553.旅立ちの相談1
「メルフィーナ様、お茶をお持ちしました。それと、そのう」
軽く昼食を終えて執務室に上がってきた資料と向き合っていると、控えめなノックの後、マリーが開けた扉からアンナがお茶を載せたトレイを手に、珍しく気まずそうな様子だった。
「どうしたの? アンナ」
午後に一度お茶の休憩を入れるのは領主邸の習慣ではあるけれど、大抵執務の合間を見計らってマリーが用意してくれるものだ。そろそろ休憩を入れようかと思っていたのでタイミングは悪くないけれど、常にないことに首を傾げると、アンナの向こうからひょい、とユリウスとレナが顔を出した。
「レディ、執務中に失礼いたします。お茶の休憩がてら、すこしお話をさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
「大丈夫ですよ。みんなで休憩にしましょうか」
口実を作らなくても、話があるならば昼食の席ででもそう言えばよかったはずだが、わざわざ執務室に来たということは多少なりとも、他の住人の耳を憚る話なのかもしれない。
執務室への入室の口実に使われたアンナは微妙に不本意そうな様子でお茶の用意を済ませると執務室を出て行った。メルフィーナの仕事が立て込んでいるときに同じことをすれば、マリーに注意されるのはアンナの方なので、あとで自分からフォローを入れておいたほうがいいだろうと心の隅にメモを取っておく。
メルフィーナの分は小さな砂糖の欠片がひとつだけ、マリーは砂糖とミルクを少し、セドリックは砂糖を三つほど入れたものをゆっくりと傾ける。
レナは紅茶の渋みがあまり好きではないらしく、温かいミルクで、ユリウスはそれで紅茶の味が分かるのかと心配になるほど、溶けるギリギリの量の砂糖をぽちゃぽちゃと紅茶に放り込んでいる。
「それで、なにかあったのですか?」
紅茶で口を潤し、改めて聞くと、ユリウスはいつもと同じにこにこと機嫌の良さそうな笑顔だ。対して、隣のレナはやや緊張している表情だった。
「実は、聖女様から春を目途に旅に出るという話を聞きまして。僕たちも同行することにしたので、その報告をしようかと」
あっさりと、ちょっと森まで遊びに行ってくるのでその連絡をというような口調で言われて首を傾げ、カップをテーブルに置く。中身はまだ熱いお茶だ。動揺しながら飲むものではない。
「マリアの旅にですか?」
「はい」
「僕たち、というのは、ユリウス様と」
「勿論、レナも」
口を開きかけて、何を言っていいものかと閉じると、おい、とユリウスとはす向かいの席に座ったセドリックが重い声で言った。
「レナはまだ子供だ。お前の気まぐれで連れ回すのはエンカー地方の中だけにしておけ」
「エンカー地方がちょっとフランチェスカ国内になるだけじゃないか。将来的にはブリタニアやスパニッシュに行くこともあるかもしれないけど、少し範囲が広くなるだけだよ」
「お前な……」
「ユリウス様。私も、レナを連れて行くことには反対です。そもそもニドやエリに許可は取ったのですか」
「もちろん、真っ先に取りましたよ!」
なんの後ろ暗いところもない明るく、自信満々な様子だった。さすがのセドリックも絶句しているし、マリーも難色を示すように僅かに表情をこわばらせている。
子は親の財産であり、特に娘は父親の所有物として扱われるのがこの世界では当たり前だ。平民はそれほど厳密ではないにしても、結納金や持参金のやりとりで家と家を強く結びつける役割も果たしている。
その父親であるニドがユリウスと共に旅立ってもいいと認めているならば、本来はメルフィーナが口を出すようなことではない。だがレナは領主邸に部屋を持つ家臣に近い扱いを与えているし、個人的にも可愛がっている子供である。
旅は危険なものだし、過酷な一面もある。まだまだ成長過程にあるレナにさせていいものとは、思えない。
「レナは今でも親元から離れて領主邸に奉公に上がっていますし、僕が責任をもって守ります。僕と聖女様の傍はどこよりも安全だと思いますよ」
「ですが、なぜ今でなければならないんですか。もっとレナが大きくなってからでも、せめて体が完成するまで、あと十年くらいは後でもいいではありませんか」
いずれレナが自分の歩む道を決め、それがエンカー地方を出るものだというなら、寂しくとも応援するだろう。
だがどれだけ賢く才能に溢れた少女であっても、レナはまだ幼い子供だ。安定した環境での生活と彼女の身を守る大人たちに囲まれて成長する、大切な時期である。
ユリウスは紅茶色をした砂糖水を傾けて、じっとメルフィーナに金の瞳を向けた。
「レディ、エンカー地方はいいところだと僕も思います。清潔で、暮らしに余裕がある。食事に困る者もほとんどいないし、少し変わった子供であっても共同体のなかにそれを受け入れるだけの寛容さがあります。国中で最も、レナが育つのにふさわしい場所です」
