依拠すべきもの
「陛下が摘み取った花でしょう」
言葉をなくす男三人を前にしてショウコは当然と言わんばかりに胸を反らせた。
「野に帰れぬのならば、温室で育てるより他にありますか?」
行為を揶揄するような言葉に、三人は言葉とともに顔色もなくした。
ショウコはやれやれとため息をついて許しもなく椅子に腰掛ける。こんな要件だと知っていれば応じなかったものを。
「皇后、陛下?」
ひくりと顔を引きつらせながら、シンレットが声を掛ける。その先に続く言葉はなく、ただ何とか場を持たせようという直向きな努力だ。
しかしその努力を蹴散らしてショウコは滔々と持論を述べる。
「この国でも女性に強い貞操観念を求めている文化がありますね?女性にのみそれを求めることの是非を論じれば夜が明けますから、取り敢えず置いておきますが。
とすれば性的な行為を経験したことがある女性は次の縁談がまとまりにくいという社会の実情もあります。そもそもその後どうする当てもなく戯れに花を手折ったのは陛下ではございませんか。後宮という場において彼女たちにそれを拒絶する自由があったとは考え難い。ならば陛下はその責任を取られるべきでしょう」
言葉が丁寧な分誤魔化されているが、端的に言えば「やったなら男らしく責任取れ」と。
しかしそれを言っているのが皇后、いうなれば正妃。そしてそれを受けるのが皇帝。どこかこの構図は間違っているのではないかとシンレットは頭を抱えた。
ロイは初めて見るショウコの一面に目を白黒させている。
そんな様子を見ながらショウコは極めて優雅に冷茶を口に運んだ。この暑さでは一度にたくさんしゃべると喉が渇いて仕方がない。
そんな三者三様の行動を見ながら、レイヴスは顎に手を当てて少し考え込み、そして口を開いた。
「その判断は理解した。しかしその情報はどこから得た?」
シンレットがまとめた報告書には記載されているはずがない。ちらりとロイに視線を向けると、知らない、というように首を横に振った。
極めて私的な情報であり、しかも公文書として閲覧可能になっているものでもない。ショウコが後宮に入ってからレイヴスはそこで夜を過ごしたことはないし、情報は皇太子時代にまで遡っている。それはレイヴスが記憶していないようなもので、正確に。
状況だけ考えれば奇妙だった。
レイヴスが訝しがるのも当然である。
しかしレイヴスの横でシンレットは全く別のことで頭を抱えたくなった。レイヴスは気にしないのかもしれないが、つまりこれは過去の女性歴をどんな方法かは分からないがショウコがすべて調べ上げたということだ。
ショウコは初日のこともあってあまり後宮にいい印象を持っていない。そこで行われていたことが露骨に知られれば、二人の関係にどう影響するのかシンレットは考えたくも無かった。
今すぐここから脱出したい。そう切実に願った。
しかしショウコはシンレットが危惧したような嫌悪感を示すことなく呆れたように、否、実際に呆れてそれを隠そうともせずに言った。
「本当に…陛下は何もご存知ないのですね」
「……一体何を」
「そう聞くところ、でしょうか」
「ふざけるな」
「ふざけてなどいません。呆れているだけです」
「話にならないな」
「全くです。これではうかばれませんわね」
ショウコはため息をつくと、困ったように笑った。
「シンレット殿、外していただけますか?」
「お望みとあらば、勿論」
内心、大歓迎と叫びたい。皮肉の言い合いならば慣れているが、この微妙な温度の会話は居心地が悪くて仕方がない。
「ありがとう。ロイも外して」
シンレットとは対照的に不満の色を示しながらもしぶしぶ頷く。
扉が完全に閉まったのを確認して、ショウコは立ち上がると手にしてきた革張りの薄い帳面をレイヴスに差し出した。
「……?」
取り敢えず受け取り中を開きぱらぱらと捲っていくうちに、レイヴスの表情が険しくなる。「お分かりですか?」
残りもレイヴスの机の上に並べ、その表紙を撫でる。その歳月を慰めるように、その思いを昇華させるように。
「これは、前皇后陛下の日記です」
午前中にショウコが作業していた机の上に山と積み上げられていたものの一部だ。
「こんなもの…どこから」
「皇后の居室です。私が入ったとき、多くのものがなくなっていましたが…これは金銭的な価値がないからでしょうね。寝室の隅に、粗末な箱に入って置いてありました」
中に記されているものは、日記と表現することは似つかわしくないかもしれない。
多くても三行程度。多くは一行でその日その日の出来事が書いてあるだけだ。そこに皇后自身の思いや考えは何一つ書かれていない。
不規則な生活と単調な毎日が続く中で、必ず記されているのが皇帝の訪れ。自分の下に来なかった日も、相手の名前とともにその事実は書かれていた。その記録と知りうる限りの情報を照合し、ショウコはそれが事実であるとの確信を得た。
どんな気持ちで書いたのか、ショウコには想像することしか出来ない。それが合っている確信もない。ただその事実のみを受け止めるばかりだ。
「確かに…私は無知だったな」
瞳を閉じて額を押さえながらも、レイヴス自身何を思っての言葉なのかは分からない。
ただ互いに最初から歩み寄ろうとさえしなかった、その必要性を感じもしなかった関係は、思い返すにはあまりに希薄で頼りない。
しかしそれをレイヴスの中で消化したことで始めて一人の女性の死を完結できた。
区切りをつけるように大きく息を吸ってレイヴスは立ち上がり、机の上に並べられた帳面をすべて腕に抱えた。
