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ロストスペル  作者: 海老飛りいと(えびトースト)
第4章.機械都市
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107 はじめての感情

今の取引は上手くいったのかもしれないが、リュワレの中ではそんなことはどうでもよかった。

始まる前から苦手な婚約者ジムディとすれ違ったことで既に精神は削れていたし、その流れで難しい会話を交える二人の男を横に見て一時間近く微笑み続けたのだ。

今日はそれだけでもういっぱいいっぱいだった。


(うぅ。疲れた。ようやく終わりました……)


細い首を支える肩背筋をぴんと張り続け、無味無臭のお茶で時折喉を潤す以外の動作は無し。

ジンガとコルベールが話していた取引内容など正直彼女の頭には入っていない。

ただただ早く時間が過ぎ終わるのを待ち続け、男たちが交渉成立の握手に漕ぎつけるまでをぼうっと眺めていただけだった。


どうせ内容を知ったところで、なのだからどうだっていい。自分には関係がない。

あったとしても知ったこっちゃない。

と、解放された途端、思いっきりあくびをしたい気持ちを堪えつつリュワレは足早に廊下へ出た。


「ふあぁ……」


出たところで我慢していた溜め息を思いっきり吐き出し、長い髪を振りながらうーんと大きな伸びをしたのだが。


「退屈でしたでしょう?」


「ふえぇっ?!」


誰もいないと思っていた廊下で声を掛けられ、伸びた形のままリュワレは凍り付く。

彼女が驚き慌てて姿勢を正そうとするも、自動扉の横に立つ人物はこちらへ目を向けようともしなかった。


「隊長との用談は」


声を掛けた人物ことイレクトリアは、鍵盤を鳴らすように空中で指を動かすと空いた手のひらに小さな鳥の形を作り出す。

都市の人々が目にすれば疑問に思い、婚約者のジムディであれば体調を心配していたであろうリュワレの素行をまったく気に留めずに手遊びをする彼に、


「あ、貴方……!」


気を抜いたところを見られて恥じらい、何とか言い訳をしようとするリュワレ。

都市の中では誰もが崇め奉る女神で、御神体のような扱いを受けているからには常に相応の雰囲気を出していなくてはならない。彼女は姿勢を改める。


気を付けているつもりでいたのに。

どこにいても、どこにでもいる我が儘な子供の顔など出来ない。

取引相手の前では見せず一時間やりすごせていた自身の本性を、扉を抜けた途端に相手の部下に見られてしまったとなると、


「そ、そんなことありませんわ! これは、その、そういうわけではなくて……」


恥ずかしさを上回って何故か苛立ちに近い感情が沸いた。

リュワレの言いたかった言葉はつるりと滑って声がうわずり、喉から胃に落ちてしまう。

まるで彼女を居ないもののようにし、こちらを見ようともしないイレクトリアにリュワレの気勢は行き場をなくしてしまったのだ。


(なんですの? この方は。たしか今日の取引相手と一緒に来ていた……)


一見では取り繕えずどう対応すべきか困った。上手な言い訳も浮かばない。

だが、隣に居るのは何故か自分に興味も畏れも抱くことのない不思議な人。

自分に何の念も持たないイレクトリアは、リュワレにとって初めて出会うタイプの人間だった。


「そうでしょうか。隊長、話下手なんですよね。説明も解りづらいですし」


「い、いえ……ええと」


銀蜂隊アンバーマークの二番、イレクトリアです。リュワレ様」


言い訳も怒りも忘れ、手の中で羽ばたく小鳥の形をした光をよく見ようと彼へ近付くリュワレと、彼女からやって来たことでようやく視線を合わせるイレクトリア。

青年が跪き、小鳥をとまらせた片手を差し出して恭しいお辞儀をすると、小鳥はリュワレの前で光の羽根に変化し消えてしまった。


「こちら側の代表者がご無礼を。謹んでお詫び申し上げます」


「そんな! け、結構です。結構ですわ。イレクトリア様は何も……」


「しかし上の非礼は部下の責任でもございますので」


「いいえ。どうかお顔を上げてくださいませ」


畏まった台詞のやりとりが続くが、厳かな雰囲気になることはなかった。

この会話に中身が無いことを両者とも知っているような奇妙な空気が流れている。


「……きれい、です」


姿勢を直すと背が高く、すらりとした立ち姿になるイレクトリアにリュワレは思わず呟く。

自分で面を上げてと言ったばかりなのに、目の前の騎士の秀麗な姿に彼女はどきりとしてしまっていた。


「……?」


「その……」


都市訪問の為に用意された礼服に身を包んでいるが下に付く筋肉を想像する。

執事コルベール婚約者ジムディと比べるまでもなくしなやかでさぞ良い体格なのだろう。

比較対象を現実では探し出せないリュワレは、いくつかお気に入りの映像作品から俳優たちの姿を思い出して彼と比べていた。


気品漂う振る舞いに、見るものの心を射止める白皙の美貌。

瞳の色は本物の月を見たことがないリュワレにも夜空に優しく輝く満月の感動を与えた。

外見とは逆に嗜虐性のある本質を知らない港街の娘たちが、挙って求愛しているイレクトリアの姿に、


(今までお会いしてきた騎士様とは違う。まるで、映画の中の……いいえ。おとぎ話の中から抜け出してきたような、王子様というのでしょうか……)


リュワレもまた少女の一人として違わぬ想いを浮かべてしまっていた。

自分の脈が速くなっていることに気付き彼女は頬を赤く染める。


「……さ、さっきの態度で構いません。無礼があったのはわたくしのほうなのですから。そうお固くならないでくださいませ、イレクトリア様」


この異性ひとのことをもっと知りたい。

その一目惚れは、敷かれた道を辿ってきた彼女にとって生まれて初めての感情だった。





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