528. 帰宅と変わるもの、変わらないもの
冬の北部の空はほとんどの期間うっすらとした灰色の雲に覆われていて、太陽の光を見る日はとても少ない。春が近づくにつれその雲が薄い日が多くなり、やがて僅かだが切れ目が見えるようになってくる。
「ほんの少し前まで雪が降っていたのに、今日は暖かいわね」
しみじみと呟くと、その雪の中、危険な移動をして駆けつけてくれたアレクシスへ胸がほわりと温かくなる。
今回アレクシスとブルーノは馬を駆ってやってきたため、帰りの馬車はメルフィーナが倉庫にしまい込んでいる貴族用の箱馬車を貸し出すことにした。ラッドがソアラソンヌまで御者を務め、そのまま持って帰ってきてくれることになっている。
「次は妻と共に参ります。奥方様、春までどうぞご壮健で!」
「ええ、ブルーノも。奥様に会うのも、楽しみにしているわ」
満面の笑みを浮かべるブルーノにそう告げて、隣に立つアレクシスに向き直る。
「あなたも、気を付けて帰ってね」
「ああ、また折を見て来る」
「待っているわ」
別れを惜しみ、軽い抱擁をして馬車に乗り込む二人を見送ると、ラッドの操る馬はゆっくりと歩き出し、城館を去っていった。
「ブルーノ卿がいなくなると、それだけで人が十人くらい減ったような気がしますね」
ここ数日、昼間は駐留している騎士たちと交代で訓練に参加させられていたオーギュストはなんとも清々しい笑顔を浮かべている。
「本当に、にぎやかだものね。でもブルーノの元気の良さって、なんだか周りの人も元気にしてくれると思わない?」
「ブルーノ卿は生命力そのもののような人ですからね。よく食べてよく飲んでよく働き、遠征中の天幕でも一度寝ると朝までぐっすりで、従士は起こすのに苦労するともっぱら評判でした」
遠征中は魔力に汚染された土地の影響と強い緊張、日持ちするのが前提の固く焼きしめたパンや保存食が主な食事になるため、眠りが浅くなるのはよくあることで、下手をすると不眠症に近い者も多く出るのだという。
そんな中でぐっすりと眠りに就くブルーノの存在は、いい意味で緊張感を和らげる存在でもあったらしい。騎士団においても、常にムードメーカーだったということだろう。
「そんな人がエンカー地方に来てくれるなんて、本当に嬉しいわ」
「花押入りのエールを大樽で三つも積んで帰ったんですから、奥様も喜んで同意するでしょうし、かなりスムーズに進むと思いますよ」
聞けば、ブルーノの妻のお酒好きは有名な話らしい。
「噂によると、卿より酒に強いとか」
「それは……ちょっとうらやましいわ」
滞在中のブルーノは日中はエンカー地方を見て回り、兵士の訓練に参加し、大いに食べ、そして飲んだ。毎年のように討伐に参加しているというだけのことはあり、全く年を感じさせない様子に感心したものだ。
その彼よりもアルコールに強いとなると、ザルを通り越してワクと呼ばれる部類なのではないだろうか。
特にルドルフとは相性が良かったらしく、夕方になると足をガクガクさせながら訓練から戻ってくる弟を心配したけれど、本人はいい笑顔で「明日もよろしくお願いします!」と言っていた。
「姉上の周りには、魅力的な人があふれていますね。南部に戻る際に、何人か引き抜いて帰りたいくらいです」
「あげないわよ。人材は、ちゃんと自分で育てなさい」
姉弟でそんな会話をしたものだ。
なんにせよ、ここしばらく暗い雰囲気の続いた領主邸である。少しずつ日常に戻っていく最中だったけれど、ブルーノの来訪はいい刺激になり、なんとなく、領主邸全体が温かい空気に包まれたのだった。
* * *
「メルフィーナ様! ただいま!」
「お帰りなさい、ロド、レナ」
「二人とも走らないで! メルフィーナ様、申し訳ありません」
「いいのよ。よく戻ってくれたわ、エリ。まあサラ、少し見ない間に、また少し大きくなったわね」
馬車を飛び降り、満面の笑みでこちらに向かってくるロドとレナを迎え入れる。一歳半を迎えたサラは自分で歩くことも上手くなったようで、母親のエリのスカートのすそを掴んで、自分で歩いていた。
ベロニカが来訪して以後、コーネリアと共にメルト村の家に帰っていた四人だけれど、改めて領主邸に戻ってくれることになった。
「ナターリエ様はお元気ですか?」
「ええ、最近はつわりも随分落ち着いたし、むしろ部屋にいるのが退屈みたい。アンナが時々散歩に付き合っているけれど、お喋りの相手になってあげてちょうだい」
アンナとナターリエも相性がよいけれど、アンナは領主邸のメイドとしての仕事もあり、それなりに忙しくしているため、ナターリエに付きっ切りというわけにもいかない。
