ヴォルグとの約束
ヴォルグは牙を剥き出しにし、少しだけ毛深くなった手でヒースの喉をガッ! と掴んだ。
「ガハッ!」
途端に喉が圧迫され、呼吸が苦しくなる。ヴォルグの手を引き剥がそうと手を掴むが、びくともしない。そうこうしている間にも、どんどん酸欠になっていくのが分かった。
これは、拙い。交渉前に、気を失うならまだしも、下手をすると死んでしまう。
声を出そうにも、何も出ない。どんどん視界が真っ白になり涙が目の端から溢れ始めたところで、ヴォルグがヒースを地面に投げつけた。ドサッ! と大きな音が立ち、打ち付けた腕と腰に衝撃が走ったが、それよりも呼吸だった。
「グハッ! はっはっ……!」
地面に手を付いて、空気を思い切り吸い込むと、ヒースは息を整えつつこちらを尊大そうに見下ろしているヴォルグを見上げた。カイネと話していた時にあった、恐ろしげな雰囲気の中にある遠慮や優しさの様なものは、今は全く存在していない様に見える。ヒースを見る目つきは、完全に見下したものだった。
ヒースは悟った。ヴォルグの中では、ヒースは虫けら程度なのだ。カイネの周りをチョロチョロする、人間という邪魔な小虫に過ぎない。
だけどカイネがそれを可愛がるから、ならばいない隙に踏み潰してやろうか。そんな目だ。
ヒースは、息をふーっと長く吐いて、ヴォルグを真っ直ぐに見つめた。
こんなこと、分かってしまわなければいいのに。それでも、何故かヒースには分かってしまうのだ。どうしてだか、自分でも分からないけど。
「……俺に手を出すと、カイネはヴォルグを一生許さないと思うよ」
自分でも卑怯だと思う言葉が出てきた。でも、これが一番有効なのが分かっていた。自分の命を守り、且つこの先の交渉の場へヴォルグを引っ張り出すには、これが一番手っ取り早い。
案の定、ヴォルグの目が大きく揺らいだ。ヴォルグは、カイネを手放せない。そして、やはりカイネに好かれたいという願望がある。嫌われてでも自分の物にしてしまいたいと行動に移す程、ヴォルグのタガは外れてはいないのだ。
それは、風呂場での出来事からも見当がついた。嫉妬に駆られることはあっても、カイネが止めれば留まる。あの時、それははっきりと見て取れた。
ギリ、とヴォルグの奥歯が嫌な音を立てる。正直、また喉を掴まれたら今度こそ逃げられなさそうだが、でも目を逸してはいけない気がしたから、必死でヴォルグの目を見つめ続けた。
それにしても、ティアンといいヴォルグといい、どうして真っ先に人の喉を狙うんだろうか。獣の本性の部分が、獲物を即座に殺すには喉を狙えとでも伝えるのだろうか。
ヒースは待った。待って待って、――そして、ヴォルグが視線を逸した。勝った。
「……言え。内容によっては検討する」
ヒースはゆっくりと立ち上がった。再びヴォルグの前まで行くと、ヴォルグを見上げつつ言った。
「酔木を使う」
「酔木? あの酩酊感を覚える煙を出す木のことか?」
ヒースは頷いた。カイネは存在を知らなかったが、ヴォルグはカイネよりは年が上だからか、存在を知っていた。だったら話は早い。
「あんなもの、ただ酔うだけだろうが」
「燻して嗅ぐだけならそうだ」
だが、怪我の治療をするにも暴れてどうしようもない場合に、獣人達は別の使用方法をしていた。
「細かく砕いて、それを燻した煙を、直接身体に取り込む」
ヴォルグは、考え込む様に尋ねた。
「……吸わせる、ということか?」
ヒースは頷いた。
「だけど、量に気をつけろって言っていたのを聞いた。だから少量じゃないと危険なんだと思う。でも、それを一回吸わせたら、大暴れしていた獣人がぐったりと大人しくなった」
ヴォルグは太い腕を組むと、ヒースを睨みつける。
「だが、聞いたところでどうしようもない。酔木など、この集落には存在しない」
