クリフとの別れ
ヒースとクリフがくっついたまま魔力で森の広範囲を感じ取っていると、遠慮がちだったあの子の足取りが軽やかなものに変わっていくのが分かった。
あの子がここに向かってきてくれている。それが嬉しくてワクワクしながら笑顔を浮かべると、ああ、これはクリフの感情なのかと気付く。
今この瞬間、ヒースはクリフの意識に同化されていた。でもこれは、母の時に感じていた様な恐ろしいものではない。
母は、ヒースが母の感情を読み取ることを全力で拒絶していた。
気が付けば母の中でヒースは化け物の認識で、まだ幼い子供に過ぎなかったヒースが欲した母の愛情は、もう二度と注がれることはなかった。
だけど、感じる。
クリフは、ヒースのことが好きだと思ってくれている。クリフと同調することにより、そこにそれ以外の感情がないことがヒースには感じ取れたのだ。
――でも。
ふと、開花したての自分の魔力の可能性に気付く。
クリフは元々優しい子で、しかも人型を取ることが出来て喋ることも出来ているとはいえ、鹿だ。だからか、それともクリフの性格がそうだからか、悪意などは一切なくあるのは純粋な好意のみ。
だけど、もしヒースが誰かとても魔力が強い、悪意がある人物の感情に呑まれてしまったら。
はたしてヒースはその時、自分の意思を保ち引っ張られずに済むことが出来るのだろうか。
思わずゾクリとすると、かなり近くまで近付いてきてくれていたあの子の足が止まる。
「あ、ごめん。大丈夫、大丈夫だから」
聞こえるかどうかは分からなかったが、口に出すことで怖い想像に気を取られそうになった自分の意識を再びあの子に向けることに成功した。
どうやらこれは単純にヒースがクリフに同調しているだけではなく、ヒースの感情も魔力に乗ってしまっているらしいとそのことで気付く。
早々に、ニアが持っている予備の石を制御の道具づくりに使わせてもらおう。誰かと同調してしている時にニアにキスしたいなんて思ってしまった日には、ニアが色んな人に一斉に襲われかねない。危険すぎる。
そうぼんやりと考えている間にも、あの子は近付いてくる。もう、すぐそこだ。木の影から顔を出す。
「――あっ」
牝鹿の姿を見かけた瞬間、クリフがぱっと離れて行った。途端、月の花の様に輝いていた光が薄れていく。
クリフが近付いても、あの子はもう逃げなかった。
ヒースとクリフが物理的に離れることで、ヒースから放出されていた魔力が収まっていく。
これはつまり、ヒースの魔力は基本的に他人に及ぼされるものであって、ひとりでは成り立たない種類のものだということだ。
クリフとあの子は、挨拶をする様に鼻をこすり合わせている。
「ヒース、この子だよ」
クリフがヒースを呼んだので、脅かさない様にゆっくりと近付いていった。牝鹿は怯えた様子は見せず、つぶらな瞳でヒースを見上げている。
ヒースは牝鹿の前でしゃがむと、クリフの背に手を起きながら牝鹿に笑いかけた。
「こんにちは。クリフがずっと君のことを探していたんだよ。来てくれてよかった」
この子は、クリフと違いただの鹿だ。だから勿論ヒースの言葉なんて分からないだろうけど、思わず声を掛けずにはいられなかった。
あのクリフが、あんなに小さかったクリフが、君に恋をしたんだよ。
まだ赤ちゃんみたいだったのに、あっという間に大人になる。
「……クリフはいい子だから、安心して」
他に何と伝えたらいいのかさっぱり分からなくて、そんなことを言ってみた。クリフと繋がった箇所から、また光の粒子が浮かび上がる。伝わってほしい。
ヒースがクリフを大事に思っていること。それと同じくらい、きっとクリフは君のことを大事にしてくれるだろうことを。
