怖いものなし
ヨハンの心配は、自分のことが大好きな筈のシーゼルが寂しさのあまり、フラフラと手近なヒースに寄って行ってしまうことらしい。
ヒースが望んでいなくとも、シーゼルがその気になってしまえば、剣などろくに扱えないヒースを御するのは容易い。それこそ最初にヨハンに『ご褒美』をねだった時の様に、剣を突きつけてしまえば後は簡単だと、ヨハンが一番知っているだろうから。
自分のことを好き過ぎるあまり、代理を求めてしまうかもしれないと心配だったのだと、これでよく分かった。
「ヒースの監視をしっかり頼んだぞ」
「任せて!」
なのに何故あくまで監視対象がヒースになるのかは謎だったが、とにかく今は許可が降りたのでこの際それはどうでもいい。
「では決まったな」
眉間に皺を寄せた状態のヴォルグが、重々しく頷きながら言う。
「では、今日支度を済ませ、早速明日出発しよう」
「明日……」
では、さっさと牝鹿を探し、ジオとザハリに会いに行かなければ。
やることが山積みだと考えていると、ヴォルグは別のことと受け取ったらしい。分かった様な顔でヒースに語りかける。
「分かっている。お前は病み上がりだ。急に歩き回るのは辛いだろうから、俺が運んでやる」
ヴォルグにしては随分と温かみ溢れる言葉が出てきたものだが、これは多分ヒースを庇護対象として見ているからだろう。カイネを一人前として見ざるを得なくなったヴォルグには、もしかしたら精神安定上守ってあげたいと思える相手が必要なのかもしれなかった。
それがヒースである必要は全くないのだが。
「そうだな、それがいい」
ヴォルグの提案に、カイネが真面目な顔で同意した。こいつわざと押し付けようとしていないか。そう思ったが、勿論顔には出さない。
ヴォルグの過干渉を嫌がるカイネにとって、カイネに恋愛感情を抱いているのではという誤解は解けたものの、煩わしいものであることに変わりはないのだろう。
「え、いや、でも」
それにしても、ニアの前で男に担がれるのは如何なものか。ヒースにだって、男の矜持というものは存在するのだ。出来ることなら遠慮したい。
だが。
「遠慮するな。先は長いからな、僕たちを存分に頼ってくれ」
カイネにぽんと肩を叩かれ、ヒースは何も言えなくなってしまった。
◇
現在、ヒースは谷底の深い森の中を当てもなく彷徨い歩いていた。
日は高く天気も最高にいい筈なのに、上空に鬱蒼と生い茂り視界を遮る大木の葉の所為で、辺りはまるで夕闇の様に暗い。
落ち葉と苔でふかふかな地面の上を、鹿の姿を取るクリフの首筋に手を添えながらゆっくりと歩いた。そうしないと、よく見えないのだ。
「近くにいなさそう」
少しだけ男らしくなった声で、クリフが残念そうにそう囁く。
崖の上から眺めていた分にはこの森は大して広そうに見えなかったが、全然そんなことはなかった。集落は森の東部に位置しており、崖を下ってからは比較的近い。でもあれは、直線距離で進めたからだったのだ。
一歩森の中に入れば、太い木の幹が道と視界を遮る。空を見上げても太陽は確認出来ず、一瞬で方向を見失うこと必須だ。
獣人族は、身が軽い。木登りなどお手の物なので、場所を見失えば木を登り位置を確認することが出来る。それ以外にも、彼らは嗅覚も聴覚も人間より遥かに優れているから、ヒースには到底感知することの出来ない情報を以て現在の居場所を確認しているのかもしれなかった。
半分とはいえ獣人族の血を引き継ぐカイネも、その辺りの感覚はヒースよりも格段に上だろう。でも、今回カイネはついて行かないと言った。
