恐怖の元
ようやく分かったこと。
ニアの羽根は蝶の羽根にとてもよく似た形をしている。あれは触ると鱗粉が付くが、果たしてニアの羽根に鱗粉は付いているのだろうか。
ニアの羽根にそっと手を触れてみると、蝶に触った時と同じしっとりとした感触が指に伝わった。結構気持ちいい。ふと、昔家にあった母の数少ない上等なスカートの布を思い出した。親戚の結婚式に必ず着ていったあれだ。ずっしり重くしっとりしていて、ヒースはその感触が好きで触ろうとすると「汚い手でさわるな」と母に怒られたものだ。
もう何年もそんなことは思い出しもしなかったのに、指に触れたことでその記憶が蘇った。そして、心を抉る様な、今はもうない自分の家の狂おしい程に懐かしい匂いが襲ってきた。
その匂いを感じたことにヒースは動揺し、咄嗟にぱっと手を離した。ジオが片眉を上げてヒースを見ている。ヒースはジオに気づかれない様に確認の為静かに匂いを嗅いだが、胸を締め付けるような匂いを嗅いだのはあの一瞬だけだった。となると、多分さっきのはヒースの記憶の中の匂いなのだろう。
心臓がバクバクいっていた。
ニアが訝しげに振り返る。
「ヒース? どうしたの?」
「……何でもない。ニア、どこら辺をどれ位切る?」
ヒースは冷静を装った。そうするしかなかった。こんなこと奴隷時代にはなかったのに、一体自分はどうしてしまったのだろうか。ジオと二人きりで数ヶ月過ごしてきても思い出すことなんてなかったのに、何故今頃。
「えーとじゃあ、あんまり飛ぶのに関係ないこの辺りをお願い」
ニアは羽根の下の方、端にひらひら飾りの様についている部分を指差した。
「血とか出る?」
「出ない。痛みもないから大丈夫」
「分かった」
ヒースは人差し指位の長さのそれをハサミでちょん、と切ろうとするが、思ったよりも分厚くて切れずにくねっと折れてしまった。もう一度、今度はよく切れる部分を使って刃を立てて慎重に切っていくと、手のひらにニアの羽根の一部が残った。
「で、これを弓に付けるのか?」
「飾りっぽくしてみるとか?」
「お、いいねえ」
ジオが早速針と糸を持ってくると、ヒースは弓を持ってきた。弦を括り付ける部分の穴に糸をくるくる巻き、羽根に糸を綴じ付けて完成だ。うん、なかなか格好いいじゃないか。
「で、髪を編み込んで巻こう」
そう言うとジオは器用に太い指でヒースとニアの髪の毛を細い三つ編みにし、弓に巻きつけた。
「完成?」
「だな。ヒース、ちょっと持ってみろ」
ヒースは言われるがまま装飾された弓を手に持つ。
「……何か感じる?」
特に光ったりもしないし特別感はない。ヒースは首を横に振った。
「失敗かなあ」
残念そうにニアが言うので、ヒースは何だか自分が悪いことをしている気分になってしまりニアに提案する。
「俺、森で昼飯になる奴を捕まえてくるよ! それで肩の傷が治ったら成功ってことだろ? だから待ってろ! な!」
ヒースはそう言うと、返事を待たずに弓と矢筒を持って外に出た。
「ヒースどこ行くの? クリフも行く」
家の周りにいた鹿の姿のクリフが声を掛けてきた。
「獲物を捕まえに行くんだ。危ないからここに居ろよ」
「えー」
「俺の弓の腕前はまだヘロヘロだから」
そう。昼飯を捕まえてくると言ったはいいが、実はまだ思った所に矢が飛んで行かない。だから多分兎一羽捕まえるのにもそこそこ時間がかかる。
でも今はその方が良かった。何故だろう、あそこに居たくなかった。またあの匂いを嗅いでしまったらどうしよう、そう思ったら怖くなった。
