30 ファリーとマグ
この夢の中にいて、幸せそうな一人と一匹とそれからもう一匹を傍目で見ている俺が、感じている妙な感覚は何なのだろう。
スーをこれまで「彼女」と表現してきたことに対して新しい事実が加わったことで、その表現が正しくないかもしれないと動揺したのはある。
だがそれは、スーの母親であるファリーがマグに情愛を抱いたと告白したことで同時に解決したようなもので、夢の中ですぐに自分の間違いを訂正出来るものではないので妙な感覚の正体にまではならない。
「はは、まったく。ファリーは正直で本当に純粋だな……竜は皆そうなのかい? 君に会うまで私、長い時間を生きる竜族なんて頑固者のおじいさんしかいないのだと思っていたよ」
「まぁ、そんなの偏見だわ。私は貴方を心から慕っていたのよ……」
ファリーの爬虫類の顔のつくりでは上手く表現しきれていないが、照れ笑う彼女は長い時間をかけてマグを愛していたのだろう。
俺には段々、再会を喜ぶカップルのように見えていた二人が、スーを挟んで長年連れ添ってきた夫婦のようにも見えてきた。
まさかスーは二人の子供だとでもいうのだろうか。いや、そうだとすればマグはスーをみてこんな反応をしないだろうし、それはないな。
ところで、妙な感覚を放置したまま新たな疑問に触れるのだが、ファリーはスーが俺の前でしているように人の形に化けることは出来ないのだろうか。
鼻先でしか甘えられない巨大な竜の体ではなく、尻尾や羽根は残しても人間に近い姿をとり、全身で愛する人に抱きついて気持ちを表したりしないのか。
その方がずっと距離も体も密接になれるのに。どうして彼女はそれをしないんだろう。
(……え?)
目の前で真っ赤な血溜まりが拡がり、俺の足元からその疑問への悲しい答えが返ってきた。
(……? ファリー?!)
地面を濡らす赤い水に、マグよりも一息早く俺が叫んだ。
(どうしたんだ?!)
足の下から上がってくる、塩味のある鉄の臭いに俺は思わず口と鼻を塞いだ。
マグが声を出してファリーの体を離れると、赤い血は彼女の脇腹から溢れだしているのがわかった。
白い鱗の上に網目を描いて滲み、ぽたぽたと地面に滴り落ちている。血を止めるために彼女の腹の側に潜り込み、原因になる傷口を探し始めるマグ。
「……そんな、まさか」
彼はすぐに手を止めて言葉の終わりを切った。
傷が見付かったのならすぐに処置をしないのか。一体何をしているんだ。と、まだまだとめどなく溢れているファリーの血液を踏まないようにし、俺はマグに近寄った。
マグは黙ったまま小さく震えていた。
彼の腕に丸まっているスーも心配そうにピュウと鳴きながら彼に顔を向けている。
マグには先ほどまでの大袈裟に遊ぶような陽気さや動作がなく、ただ黙って彼女の傷口を見ていた。
(何やってるんだよ、マグ?! 治癒魔法とか使えないのかよ? ファリーの怪我、治してやらないのか?!)
聞こえないことはわかっているが口を出さずにいられない。
居てもたってもいられない俺はマグに駆け付けた。
(酷い……誰がこんな……)
「わかっていたんだね、君は」
俺とマグの声が初めて重なった。反対の色を付けて。
ファリーの腹には人の両手では塞ぎきれない大きな亀裂が開き、肉の壁が呼吸で上下し空いていた。筋肉の塊が削ぎとられたように抉れて剥がれ落ち、骨の欠片が剥き出してしまっている。
急に負った怪我ではない。しかし、ファリーの呼吸は急に早くなる。
なんとも惨たらしい姿に、俺は誰かが彼女を襲い怪我をさせたのだと決め付けた。
憎しみを当てる相手をすぐにでも探してやるべく振り返り、マグに同意を求めるが、マグには俺の顔など見えていない。
それ以前に、夢の中のマグには、俺のような「誰かはわからないが近くに敵がいるに違いない! ファリーをこんな目に遭わせた奴に怒りをぶつけよう!」などという憎しみの感情はなかった。
彼は焦っている俺とは違い、悟ったような静かな表情でファリーを見詰め続けている。
わかっていたとは一体何事だ。それよりもファリーを助けなくては。
(くそっ! 何でそんな顔してるんだよ!)
俺は自分の腕を叩いて、マグがしていた術式の検索を開こうとするが、緑の光は現れない。
(なぁマグ、あんた、魔王を倒せる程すごい魔法が使えるんだろ? だったらこんな傷くらい……!)
俺がいくら叫んでも誰かの夢の中。干渉できないまま話は進んでしまう。
「よく私が来るまで待っていてくれたね」
「ええ。こうするしかなかったの」
彼の宥めるような声にファリーも短く息を吐いた。
腹の傷を顕にしてから彼女は病弱そうになったようにも見える。
マグの冗談に笑いながら応えていた姿が一変し、苦しげに嗚咽を漏らして横たわる。
伏せて見せなかった傷口は、彼女自身がこの時まで隠していたのだ。
啜り泣くような弱々しい女声が、鋭い牙の間から滑り出す。
「鍵のかかったこの部屋には何もないし、誰も来ない。だから……」
「ストランジェットに自分の肉を食べさせた。そうだろう?」
冷静なトーンでそう言って、
「君はなんて無茶なことを……私がもう少し早ければ……」
体の力が抜けたようにその場に膝まずいた。
止めどなく流れる赤い体液が、マグの膝につき糸を引いて落ちる。
マグは彼女が言い出すまでずっと黙っていたが、とうとう弱ったファリーの顔を見ることを辞めて泣き出した。
二人の様子を感じ取った小さなスーがマグの腕をそっと離れ、見えないはずの俺を頼るようにしてこちらに来る。
俺はその手のひらで掴めそうなほど小さな頭を撫でようと腰を屈めた。
「…………!!」
その直後、マグは俺からスーを奪い返す。
引ったくるように勢いよくスーを抱き上げた顔は厳しく、見えていないそのはずなのに俺は彼に一瞬睨み付けられたような気がした。
「この子を……ストランジェットを連れていくよ、ファリー」
「……ええ、マグ。その子を、きっと……貴方を乗せて空を飛ぶ強い竜に……」
返事を待たずにマグはファリーに背中を向けた。
雌竜の掠れる声が彼の鼓膜を震わせると肩が怯えたように少しすくむ。
彼女の痛々しく伸ばされた四肢を、折れ曲がった蝙蝠羽根を振り返ることなく、もと来た道を引き返す。
マグの後ろ姿を虚ろな目で見送っていたファリーは、俺の前で静かに長首をもたげ、やがてゆっくりと地面に伏せる。全身の力を抜けば、もうその体はほとんどが骨と皮のようにも見えるほど衰弱していた。
彼女には、マグが辿り着いた時にはすでに人に化けていられるような体力はなかった。
ただ想い人が訪れるときを待ち、子を守り、途方もない痛みを堪えていた。
その終わりの見えなかった無限の我慢がやっと今、終わった。
(ファリー……)
俺の足元を流れる血は緩やかに俺を避け、報われたように目を閉じる彼女を濡らし地床を赤く染め続けていた。