「あるよ、持ってきてる」
「……本当か?」
ヒースは頷いた。
「ティアンに挨拶代わりに渡したし、後はまだ残ってるのもあると思う」
酔木の管理はシーゼルが行なっているが、多分まだあった筈だ。それにティアンも昨夜は酔木を使うどころの精神状態じゃなかった筈だから、きっとそちらもまだ余っているだろう。
「よし、ではお前の言うことを一応は信じてやる」
ヴォルグはそういうと、がばっとヒースの腰に手を回し、軽々と小脇に抱えてしまった。
「ちょ、ちょっと!」
「嘘だったら、殺す」
「嘘なんかじゃないって! でもちょっとこの体勢は!」
「黙っておけ」
ようやく酔いが醒めたと思ったら喉を絞められ、今度はまたこれか。ヒースはげんなりとした。だが、事後に怒られるのも嫌なので、先に伝えておくことにした。
「……吐くかもしれないから、吐いても怒らないでよ」
ヴォルグが、実に嫌そうな顔をしてみせた。なんだ、ちゃんとそういう普通の顔も出来るんじゃないか。
「吐いたらその場で捨てる」
「じゃあ抱えるのを始めから止めてよ」
「……注文の多い奴だな」
ヴォルグはイラッとした表情を隠しもせず、ヒースを脇から肩の上に移動させた。あまり変わらないが、まだこちらの方がマシかもしれない。
「いいか、吐くなよ」
「俺の言ってることが正しかったら、ちゃんと二人で話をさせてよ?」
「……ふん」
「約束を破ったらカイネに言いつける」
「! お前はっ……!」
ヒースを抱える腕に異様な程の力が籠もった。このまま、握り潰されたりして。そんな嫌な想像が一瞬頭をよぎった。
「……もう黙ってろ」
何とか怒りを抑え込んだらしい。ヒースは素直に頷くと、口をしっかりと閉じた。カイネ程気を使ってくれないだろうことが予め予想がついていたので、舌を噛んで悶絶したくはない。
と、ヴォルグが一気にその場でとーんっ! と宙に跳ねた。腹がヴォルグの肩にこれでもかという位に食い込み、思わず「オエッ」という声が出た。すると、宙に浮いているというのにヴォルグの手が緩む。
「吐いてない! 吐いてないから離さないで!」
こんなところで放り出されたら、確実に死ぬ。ヒースは慌ててヴォルグの背中にしがみついた。
ハア、というヴォルグの溜息が聞こえた。と同時に、ヒースを支える腕に再度力が入れられた。とりあえず放り出されることはないらしい。ヒースも溜息をつきたくなったが、そんな呼吸をする余裕はどこにもなかった。
カイネと同じ様に壁面を蹴ってどんどん上に昇っていくが、その速度がヴォルグの方が圧倒的に速い。ひと蹴りの勢いが、カイネと段違いなのだ。
――これは、カイネが自分のことを弱いという筈だ。この筋力の差は、桁違いだ。これではカイネがどんなに抵抗しようとも、本気のヴォルグには叶いっこないのだ。
ヴォルグは今まで本気でカイネに手を出してこなかったが、いつそれが破られるかは分からない。カイネのあの恐怖心の源がこれにあったことを、ようやくヒースは理解した。
トン、と崖の上に着陸すると、ヴォルグは一気に駆け出す。この速さも段違いだ。そしてあっという間に崖の端まで来ると、今度は軽く飛び降りた。
「うっ……!」
ヒースは必死で器官を駆け上がってくるものを呑み込んだ。今放り出されても、確実に死ぬ。
ダンッ! と地面に着地した際、ヒースは後ろ、つまりヴォルグの前面に吹っ飛びそうになった。それをヴォルグが掴むと、実に嫌そうな顔で腕に抱いたヒースを見下ろした。
「……吐瀉物臭いぞ」
「は、吐いてない! 呑み込んだから!」
ヒースがそう答えると、ヴォルグのこめかみがピク、と動いたが、それ以上は何も言わず、ヒースを地面に降ろしたのだった。
次話は月曜日に投稿の予定です!




