謝罪要求
吐き気が治まったところで、ヒースはゆっくりと立ち上がった。そして、苦虫を噛み潰したような顔をしつつもそこで立って待っていてくれたヴォルグに、ひと言。
「ヴォルグ、水……」
はあー、と深い溜息をついて、ヴォルグはヒースの腕をぐいっと掴んでカイネの家の中へと引っ張った。正直痛いが、仕方ない。
ヒースよりも遥かに背が高く身体も大きいヴォルグは、まるで小さな巨人だ。ティアンはそこまで大きく感じなかったが、ヴォルグは文句なしに大きい。だから威圧感がある。しかもそれに付け加えて筋肉隆々だから、こんなのに好かれて追いかけ回されたら、そりゃあまあ怖いだろう。
だって、力では勝ち目は絶対にない。ヴォルグはカイネを力尽くで手に入れようとしていないから、だからまだ無事なだけだ。
ヴォルグが欲しいのは、カイネの愛情だから。愛情が力尽くで手に入れられるものではないことを、ヴォルグはきちんと理解しているのだ。
だがきっと、カイネが他の人に恋愛的に興味を示した瞬間、ヴォルグの枷は解かれてしまうのではないか。そんな気がした。
カイネに言っておいた方がいいかもな、とヒースは考えたが、あのカイネにそういった感情を表に出さないで隠し通すことなど無理そうだ。今は相手がいないからいいだろうが、相手が出来た時が恐ろしい。
ヴォルグに連れられて中に入ると、そこはこれまでの平和な食事場所から一変していた。
カイネの怒鳴り声が聞こえる。
「ちゃんと押さえてくれ!」
「分かっちゃいるんだが、レイスの奴が暴れて……!」
いつもなら敷物が敷かれて料理が並べられる場所には、血塗れの獣人の男が数人の男達に押さえられているところだった。
炊事場の通路の前に、ミスラが青い顔をして立っている。その横には、支える様にザハリがいた。更にその少し離れた場所には、シーゼル。ヒースに気付き心配そうな表情を浮かべた後、ヴォルグに掴まれたヒースの腕に視線が行き、思い切り眉間に皺を寄せた。
ヒース達を見て、ザハリが軽く手を上げた。
「顔色が悪いぞ。血は苦手か?」
苦手は苦手だ。前回シーゼルの血を見た時、おかしくなりかけた程度には。
だが、今回はそれではない。
「いや、飛んだり跳ねたりされたら酔っちゃって」
ヒースがそう言うと、ヴォルグがギロリと睨んだ。
「ひ弱な人間だな」
「ヴォルグに比べたら大抵の人はそうだと思うよ」
つい本音をポロリと出すと、ヴォルグがまた睨んでから、ヒースを半ば放り投げる様にミスラ達の方向に押し出した。
「ミスラ、水が欲しいそうだ。用意してやれ」
「え? あ、ああ」
ミスラがようやくヴォルグに気付いたかの様に顔を上げる。ヒースの顔を見た瞬間、それまでの表情が和らいだ。
「ヒース、真っ青じゃないか。ほら、おいで」
「うん」
だがその瞬間、今度は横にいたザハリの表情が思い切り歪んでしまった。あ、しまった。何だか色々と面倒くさい。
「水をやったらすぐに戻せ。こいつが持つ酔木に用が」
「それは僕が持ってるよ」
シーゼルが、冷たい声色でヴォルグの言葉を遮った。ヴォルグがシーゼルを見ると、シーゼルは口の端をくっと上げ、肩を手で押さえた。
「あー、でも、肩の傷が痛くて持ってこれないかもなあ。誰かさんの謝罪があれば腕も上がりそうだけど」
物凄く太々しい態度でわざとらしく言うと、シーゼルはにやりと笑った。
その間も、怪我をした獣人の悲鳴に近い声が部屋に響き渡っている。
ヴォルグはミスラを見ると、顎だけで行けと指図をした。そして今度はヒースを見る。行けと言われているのは分かったが、このままこの状態の二人を置いていくのはかなり不安だ。
ヒースが困りきっていると、不貞腐れ顔で傍観していたザハリが目に入った。
「ザハリ、あとは頼んだから!」
