2 ナハト
ダルタン大陸の東部に位置する魔族の国に、名はない。理由は単純だ。
必要がなかったからだ。
魔族の国がある土地には、元々は人間の小国が複数存在していた。魔族は武力によってその国々を滅ぼし、己れの国としている。
国交など必要ないから、国名は不要。唯一無二の国家となれば、事は済む。
そういった意味で、魔族という種族は極めて単純明快な思考を持っているとも考えられる。
その魔族の国の中央部に、王都は構えられていた。王都をぐるりと囲むのは、見る者に永遠に続くのではと思わせる深い森だ。
森の外側は峰が尖った灰色の山脈が取り囲み、外部からの侵入を拒んでいた。
森の奥深くに存在する、獣道の如き細い道。よく目を凝らしてみないと、そこに道があることは分からない。
そんな低い茂みの合間を、慣れた足取りで泳ぐように進む人影があった。落ち葉を踏みしめても、大きな足音は立っていない。まるで獲物を狙う猛獣の足取りの様だ。
着用しているのは、森の色に同化する、灰色とも深緑ともとれる膝丈のマント。深く被ったフードからは、柔らかく滑らかそうな焦げ茶の髪が、歩く度に胸の上でサラサラと揺れていた。
服の上からでも細いと一瞬で分かる肉の付いていない足を止めると、その人物はフードを取り、森の底から空を見上げる。
フードの中から出てきたのは、頬の膨らみが少ない痩せた顔だった。瞼にかかる伸びっ放しの前髪を掻き上げると、細長い華奢な鼻梁に吊り上がり気味の瞳が出てくる。
瞳の色は、黄色。瞳孔は縦に長く、この者が人間でないことを現していた。
人間の美醜で言えば、充分に整っていると言える顔だろう。
その顔が、分かりやすいほどに歪められた。
上空は風が強いのか、筋の様に間延びした白い雲が青い空に浮かんでいる。
雲に寄り添う様にして、空を自由に飛ぶ黒い影が太陽光を反射し、チカッと光った。
「……フン」
その細さのせいで度々少年に間違われるその人物の名は、ナハトという。年は十七歳で、既に成人済だ。
ナハトは忌々しげに黒い影を睨むと、フードを目深に被り、前進を再開した。
「飛べる奴はいいよな。見てるだけで反吐が出る」
掠れた中性的な声で独りごちる。
「……まあ、俺には関係ないか」
ナハトはその言葉を最後に口をつぐむと、日の高い内に使い慣れた野営地に着こうと、歩く速度を上げた。
ナハトの職業は、ひと言で言い表すならば『便利屋』だ。情報を売買することもあれば、王都から出たことのない奴らを森の外へ案内することもある。
持久力には自信があったが、如何せん細くて力がない。その為、力仕事全般は引き受けられず、移動が伴う仕事ばかりを請け負っていた。
本当は王都で定職に就きたかった。森の中での野営は、魔物に襲われる危険が常に付き纏うからだ。
手先は器用な方なので、職人の道を探したこともある。だが、王都に住んでいる人間の職人の方が遥かに手先が器用だった。
彼らはその技を持つが故に、体力のみが要求される奴隷に落ちないで済んでいる。奴隷落ちに、明るい未来はない。だから、人間の職人は皆必死だった。そんな中、ナハトの様な半端者の需要はない。当然のことだ。
ナハトはあまり目立ちたくはなかったので、飲食店などの売り子は、はなから除外していた。見つかってどうこうされることはないとは思っても、やはり消されるのではという不安が拭えなかったからだ。
ならばそれ以外で人手が足りない職を探してみたが、求人があるのは王都での人間の奴隷管理や、人間の国に攻め入る兵士の仕事ばかり。
人間の管理の仕事は、誰もやりたがらない。基本は仕事にあぶれた者たちが就く仕事だ。
人間の女を伴侶としている魔族も多い中、人間の男のみ扱いを落とすのは、頭では理解できても心では納得できない魔族も多いのだろう。妻を愛するが故に、説明し難い状況に陥る。できることなら避けたいのだ。
ナハトには、伴侶はいない。だが、それとは別の理由で、極力人間とは関わりたくなかった。
人間の男の奴隷は粗野で野蛮だと聞く。ナハトの細腕では、力仕事をしている彼らに襲われでもしたら、ひとたまりもない。だが、人間の国に攻め入る兵士となれば、男は殺し女を攫わなければならない。そんなことは、絶対にしたくなかった。
ナハトにとって、人間とは近くて遠い存在だった。どう接していいのか、分からないのだ。だったら近づかない方がいい。なので、それらの仕事に就くことはやめた。
自然、情報屋や案内役といった便利屋の仕事を引き受けていく様になる。同じく王都からはあぶれ気味だった便利屋仲間に教わりながら、何とかこれまで無事に生き延びてきた。
きちんとした武芸を習ったことはなかったが、便利屋仲間で腕が立つ奴に護身術代わりに教えてもらったことがある。
長剣や槍、弓矢は力が必要なので、武器に振り回されるばかりで身を守る前に自分を傷つけそうになった。
そんなナハトを見かねた便利屋仲間の男が、ナハトに鞭の使い方を教えてくれた。
これはナハトに合っていたらしく、数日練習した後には、鞭はナハトの手の様に言うことを聞くようになった。
だが、これだけでは心許ない。お人好しだったのだろうその男は、ナハトに小刀の手投げについても伝授してくれた。「お前、見どころがあるぞ! でもチビなんだから無理するなよ!」。
笑いながら、にこりともしないナハトの頭を撫でて褒めた男は、もうこの世には存在しない。お人好しが過ぎて、旅先で怪我をした仲間を身を挺して庇い、そのまま魔物に食われて死んだと聞いた。
お人好しは死期を早める。何とも言えない気持ちになった。
一体この国はいつまで戦争を続けるのか。戦争に割く人員を、国内の発展や警備に回せないのか。
仲間の男が死んだ理由を、ナハトは考えずにはいられなかった。
続けなければいけない理由は、ナハトでなくとも、子供でも知っている。だが、そこまでする必要があるかという気持ちの方が強かったのだ。
大陸の西半分にある人間の国、西ダルタン連立王国とは、深い渓谷と砂漠によって隔たれている。その為、大陸西側への魔族の侵攻には時間がかかった。
その間に、魔族は思い知った。この土地では、何故か生まれるのは殆どが男。このままでは、いずれ魔族は滅びてしまう。
危機感を覚えた魔族は、試しに僅かに残っていた人間の奴隷を孕ませる。すると、魔族同士と番うよりも女児の出生率が増えた。
この事実に、魔族は西ダルタン連立王国への進軍を決定する。
国を挙げての進軍は、今より十八年近く前に開始された。西ダルタン連立王国が完全に魔族の手に落ちたのが、今より十一年前のことだ。
そして現在、王都は魔族の男と人間の女の間に生まれた混血児が増え、ナハトが幼かった頃よりも子供のはしゃぐ無邪気な声を気軽に聞くことができる様になった。
魔族にとっては、いいことなのだろう。
だけど、国を滅ぼされた人間にとっては?
「――クソッ」
ブンブンと頭を横に振り、考えても仕方のないことを頭の中から追い出した。
目指すは砂漠の手前にある、実質魔族の国の最果てにあると言える、王都から一番遠い大きな町、シェールンだ。封書の配達を依頼されているから、最短で向かわねばならない。余計なことを考えている暇はなかった。
ナハトは静かに駆け出す。
人の身体ではあり得ない速度で、軽やかに森の中を進んでいった。