粒子に触れた牝鹿が、逃げることなくヒースをじっと見返す。ちゃんと伝わったみたいだ。言葉は通じなくとも、気持ちは通じる筈だから。
ゆっくりと立ち上がる。クリフから手を離すと、粒子の放出が収まっていった。
「クリフ、俺はちょっと鍛冶場に行かないとなんだ。クリフはここにいるか?」
ヒースがそう言うと、クリフは何かを牝鹿と語り合い、そしてこくりと頷く。
「ヒース、送ってく」
「ん? 方向さえ教えてくれれば」
折角会いたかった牝鹿に会えたのだから、邪魔をしたら悪い。そう思ったが、すでにクリフは翼をバサッと生やして待機している。
「乗って」
「え? いいのか? ええとごめんな。ちょっとクリフを借りるな」
牝鹿に断りを入れると、さっさとクリフに跨った。クリフは思い切り宙に跳ねると、その勢いのまま浮遊する。垂直にぐんぐんと上に登ると、大木の葉に牝鹿の姿が隠れてしまった。
木を抜け空に達すると、クリフは宙をぐるりと旋回し、集落の方向へと進み始める。
やっぱり揺れるからか、気持ち悪い。
ヒースは必死で腹に力を入れながら耐えた。やっぱりヴォルグに運んでもらうのも問題がありそうだ。
少し前屈みになりながら耐え続けていると、ようやく森の切れ目が見えてきた。かなり森の奥まで進んでいたみたいだ。
「ヒース」
「おえ……。ん?」
クリフの声がなんだか寂しそうに聞こえて、ヒースは逆流しそうな食道を堪えつつクリフの頭を見つめる。
「どうした?」
「ヒース、明日行っちゃうでしょ」
「うん。そうだな」
自分も連れて行け……とは言わないだろう、とさすがにヒースでも分かった。だからこれは、あれだ。
「死んじゃやだよ。怪我しちゃ駄目だよ」
「……うん」
クリフの首をポンポンと叩く。森の端は、もうすぐそこだ。
「帰ってきたら、クリフを呼んでね。飛んでいくから」
「うん、絶対呼ぶから」
涙が滲む。いつの間にこんなに大きくなったんだろう。クリフは、もう自分の主張だけをする子供じゃなくなった。守りたいものが出来て、だから親代わりのヒースから離れていくのだ。
「ヒース、大好き」
「うん、俺もクリフが大好きだよ」
涙が頬を伝い、風に押されて耳へと流されていく。
クリフの降下が始まると、胃が浮く様な感覚がヒースを襲った。慌ててクリフの首にしがみつくと、若干違和感が収まる。
クリフの首は相変わらず暖かくて動物臭くて、ヒースがクリフを庇って怪我をした時、甘える様に膝の上に顔を乗せてきたことを思い出した。
「……集落の皆に、鹿は絶対に狩るなって言っておくから」
「うん、お願いね」
リオに言っておけば、クリフと何だかんだで仲良くなっていたらしいので、きっと大人にも周知徹底してくれるだろう。
ジオにも言っておこう。あと、アンリにも、ザハリにも。ミスラにも言って、そしてヒースの大事なこの子の命が奪われない様にお願いしておこう。
クリフの蹄が、土に触れた。揺れが収まったので、ヒースはゆっくりと地面に降り立つ。
クリフに見られたら嫌だな、そう思って袖で涙を拭うと、クリフの前に来てクリフの頬をぽんぽんと撫でた。
「いってくるな」
「早く帰ってきてね」
「ああ、俺もそうしたいしな」
手を離したが、クリフは一向に立ち去ろうとしない。すると、クリフの姿が急に溶け、人型へと変化していった。そのままヒースの腰に抱きつくと、グリグリと額を擦り付ける。いつもそうしていた様に。
「……ヒース、いってらっしゃい」
「うん」
離れ難い。だけど、クリフもヒースも行く場所がある。クリフの頭を撫でてやると、クリフはヒースから離れていく。
後退しながら鹿の姿に戻ると、今度は一度も振り返ることなく、森の中へと走り消えていったのだった。
次話は目指せ月曜日……です。