クリフは初対面の時、カイネの獣の匂いを嗅ぎ取り、警戒を解いた。だが、元々この森に住む動物たちにとって、獣人族は警戒する対象だ。カイネが鹿の姿のクリフをひとりで森の中を彷徨かせない様にした最大の理由は、他の獣人族にクリフが誤って狩られるのを避ける為だ。でも、カイネが一緒にいる限り、向こうは警戒を解かない。そう言われたのだ。
「俺が行っても一緒な気がするんだけど」
人間も獣人族もあまり変わらないんじゃ、と思ったが、クリフはつぶらな瞳できっぱりと言った。
「違う、ヒース怖くない」
クリフが、ヒースの首に鼻面を擦り付ける。クリフがヒースに甘える時の仕草だ。
「ヒース、ずっと優しい。怖かったことも、クリフを怖がったこともない」
「クリフを怖がる? ある訳ないじゃないかそんなの」
鹿の子模様が付いていた子鹿の頃からの付き合いだ。可愛い以外に何があるというのか。ヒースは笑うと、クリフの頬をぽんぽんと撫でた。
「違う。クリフ、喋った時も。人間になった時も。空を飛んだ時も、ヒース、怖がらなかった」
「だって、そりゃあクリフだから」
クリフが続ける。
「ヒース、ヴォルグもカイネも怖くない。人間も怖くない。妖精も怖くない」
「買いかぶり過ぎだよ。俺だって、怖いものくらい……」
ヒースは、そう言いながら思い返してみた。これまで怖かったことは、沢山ある。そう、例えば――ジェフが死ぬことが怖かった。魔物にクリフの母親が殺されたことが怖かった。ジオに置いていかれることが怖かった。母の愛情がなくなることが怖かった。あと、ヴォルグに地面に落とされるんじゃないかと思ったのも怖かった。ニアにもしものことがあったらと考えたのも怖かった。
あとは何だろう。
「ヒース、他の人を怖がらない」
クリフの言葉に、ヒースは首を傾げる。
「皆だってそんなもんだろ?」
「クリフ、色んなの怖い。ヒース、怖がらない。だからきっとあの子も、ヒース怖がらない」
「うーん……」
ヒースには、クリフの言っていることがよく理解出来なかった。色んなものを怖いと思っているのに、クリフは違うと言う。その違いは一体何なのか。
「クリフ、ヒース大好き。ヒース怖くない」
「あの子も好きなんだろ?」
ちょっとからかってみたくて小さく笑いながらそう言うと、クリフは笑わずに肯定した。
「うん。気になる」
クリフの言葉が、じんわりとヒースの身体に浸透していく様に馴染んでいく。会いたいな、怪我してないかな。そんなこそばゆいクリフの心がどんどん入り込んできて、ヒースに届いた。
ヒースの身体から、キラキラと輝く粒子が浮き上がる。これは、クリフの想いだ。クリフのあの子に会いたいという想いが、ヒースの魔力を介してヒースの外に発散されているのだ。
元は、魔力なんて持っていなかったクリフ。何も知らずに口にした魔力が込められた果実を食べて、今じゃすっかりただの鹿ではなくなってしまった。その魔力が、今ヒースとクリフを繋ぐ役割を果たしている。
「……あの子に会いたいな」
ヒースが呟くと、クリフも「会いたい」と囁き返す。
今、ヒースとクリフの気持ちはひとつに重なり、暗かった森の中を明るく照らし始めた。
あの日接点で見た、月の花に溜め込んだ魔力が放出されたものとそっくりだ。ヒースは、クリフの体温を感じながら魔力に乗ってあの子を探す。
怖くないよ、クリフは怖くないから、出ておいで。
これがヒースの意思なのかクリフの意思なのかも分からないほど混じり合った意識で、辺り一帯を包み込んだ。魔力の粒子が、色んな動物に触れていくのを感じる。小さな子。大きな子。好奇心旺盛な子。眠いのに何だと起こされた子。
その中に、興味はあるけど怖いな、そんな感覚が伝わってくる子がひとりいた。
「怖くないよ、こっちにおいで」
撫でる様に魔力で包むと、その子が自分の意思でこちらに足を向けたのを感じ取った。
次話は月曜日投稿予定です。
そろそろ第一部が終了します……