とにかく水が欲しい。先程一瞬口の中に溢れた嘔吐物の味が消えなくて、それがまた新たな嘔吐へと誘おうとするものだから質が悪いのだ。
「え? あ、おい! 嘘だろ!」
途端に慌てる素振りを見せたザハリだったが、ヒースは既に託した。ザハリなら、多分ヴォルグは一目置いているから効果はある筈だ。それにシーゼルに対しても。
この中で一番ヴォルグに舐められているのはヒースだから、だったらヒースがいなくなれば、ヴォルグだってシーゼルに謝る気になるかもしれないだろうし。
ヒースがミスラと一緒に炊事場の奥へと進むと、ミスラが裏口の扉の奥へとヒースを案内した。そういえば、扉があるのは知っていたけど、その奥へはまだ行ったことがなかった。
目の高さよりも上の方から、壁に沿って水が滴り落ちている。暗くて始めはよく見えなかったが、それが伝って腰の高さの辺りに設置された石で囲まれた水溜めに溜まっており、溢れた水は外に流れ出して小さな小川を作っている。本当に小さなものだが、小川の先は池になっていた。
水溜めにコップをジャボンと突っ込むと、ミスラが濡れた手のままそれをヒースに渡す。ヒースが有り難く受け取り口を付けると、思っていたよりも冷たい水が口の中に流れ込んできた。美味しい。生き返る。
「はあー」
思わず飛び出た声に、ミスラが小さく笑った。
「大丈夫かい? 確かに顔色がよくなさそうだったもんねえ」
「いやさ、ヴォルグが人を抱えてぴょんぴょん飛ぶから、気持ち悪くなっちゃって」
ヒースがそう言うと、ミスラがあはは、と今度は屈託のない笑顔になった。
「あいつの速さは群を抜いてるからね、人間にはきついかもね」
「うん、きつかった」
ぐい、とコップの中身を全部飲み干すと、ヒースはコップをミスラに返した。
「ありがとう、大分マシになった」
「どういたしまして。――ねえヒース」
ミスラの顔色もあまりよくはない。炊事場に戻ると、ミスラは皆がいる場所へは戻らず、その場に佇んでしまった。
「どうしたの?」
ミスラも血が苦手なのだろうか。戦いに行くことはどうもないようだから、そうなのかな。ヒースがそんなことを思っていると、ミスラが言った。
「私が、砂漠に魔物がいるなんて言ったから、だからレイスが怪我をしたのかなって……」
ミスラの顔色の悪さの意味が分かった。ミスラは、責任を感じているのだ。優しい人なんだな、とヒースはこんな状況だというのに少しほっこりしてしまった。自然と笑顔になり、凹み気味のミスラに語りかける。
「ねえミスラ」
「うん……」
「ヴォルグは、そんなことをミスラに言ったの? 言う筈がないんだけど」
「え?」
ミスラが、ヒースを見上げた。大きな赤い目には、疑問が浮かんでいる。
「何でヴォルグが言う筈がないなんてヒースが言うんだい?」
「だって、言う筈がないから」
ヒースは繰り返した。だって、ヴォルグは無口で乱暴で確かに粗野な印象を受けはするが、だからといって理屈が通じない男ではない。ミスラが心配している様な、非論理的なことを口にするような男じゃ、ない。
「誰か他の人がそんなことをミスラに言ったのか?」
すると、不安げだったミスラの瞳に、少しずつ力が戻ってくるのが分かった。
「言って……ない」
「ほら、じゃあそれはミスラが勝手に思ったことだよ。誰もあのレイスって人の怪我がミスラの所為だなんて、思ってないよ」
実際はどうだか知らないが、ヴォルグが言わないのなら他の男も言わないだろうことは予想がついた。
「戻ろう、ミスラ」
ヒースは言った。
「戻って、手伝えることがあったら手伝おうよ。ね?」
「ヒース……うん!」
ようやく笑顔に戻ったミスラが、大きく頷いた。
次話は明日、書けたら投稿します。




