封印
倒れた父から溢れる血は、鼓動に合わせて出る勢いが変わる。ヒースは唖然として、ただそれを見つめていた。
父が倒れ込んできた時に、思わず飛び退って床に尻もちを付いてしまったらしい。背中が棚に付く。
今、一体これは何が起きているのか。理解したくなかった。
「ヒー……」
自分と同じ色の父の瞳が、ヒースを捉える。手を伸ばし、目元をほころばせると、最後の言葉を言った。
「生きろ……!」
「――父さん!」
父はそれだけ言うと、動かなくなった。流れ出す血は、ヒースの足元まで近付いている。こんなに血が出てしまったら、父さんが起きられなくなってしまう――。
それまで金縛りの様に固まっていた身体が動く様になり父に駆け寄ろうとすると、ヒースの前に、母が父の背中に縋った。
「あんた! ああ、あああああ!!」
母は狂った様に泣き叫び、ヒースの心を侵食していく。
お前さえ、お前さえいなければ。
母の声が聞こえた気がした。
それは、まるで呪詛の様な恨みの感情だった。
――死ね、いなくなれ、憎らしい。
だが、ヒースの心は、それに呑まれることを拒否した。ヒースはヒースであり、母の様には自分のことを殺したい程憎めはしない。
それは、恐らくはヒースの心の中にあった最後の砦だった。
「いやだ……いやだ、俺、俺……!」
じわ、と涙が浮き出る。母の憎々しげな目つきで、自分の声が母にちっとも届いていないことを知った。何でそんなに自分のことを嫌うのか、どうしてなのか、ヒースにはさっぱり分からない。ずっといい子にしてきたのに、ずっと好かれる様に頑張ってきたのに。
生きたい、嫌われたくない、嫌わないで、こっちを向いて母さん――!
ヒースが強く願うと、それまで敵の様に自分の子を泣きながら睨みつけていた母が、ふ、と顔を上げる。
剣を片手にヒース達の様子を窺っていた魔族が、同じ様にスッと顔を上げた。意外なものを見た様な、不思議なものを見る様な目つきに、ヒースは違和感を覚える。
カツカツ、と硬そうな足音を立て、硬そうな尖った耳を持つ青黒い髪を持つ魔族の男が、母の腕をぐいっと掴んで立ち上がらせた。
「……あれはお前の子か?」
すると、母はハッと我に返った様に男を見上げる。父よりも背の高い、割とがっしりとした中年の男のその冷たそうだが端正な顔に、母が一瞬見惚れるのが分かった。
母のその好意が、ヒースの中にも流れ込んでくる。見目が美しければ、父を殺しても許せるのか。心の中の矛盾は、言葉に出す前に母の口から出た言葉で塗り潰された。
「あんなの、私の子供じゃない……!」
「母さ……」
今度はまた、あの拒絶がヒースを襲う。お前なんかいなくなれ、目の前から消えろ。自分に対する負の感情は、ヒースを襲いはしても、呑み込むことはない。
自分を憎む理由などどこにもないのに、どうやって憎めばいいと言うのか。
きっと、母は気が動転しているのだ。父が斬られたことを、ヒースの所為だと勘違いしているに違いない。母の足元に縋れば、その誤解も解けるのではないか。
だから、今まで母を否定する様なことは言わない様にしていたが、どうしても今回ばかりは譲れなくて、叫ぶ様に言った。
「母さん、嫌だ! 俺も連れてってよ!」
それは、初めての抵抗だった。
これまでは、ずっと母の感情を汲み取り、母に嫌われない様精一杯努力してきた。なのに、そうすればするほどどんどん嫌われていく。どうしていいか分からず、でも母は恋しくて、小さい頃にしてくれた様に可愛い子だと言われながら抱き締めてもらいたくて、ずっとずっと我慢していた。
こっちに来て、抱き締めて、好きだと言って。
それが、ヒースの強い願いだった。
「ヒース……」