気が強いアンナでなければメルフィーナのお抱え画家のシャルロッテに食事をしてください! と強く言うのは難しいし、メイドたちの中ではもっとも長く領主邸に勤めているので邸内のルールを一番よく理解しているのもアンナだ。
「アンナも、すっかり立派になりましたね」
「きっとマナーを教えた先生がよかったのね」
エンカー地方の出身で、最初に使用人になりアンナの指導も請け負ってくれたエリは、気恥ずかしそうに笑う。
「メルフィーナ様、これお土産。山菜を採りに行ったのと、こっちは魚を干したやつ」
「ありがとうロド。とても美味しそうね。――レナ? 少し元気がないかしら?」
いつもは兄のロドよりずっとメルフィーナに懐く様子を見せてくれているのに、今日はなんだかもじもじとして、話しかけようとしない。照れくさそうにちらりとこちらを見て、それから意を決したように口を開く。
「私、元気です! メルフィーナ様!」
「あら……」
頬を赤く染めてふい、と視線を逸らすレナの脇腹を、兄のロドが肘で突く。それを嫌がるように半歩下がって、レナは組んだ指をもじもじとさせていた。
出会った時からずっと、レナは「メル様」と呼んでくれていたのに、意識的にそれを変えようとしているようだ。
メルフィーナが貴族らしからぬ距離感で領民と接するため、初期は散々驚かれてセドリックからも随分苦言を貰ったものだけれど、やがて周りのほうが諦め、そして受け入れてくれたため、幼かったレナがメルフィーナを愛称で呼ぶことについても、これまで問題らしい問題になったことはなかった。
――誰かに、何かを言われてしまったのかしら。
そう心配したものの、逸らしていた瞳をしっかりとメルフィーナに向けて、勢いをつけるように言う。
「これからは、メルフィーナ様って呼ぶね。レナももう、お姉ちゃんだし!」
「そう……そうね。レナはもう立派にお姉さんね」
茶色の瞳は強い意志で輝いていて、後ろ暗いことは何もなさそうだ。
出会った時は本当に小さな女の子で、舌ったらずな幼女だったのに、気が付けば背が伸びて、すっかり女の子らしい様子になっている。
レナはその「才能」もあって頼れる存在であるのに、むしろ自分の方が、出会った頃のままの小さな幼女として扱い過ぎていたのかもしれない。
「お帰りなさいレナ。二人にはたくさん頼ることになると思うから、またよろしくね」
「はい! メルフィーナ様!」
子供の成長は著しく、少し目を離すとまた一回り大きく変わってしまうものらしい。
ナターリエの元に移動したエリを見送りロドとレナと共に団欒室に移動すると、マリアとオーギュスト、ユリウスとコーネリアが、ベロニカを交えて話をしているところだった。
「ユーリお兄ちゃん!」
「レナ! ロドもお帰り!」
二人そろって一直線にユリウスに走り寄り、ユリウスも嬉しそうに席を立って二人を抱きとめる。
ユリウスは特段の用事がなければメルト村の二人の実家に居候をしている時間が長いので、すっかり二人の兄のような存在になっている。メルフィーナの呼び名が変わっても、こちらの変化はないらしい。
寂しいような、微笑ましいような、少しだけ複雑な気分である。
「二人に紹介しておくわね。こちらはベロニカ様。しばらく領主邸に滞在してもらっている方よ。私の弟も滞在しているから、晩餐の時に改めて紹介するわね」
「初めまして、メルト村のロドと申します」
「はじめまして! メルト村のレナです!」
「ご挨拶をありがとうございます。ベロニカと申します。まあ、可愛らしい家臣ですね、領主様」
「ええ、二人にはとても助けられているの」
どうやらロドとレナの前では憚られるような話をしていたらしい、なんとなく誤魔化すような雰囲気があって、敏い二人もすぐにそれに気づいたようだ。
「メルフィーナ様、俺たち自分たちの部屋にいるよ」
「うん、荷物もあるから、それを片付ける!」
そう告げるロドとレナの頭を軽く撫でて、微笑む。
「二人が帰ってくるってエドがおやつを作っていたから、あとでお茶をしましょう」
「やった!」
「わーい!」
嬉しそうな様子で団欒室を出ていく二人を扉まで見送ると、不意にちらり、とレナが娯楽室の中を振り返り、すぐにそそくさと外に出た。
「ね、メルフィーナ様」
「どうしたの? レナ」
「ベロニカ様って、……ユディットに似てるね。お母さんとサラくらい、そっくり」
「……そうね」
レナはそうは言わなかったけれど、本当はこう言いたかったのだろう。
母と娘のように、よく似ていると。
「他の人には黙っていてね」
「はい!」
元気に返事をすると、レナは先に行ってしまった兄を追いかけるように、小走りに別館の渡り廊下へ向かっていった。
その小さな背中を見送って、傍にいるマリーやセドリックにも聞こえないくらい、小さなため息を吐いた。




