるのだということも。
「きちんと、それに向き合いたい」
はっきりと言い切ったら、シェスターが顔をこわばらせた。そしてすうっと、表情が消えていく。以前の彼を思い出させる、そんな顔だった。
「あ、もちろん、この手で魔王を倒すとか、そんな大それたことは考えてないよ。ほら、ちゃんと聖女が降臨したって話だし、魔王についてはそちらがなんとかしてくれるはずだし」
あわてて付け加え、それからもう一度、彼の目をまっすぐに見つめる。
「でも、これからあの北の山は、そしてもしかするとこの村も、戦場になるかもしれない。きっと、たくさんの人手が必要になって、大変なことになると思うの」
シェスターは私の話を聞きながら、小さくうなずいてくれた。それに励まされるように、さらに続ける。
「だから、混乱にまぎれてちょっぴり人助けくらいなら……できるんじゃないかなって」
魔王軍との戦いが、どれだけの規模のものになるのか分からない。
でもきっと、今までの盗賊討伐なんかよりはずっとずっと大掛かりなものになるはずだ。だって相手は魔王なのだし、もしかしたら聖女や教会の人たちも苦戦しそうな気がする。
だったらその隙をついて、こっそり手助けするくらいできるかもって、そう思ってしまったのだ。
もちろん、甘い考えだってことは分かっているけど……でも人手は、あって困るものでもないし……。
「お前、教会の連中に……アルモニックに命を狙われたことを、忘れたわけではないだろう」
「うん、もちろん覚えてる」
「お前の姿を見たら、あいつらは魔王の討伐よりも、お前を始末することを優先させるかもしれない」
「そうなったら、遠慮なく返り討ちにする!」
胸を張って、堂々と宣言する。
今まで何度も盗賊たちを退治してきて、私もそれなりに戦いには慣れた……と思う。
爆発の魔法を駆使して、不意打ちを仕掛けたり、物陰から攻撃したり、あれこれと立ち回れるようになったのだから。さすがに自分より素早い相手と戦うのは無理だけど、そうでないなら勝ち目はある。
シェスターはぐっと眉間にしわを寄せて、考え込むような表情になった。私の言葉を踏まえて、どうするか考えてくれているのだろう。
やっぱり彼は、私にはちょっと甘い。彼なら、有無を言わさず私をかっさらって逃げることもできるだろうから。
私は黙って、彼の言葉を待った。流星に彩られた空の下、しっかりと手を取り合ったまま。
「……お前は、お人好しだな」
やがて、シェスターがぽつりとつぶやいた。
「以前、お前は俺のことをお人好しだと言った。しかし俺からすれば、お前のほうがよほどお人好しだ」
彼は切なげに微笑み、私の手をそっと引き寄せる。自分の胸元に。
「そしてそんなお前を全力で支えたいと、俺はそう思ってしまっている。……お前と出会う前の俺は、こんなふうに考えることなんてなかったのにな」
「私も、あなたと出会わなかったら、とにかく逃げることしか考えなかったよ」
半歩彼に近づいて、にっこりと笑ってみせた。
「お互い様、といったところか」
「そうそう。お人好し同士、お互い様、ってことで」
どうやら、彼も納得してくれたらしい。わがままを押し通したことにちょっと申し訳なさはあるものの、これで心置きなく動き回れそうだ。
「よし、そうと決めたらすぐに準備に移るぞ。周囲の地形を確認して、拠点となる場所と、いざというときの退避路を確保して……忙しくなるな」
シェスターはがぜん張り切った様子で、そんなことをつぶやき始めた。でも忙しくなるのって、結局私のせいなんだなあと思ったら、ちょっと胸が痛んだ。
「……やっぱり、あなたに結構負担をかけちゃうよね……なんか、ごめん」
「謝るな。俺は山育ちだから、そういった作業にも慣れている」
そう答えると、彼はにやりと笑い、声をひそめた。
「……それに、教会の連中を出し抜くようで、少々愉快でもある。あいつらに見つかることなく、どれだけ器用に立ち回れるか……俺の準備次第だ。腕が鳴るな」
さらりとそんなことを言ってのけた彼の表情は、いつもよりどことなく……いたずらっぽく見えた。
「……ちょっぴり楽しんでるように見えるのは、気のせい?」
「どうだろうな。お前を守り抜くために、入念に準備をする必要がある。そういった意味で、身構えているのは確かだ」
すっと顔を引き締めたシェスターが、しかしまたふっと笑う。
「ただ……同時に、あのじいさんたちをこっそり出し抜けるかもしれないと思ったら、少し心が浮き立つのを感じたな。これでほえづらかかせてやれそうだ、と」
「それって……今まで教会の人たちに、行動を縛られてた……から?」
「いいや。俺があいつらに対して腹を立てているのは、お前の命を狙った、ただその一点においてのみだ」
ためらうことなく放たれたその言葉に、一気に赤面してしまう。本当に、シェスターがこんなことを口にする日が来るなんて……。
「とはいえ、今日はもう遅い。ここを発ったら、しばらくは野宿になる。今のうちに、ゆっくり体を休めておけ」
「野宿でもいいよ。あなたが一緒なら、どこだって楽しい」
だから私も、本音を口にしてみた。シェスターは一瞬目を丸くすると、くしゃりと幸せそうに笑った。
「本当に、お前というやつは……」
そうして、私の耳元に口を寄せる。
「俺もだ」
不吉だとされる流れ星、その下で、私たちはそのまま寄り添っていた。周囲に満ちる恐怖も困惑も、私たちの間には割り込めないままだった。