魔族に襲われた十年前。父は魔族に斬られてその場で絶命した。あまりにも一瞬のことで、ヒースは目を逸らすことも出来ずそれを見たし、その記憶ははっきりと残っている。父の顔も朧げではあるがちゃんと思い出せる。父が倒れて床にどんどん血が床に溜まって、母はすでに絶命した父の背中に縋った。その背中も覚えている。決して裕福ではなかったからか母は痩せていた。その細い首も鮮明に覚えている。だけどその後が思い出せなかった。そこに立っていた父を殺した魔族の顔はよく覚えているのに。
母は連れて行かれた、その筈だ。ヒースも別で連れて行かれたのだろう。気が付いた時には近所の子供達と同じ箱に詰め込まれていた。だからどこへ連れて行かれるかは分からなかったけど、少なくとも殺されることはない、別に仲良しではなかったけど知っている顔もいるから少し安心したのを覚えている。
ジェフに何度か聞かれたことがあった。母ちゃんを探したいか? と。だがヒースは首を横に振るしかなかった。何故なら母の顔が分からないから。会ってもきっと母だと分からないから。そんな親不孝な子供に母もきっと会いたくないに違いないから。
怖かったもんな、悪いことを聞いちまったな、とジェフが頭をポンポンと撫でてくれて、それが嬉しかった。怖かったから忘れてもいいんだ、そう言われた気がしたから。だからもうあえて気にしない様にしていた。皆大なり小なり思い出したくないことはある、あれはそういう出来事だったから。
だが今になって気付いてしまった。自分の恐怖が誰に向いていたものだったかを。昨日は泣きじゃくるニアの背中をトントンした。母のそれを思い出しながら。「いい子いい子」と言う声は面倒くさそうだった。父が同じ場にいて、それを――。
記憶の中の匂いを嗅いだことで、ヒースは思い出してしまった。
ヒースが恐怖を感じていたのは、母に対してだった。
◇
ニアは家の塀にもたれかかり森の方をぼうっと見ていた。ヒースが出て行ってからかなりの時間が経ったが、ヒースはまだ帰って来ていない。昼の時間はとっくに過ぎたがジオは何も言わず、自分の武器への属性付与を終わらせ今は仕上げの研磨をしていた。
鹿の姿のクリフがトコトコとやって来てニアの隣に座った。
「ヒースまだ?」
「私も分からないよ」
「クリフ探しに行く」
「危ないから駄目」
「ニアのけち」
クリフが不貞腐れて寝転んでしまった。暫くするとジオが二人の元にやって来た。
「ヒースの気配とか何か分かんねえのか?」
苦虫を噛み潰した様な顔をして尋ねた。
「クリフ分かんない」
「私も今のところは特に。私の髪だけじゃ効果なかったのかな……」
「さっき切った羽根はどうなったんだ?」
ジオが聞くと、ニアは立ち上がって羽根を出して切った部分を確認してみた。特に変化はない。するとジオがニアの腕にはまっている太い腕輪に目をやった。
「おいニア……あんたそいつで魔力制御してるとか言ってなかったか?」
「そう、これがないと力が溢れちゃって周りに影響があるから」
「じゃあ今はそれをつけてるからヒースにも影響がねえんじゃねえか?」
「あ」
そういえば、という顔をしてニアがジオを見上げる。ジオはそんなニアを見て溜息をついた。
「そいつを外したら俺やクリフには影響あるか分かるか?」
「人間にはそこまでないかと……クリフにはあると思うけど、クリフはヒースとも繋がってるからどうなるんだろう?」
「……とんでもねえ行き当たりばったり感だな」
「ジオ、実験は失敗の積み重ねよ」
「……まあいい、じゃあそいつ取ってみろ。そうしたらヒースのことも何か分かったりしねえかな?」
「やってみる」
ニアは念の為だろう、ジオとクリフから少し離れると腕輪をするっと手首から抜いた。
次話は明日投稿します!