母が、夢の中に入り込んだかの様な目に変わる。魔族の手を押しのけ、ヒースの方に近付こうとした。
戻ってきてくれる、あの大好きだった母が戻ってきてくれる。そう嬉しく思い、笑顔になって両手を伸ばす。
だが、それは魔族の男によって阻まれた。ぐいっと母の腕を引っ張ると、「そこで待て」と母に言い残し、まだぼーっとしている母をその場に残してヒースの前までやってくる。
途中、男は父から流れた血をビチャッと音を立てて踏んだが、眉ひとつ動かしはしなかった。
これは鎖かたびらという物だろう、じゃら、と細かい金属で編まれた重そうな服を揺らしながら、魔族の男はヒースの前に膝を付くと、じっとヒースの顔を覗き込む。
この男からは、敵意は感じられなかった。感じられたのは、憐憫の感情のみだ。何を見ているのか、ヒースの目と合う様で焦点が合わない。
「……なるほどな、珍しい魔力を持っているものだ。この俺も、一瞬持っていかれそうになった」
「魔力? なに? 何のこと?」
元々あまり物怖じしないヒースだ。父を殺したとはいえ、この非現実感と男の敵意のなさの所為で、素直に疑問を口にすることが出来た。
ヒースの問いに、男はぼそりと答える。
「……分かっていないなら、分からないままの方がいい」
「え、どういうこと……?」
ヒースが尋ねると、男は少し悲しそうな表情になり、ぽんとヒースの頭に手を置いた。
意外にも優しいその触れ方に、ヒースは本当に訳が分からなくなった。どうして、何で。だが聞いてもこの男は答えるつもりはないのだろうということも、何となく分かってしまった。だから、ただ見つめ返した。
すると、男は更に小さな低い声で言う。
もしかしたら、母に聞かせたくないのか。そんな気がした。
「……子供を死なせるのは、好きじゃないんだ」
ふう、という溜息と共に、男が目を伏せる。再び目をヒースに向けると、その黄色い瞳の真ん中に縦に走った黒い瞳孔が、徐々に押し広げられる。その奥から、光り輝く赤が見え始めた。
まるで朝焼けの様なその色に、綺麗だな、と素直に思う。その綺麗な色を見つめている内に、身体の中の何かがぎゅっと掴まれる感覚が押し寄せてきた。その不快な感覚に、ヒースは顔を歪める。
「な、なにこれ……?」
「魔力がなければ、奴隷としてなら生きていけるだろう。これほどに小さな子は、出来れば母親と居させてあげたいが、母親がお前を拒否しているからな……それでは困るのだ」
「困る? 何が……?」
視界がどんどんぼやけていく。今、何を話しているのかもあやふやになってきた。ぎゅっとされて、気持ち悪い。何だこれ、やめてほしいのに身体が動かない。
男の声には、悪意は感じられなかった。
「いい母親でなければ、本国には連れて帰れん。お前達は、互いを忘れた方が互いの為だろう」
「え……」
頭に乗せられた男の手が、どんどん重く感じる様になってくる。男の言っている意味が分かると、ヒースの中に焦りが生まれた。
「いやだ、母さんのこと、忘れたくないよ……」
痺れた様に感じる身体で、必死で男に抗う。だって、母さんはヒースのことが好きだった。可愛いと、愛していると、昔は言ってくれていたから。きっとこれからもっといっぱい努力をすれば、ヒースはやっぱり可愛かったと言ってくれるかもしれないのに。
「自分の醜さを目の前に鏡の様に映されて平気な者など、果たしているのか。興味深くはあるが、見ている暇はないな」
男は何が可笑しいのかそう言って笑った後、憐れみの目をして囁いた。
「せめて、この記憶と共に封じよう」
男がそう言った瞬間、ヒースの意識がぷつりと飛んだ。
次話は、金曜日に投稿します。




