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捨てられ公爵夫人は、平穏な生活をお望みのようです  作者: カレヤタミエ


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40.難民

 不安定な体勢でどれほど時間が過ぎただろう、ようやく馬が駆けるのをやめてくれた。


 荷物のように積まれた状態での早駆けで完全に酔ってしまい、緊張感もあいまって、あと数分も同じ状態が続けば嘔吐していたかもしれない。


 ひとまず止まってくれてほっとしたところに、野菜を詰めた麻袋のように小脇に抱えられて、さらに移動が始まった。


 がさがさと草むらに分け入るような音が続き、ようやく地面に下ろされた時には、自分の足で立つことも出来ず、へなへなとその場にへたり込み、それでも体を支えきれずにくたりとその場に横たわってしまう。


 ――草の感触と、土の匂いがする。


 領主邸や村とは違い、空気に湿気があるところから、水辺が近い森の中なのだろう。

 周りから、随分多くの人の気配がする。


「ちょっと、大丈夫なのかい。随分弱っているみたいだけど」

「ねえ、袋、取ってあげようよ」


 女性の声と、少女……いや、もっと幼い子供の声がきこえてきた。こちらに敵意は感じられず、戸惑いと同情、それから恐怖が混じったような声だった。


 ややして、ようやく上半身に被されていた袋が外される。目の粗い麻袋だったので呼吸に支障はなかったけれど、それでも新鮮な空気がすっと肺に入ってきて、少しほっとした。


「……女の子じゃないか! 領主を攫ってくるって話だったんじゃないのかい」

「エンカーの領主はまだ十代って話だろう。屋敷に使用人以外は、この子しか十代の人間は暮らしていなかったんだ」


 男はひどく不機嫌な様子で応える。どうやら彼が、メルフィーナを誘拐した張本人らしい。


「領主の奥様だったとしても、人質として役に立つだろう」

「そうだといいけどねえ……」


 困ったように言ったのは、三十代半ばほどの女性だった。綿の長袖のシャツにロングスカート、擦り切れたエプロンをひっかけている。服装はこの辺りの農民によく見られるスタイルだけれど、やつれて服のサイズがぶかぶかだし、覗いている手首は骨が浮きかけていた。