「なら、問題はないではありませんか」
ユリウスは隣に座るレナを見下ろして、いいえ、ときっぱりと言った。
「ですが、この子はひとつところに留まるのはもったいない。才能と好奇心の塊であるレナには色々なものを見て、考える機会を持ってもらいたい」
レナと出会ってから、両親と兄のロドを除けばもっともレナの傍にいたのは間違いなくユリウスだろう。実際レナは才能豊かな子供であるし、今の年齢であってもその片鱗を以て領主邸の事業に加わっているほどだ。
将来が空恐ろしく感じるほどの才気を持った少女である。
だが、メルフィーナにとってはまだ体のバランスが上手に取れない歩き方をして、舌ったらずに自分をメル様と呼んだ、ほんの小さな少女の印象のまま、今も小さな子供だ。
レナの父はメルト村の村長であり、いずれその跡はロドが継ぐことになるのだろう。
具体的に考えていたわけではないにせよ、レナは有能な家臣として、マリーに次ぐメルフィーナの片腕になってくれればいいと、ぼんやりと思っていた。
しばし、沈黙が落ちる。紅茶にミルクを少し足して混ぜないままカップの中身を干し、メルフィーナは慎重に問いかけた。
「……ユリウス様は、レナの将来については、どう考えているのですか」
「将来?」
「レナは領主邸の技術者ですし、メルト村の村長の娘でもあります。このまま成長すれば、将来はエンカー地方の誰かと結婚したり、私の家臣として兄のロドと共に仕えるという道もあるでしょう。レナが望むなら教育を受けさせて商人でも文官でも、進みたい道に進む応援を怠ることはしません。ですが、この年で旅に出て、様々な見聞を得て好奇心を満たし才能を伸ばし……その先に、レナがどのような大人になるのか、ということです」
自分の望むまま自由に生きてほしいとは、メルフィーナも思う。だがまだまだ職業の多様性に乏しいこの世界には、レールから外れた者の生き方などそう多くはない。
長男は家と土地を継ぎ、それ以外の子供は幼いうちから奉公に上がって商人や職人として身を立てるか、その機会に恵まれなければ人足か小作人、もしくは冒険者として生きる。
女性も使用人として奉公に上がるほか、十代で親が決めた、あるいは自分が見つけた釣り合いの取れる相手と結婚して子供を産む。畑を耕し、納税し、その子供たちも親と同じような生き方をする。
共同体が連綿と続けている、それがこの世界の慣習だが、何らかの理由でそこから外れてしまう人々というのも、どうしてもいる。共同体に属さず、技術や体力を売ってその日の糧を稼ぎ、ある程度蓄えたらまた次の土地に移動する人々を、流民と呼ぶ。
流民には旅芸人や吟遊詩人、ある種の職人なども含まれるけれど、総じて身を寄せる場所のない不安定な立場であるのがほとんどだ。
この年で生まれ故郷を去って旅をして暮らすのは、流民の生き方と変わらない。
地縁を作らず、興味や好奇心のままに移動し続けた子供が大人になった時、どんな生き方をしていけるのか、そんなモデルケースはこの世界にはない。
レールを敷かれた人生の全てを肯定する気はないにせよ、一度レールから外れた者たちの末路は大体決まっている。
健康なうちは芸や労働力や体を売り、それに陰りが出れば、飢えた末に人知れずこの世を去る。
残酷なくらいこの世界の弱い者への受け皿は薄く、脆い。
そんな危ない生き方をレナがするなど、到底受け入れがたい。
「ふむ、レディはレナが大人になった後、身を立てる術を失うのではないかと懸念しているのですね」
「はい。勿論いざとなれば私が保護をしますが、それを前提に今好奇心のままに生きるのを許すのは、子供を監督する大人として無責任な振る舞いであると私は思います。一人前の大人として生きていけるように育てる、それが大人の役割ではないでしょうか」
「ふむ、では僕の財産――勿論領地などは血縁以外には継承できませんが、現金や利権をレナに譲るならばどうです? これでも孫子の代まで遊んで暮らせる程度の財貨はありますが」
「ユリウス様……。人は、お金があれば、食べていくのに困らなければ、それで充分というわけではないと、私は思います」
人間はどうしたって、群れで生きる生き物だ。
立場や考え方を理解する相手がいて、心を休める場所を持ち、同じ目標を持ったり時には対立しては和解する。煩わしく思う日があったとしても、それらを遠ざけて一人で生きていくことを幸福だとは、メルフィーナは思わない。
レナにはその才能を認め領主邸に勤めることを許す両親がいて、近しい才能を持つ兄のロドがいる。才能を伸ばすことは、エンカー地方でもできるはずだ。
「絶対に反対だとまでは、言うつもりはありません。ですが成人まで……せめて周りの子たちが奉公にあがる程度の年になるまでは、レナはエンカー地方で子供として生きた方がいいと、私は思います」