「……あなたたちは、誰ですか」


 予想通り、森の中だ。まだ昼間だというのに、鬱蒼と茂った木々に光をさえぎられて、薄暗い。


 どうやらここを生活の拠点としているらしく、踏み均されて辺りはちょっとした広場のようになっている。


 視線をめぐらせると、大人と子供を含めて三十人ほどの人がそこにはいた。

 草木を編んで作ったらしい、掘っ立て小屋にも届かない小さな家があちこちに建てられている。


 雪はまだ降っていないとはいえ、朝晩はひどく冷えこむ時期だ。到底ここで暮らせる状況ではないはずだ。


「俺は、ダニーといいます。ダンテス伯爵領の端にある、小さな村で村長の息子でした」


 メルフィーナを攫った男が、低く、感情を押し殺した声で告げる。


「あなたを人質に、しばらく困らない量の食べ物を要求したいのです」

「しばらくとは、冬を越せるまでの食料ですか」

「……そうです」

「どうやって? 春が来るまで約五カ月として、ここにいる人数を食べさせるだけでも幌馬車に十台分ほどの食料が必要になりますよ」


 それだけの食料を用意できないわけではないけれど、身代金ならばその場でメルフィーナの身柄と引き換えなければ意味がない。


 人質にしたまま食料の受け渡しを続ければ、その都度追跡され、いずれ捕縛されるだろう。


「十台の馬車を引き連れていればどうしても目立ちます。引き渡して逃げたとしても、騎士団の追跡からは決して逃げられないでしょう」

「………」

「縄を、解いていただけませんか」


 まだ後ろ手に荒縄で縛られたままだ。縄が食い込んで痛いし、落ち着かない。


「こんなところで逃げ出したりしません。私の足で逃げ切れるとも思っていませんし、追いかけられて暴力を振るわれたくもありません」

「そんなことは、させませんよ」


 エプロンを掛けた女性が言って、縄を解いてくれた。こすれて赤くなった手首をさする。多少肌に傷はついているけれど、幸い血は出ていなかった。


「ありがとうございます」

「いえ、あの……どうも」


 ようやく足の震えも止まってきた。立ち上がって、スカートについた木の葉を払い、酷く乱れているだろう髪を撫でつける。それから背筋をピンと伸ばした。


 状況は到底楽観できるものではないけれど、そんなときほど、堂々としているべきだ。


「エンカー地方領主、メルフィーナです。食料を用意するのは構いません。ですが、これだけは聞かせてください。あなたたちに冬を越すための家や、身を寄せる場所はあるのですか」

「……森には洞窟もあります。家族で身を寄せ合えば、どうにかなるはずです」

「その洞窟は、いずれ熊や野生動物が越冬のために巣にする可能性が高いですよ。冬ごもり前の熊は非常に狂暴で、危険です。一頭で村ひとつを壊滅させたことすらあるくらいですから。あなたたちは、そんな野生生物と戦えるのですか」


 しん、と沈黙が落ちる。


 誰もが先行きのない絶望と明日にも訪れる飢えによる衰弱を前に、呆然と立ち尽くしているようでもあった。


 本来、誘拐は重罪だ。農奴や領民は領主の財産であり、その財産に手を付けたという扱いになるからである。


 罪の重さは貨幣の偽造と放火に次ぐ重さで、首謀者を含む一家や血縁者は連座で処刑されることだって珍しくない。まして、その相手が領主となれば血縁ではなく村や町単位で焼き討ちに遭っても咎められることはないだろう。


 それでもあえて強行した。どうせ黙っていても長らえないという悲壮な覚悟と、一縷の望みを賭けたのだろう。


「――納税用の麦に手を付けましたか」


 ダニーと名乗った男はぎくりと体をこわばらせ、次にきつくこちらを睨みつけてきた。


「仕方がありませんでした」


 代わりに答えたのは、エプロンの女性だった。


「税に手を付けたことが発覚し、村ごと農奴に落とされる前に、食料を抱えてみんなで村から逃げ出しました。平民ですら飢えて死ぬ者が出始めていたのです、農奴に落とされれば、老人や子供といった働けない者は、死ぬに任せることは目に見えていましたから」


 エプロンの女性の後ろに隠れるように、小さな女の子がこちらを見ている。灰色の髪に肌も汚れているけれど、緑の目がとてもきれいな子だ。


 女性のスカートを掴む手は小さくて、まるで枯れかけた枝のようだった。


「その食料もとうに尽き、ここ半月ほどは森に潜んで食べ物を採取していましたが、それももう限界で。この近くに領主邸があると聞き、イチかバチか、人質に取って備蓄を出させることが出来ればと」


 ダニーは五か月分の食料をと言ったけれど、最初からそれが現実的でないことは分かっているのだろう。


 せめて死ぬ前に――殺される前に、お腹いっぱい食べたい。

 彼らの望みは、多分そんなところだ。


「……ねえ、あなたのお名前、教えてくれる?」


 声を掛けると、エプロンの女性の後ろにぴょっと隠れた少女は、やがておずおずと顔を出した。


「リィ」

「リィ、私はメルフィーナ。リィ、お腹すいてる?」

「……うん」

「じゃあ、お腹いっぱいご飯を食べさせてあげるから、うちにおいで」

「ほんと……!?」

「うん、おうちも用意するし、暖かい場所で眠れるようにしてあげる」


 弱っているのだろう、半分ほど閉じていた瞼がぱっと開くのに思わず微笑むと、嘘だ! と鋭い声が上がる。


「そうやって、俺たちを連れ出したところで一網打尽にする気だろう。騙されんなよ、お前ら!」


 視線を向けた先にいたのは、まだ若い……幼いとさえいえる少年だった。やはりひどく痩せているけれど、目には怒りと闘志のようなものが浮いている。


「あなたたちは、私が誰か知っている?」

「エンカーの領主だろ」

「そうね。折角だからきちんと名乗っておくわね。私はメルフィーナ・フォン・オルドランド。エンカー地方の領主であり、オルドランド公爵家正室です」


 隣の領とはいえ、北部の支配者の名前は知っているらしい。その場にいた全員が、さっと青ざめる。


「あの氷の公爵の……」

「そんな……」


 その言葉の意味を、彼らはきちんと受け取ったようだった。

 小さな地方の領主を誘拐するだけで大変な罪だ。村全体で責任を取らされることは間違いない。


 けれどそれが、王族に次ぐ公爵家の夫人だった場合は? ダンテス伯爵の関与さえ疑われ、それは領と領の話になる。


 アレクシスが不正を憎み苛烈な政治をするというのは、有名な話だ。下手をすれば領地戦となり、その場合、飢饉で弱ったダンテス伯爵家に勝ち目など無いだろう。


 主犯である彼らは獣のように追い立てられ、山を燃やし尽くしてでも狩り出されて、血縁地縁全てを遡って連座が待っている。

 これはメルフィーナとアレクシスが不仲かどうかという事実など、さしたる問題ではない。

 領を治める人間の面子の問題だ。


 話を聞いていた人々は、みな青ざめ、ぶるぶると震えている。

 伯爵家そのものは遠い雲の上の存在でも、伯爵領に住むほとんどは苦しい暮らしを強いられている農民や町民だ。自分たちの一夜の晩餐のために、彼らが擦り潰されるのを、平然と受け取れる人間はここにはいないようだった。


「騙されるかどうか、賭けてみたらいいじゃない。上手くすれば今夜美味しいものを食べて、暖かい場所で眠ることもできるし、それはずっと続くかもしれないんだから」


 どうせ先などないのだから。そこまで残酷なことは言えなかった。


「――私は行くよ」

「ロアーナ!」

「どうせ逃げても追われるだけさ。せめて粥の一杯でもこの子に食べさせられる可能性があるなら、そちらに賭けたいよ。それに、どうせ死ぬなら、ひとおもいに逝きたいしね。あんたも父親なら、そう思うだろうダニー」


 ダニーは苦悩するように黙り込んでいたけれど、ロアーナにもう一度名前を呼ばれて、頷いた。


 どうやらロアーナとダニーは夫婦で、リィはその娘らしい。

 ダニーは尻に敷かれているのだろうことも、なんとなくわかった。


「そうと決まれば、さっそく移動しましょう。日が暮れるとひどく寒いですしね。できればエンカー村ではなく、メルト村の方に行きたいのですが」


「それなら、街道を挟んで向こう側が村だ」


 領主邸からメルト村まで荷物を積んだ馬車だと一時間ほどかかる。

 騎馬とはいえ、思ったよりも随分領主邸から離れていたようだ。


「しかし、なぜあちらの村に? もちろん異論はありませんが……」

「メルト村のほうが食料の備蓄が多いことと、多分、エンカー村は今頃、護衛騎士が私を探していると思いますので……」


 かつてメルフィーナに触れたという理由で幼いロドに容赦ない蹴りを放ったセドリックのことだ。

 メルフィーナを誘拐した者が目の前にいれば、その場で抜刀しかねない。


「騎士は私が説得します。あなたたちも彼を刺激しないよう、気を付けてください。ことによっては私の制止が間に合わない可能性もありますので」


 これだけは本気で言うと、全員が石でも飲んだような顔をして、頷いた。


 鍛え上げられた騎士の力は恐ろしいものだ。相手が平民なら、それこそ一人で三十人程度は容易に切り伏せてしまう。


 メルト村から無事であること、慌てず冷静に努めるよう、伝令を出してもらうしかない。



 移動している間に頭も冷えてくれるだろう。それを祈るしかなかった。



領主邸を知っている者の中で、セドリックの頭が冷えると思っているのはメルフィーナだけです。

メルフィーナの判断は甘いですが、保身も打算もあります。

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