「陛下?」
「少し私に付き合わないか?」
吹っ切れたようなさばさばとした表情は悪くない。
そんなことをぼんやりと考えながらショウコはレイヴスを見返した。
「どちらへ」
「証拠隠滅兼…弔いだ」
冗談めかした言葉と真実が織り交ざる。レイヴスの言葉はいつだってそうで、気をつけて耳を傾けていなければその真実を見失ってしまう。
「お供しましょう。私もお礼と謝罪をしなければなりませんから」
部屋を出て夕日に染まり始めた廊下をショウコが急ぐことのない速度で歩き出す。レイヴスにとってはいつもよりもゆっくりと。それを極当たり前のこととして。
「私文書だからな。それほど重罰でもなかろう」
「法的には。でも個人の心にはこれ以上ない侵略でしょう」
「…日記の公開か……。確かに勘弁願いたいな」
「あら。つけていらっしゃるんですか?是非見せてください」
「…見てどうする」
すれ違う者が二人に道を空けながら常にないレイヴスの表情に目を見張り、そして横を歩くショウコに目を留める。
「勿論、陛下の弱みでも探します。おそらくシンレット殿とロイも手伝ってくれますから」
「そうだろうな。碌でもない」
「それで、日記つけてるんですか?」
「そういう輩がいるのに、そんなことをしていると思うのか?」
誰も並び立つことが許されない皇帝の横に、当然のように異国の姫が存在する。
「やっぱり。残念です」
「……お前の気持ちは良く分かった。覚えておこう」
それは何かが変わり始める表象として目に映る。よどみを吹き散らすように踊る風。
「しつこい殿方は嫌われる、というのが故国での通説でしたわ」
「男に二言はない、もそうだろう?」
「引き際が肝心だとは思いませんか?」
「互いにな」
新風が踊り、時を動かしていく。
新鮮な野菜が並べられ、下処理を終えた食材が並ぶ。
その横では大きな鍋に白い湯気がもうもうと立ち上り、これから一日のうちで最も忙しい時間を迎える王宮の調理場。
料理人や手伝いの女官たちから遠巻きに見られながら、ショウコとレイヴスはかまどの前に立っていた。
「よりによって、ここですか…」
前皇后の日記を処分するという意図は分かる。埋めるでもなく捨てるでもなく燃やすというのも、秘密の保持のためには理解できる。
しかしそれがなぜ調理場なのか。
恋文は庭の片隅でこっそりと秘めやかに燃やすもの。断じてこんな衆人環視の場で行われることではない。
恋文でないにしてももっと風情とかそういうものはないのだろうか。
しかし相手はレイヴスである。徹底した合理主義を貫く彼には、自分の興味がないことあったとしても手間隙と比較して秤がふれないことには情緒と言うものの存在を認めない。
「問題があるか?ここなら火の管理も適切だ。下手に外で火を起こして飛び火でもしたらどうする。この乾燥した季節は燃え広がるのはあっという間だ」
至極正論を述べている心算の顔にショウコは僅かに憐憫の情を覚えた。
「……。そうですね。それで陛下がよろしいのでしたら」
ショウコの表情を正確に読み取り僅かに眉間に皺を寄せたレイヴスが無造作に一冊をかまどの中に放り込む。
ちりちりと革張りの表紙が焦げ、独特の臭いが立ち込めた。
それをショウコは信じられないといった面持ちで凝視する。
「何だ?」
「これを一冊丸ごと燃やそうとすれば、それなりの時間がかかるとは思いませんか?」
「そうだろうな」
「ならば何故、そういう暴挙に出られるのですか」
「暴挙?」
意味が分からない、といった態度のレイヴスにショウコは言い聞かせる口調で懇々と説いた。
「私たちがこの場にいるというだけで、皆の仕事が中断しているのですよ?出来るだけ早く済ませようと思ったら、こうするのが常道でしょう」
言いながらショウコは数枚破り取るとくしゃりと握りつぶして空気を含ませてからかまどに投げ入れた。それは一瞬で燃え上がり、何の痕跡も残さずに上で煮られている豆のための燃料となった。
「如何ですか?私の言うことは間違っていますか?」
「間違っていはいないだろうが……」
レイヴスはおとなしくショウコに従いながらため息をつく。
「お前にだけは風情がどうのこうのと文句を言われたくはないな」
その後しばしの間調理場で黙々と作業をする皇帝と皇后の姿が周囲を驚かせた。
「陛下!こちらにいらっしゃいましたか!」
調理場を後にしたショウコとレイヴスはほぼ同時に声のする方向へ振り返った。微妙な時差は陛下と呼ばれることへの慣れの差だろう。
しかし呼んだ者は該当者が二人いたことに驚き、驚きながらも膝を突いて礼を取る。
「あなたは…」
後宮で耳あるいは目と呼ばれている女官だ。
「もし私を呼ぶ名にお困りでしたら、どうぞシェーンとお呼び下さい」
「わかりました。シェーン。それで…」
仮の名前なのだろうが、それで不都合はない。用件を尋ねようとすると廊下の奥から声がした。
「ショウコ様はいらっしゃったか!?」
「ケンまで…何かあったの?」
ショウコに気が付くとケンは駆け寄り略式の礼を取る。ケンが人前でこういったことをするのは滅多にないことなので、どうやら急いでいるらしい。
ケンとシェーンには後宮のことを任せていた。その二人が揃っているということは何かあったのだろうか。
横にいるレイヴスも傍目には分かりにくいが僅かに表情を曇らせている。
「いえ。後宮は立ち退きも始まっていますし、大きな混乱はありません。ですが陛下に目を通していただきたいものがございまして」
「ショウコ様」
そう言って差し出された書類や手紙の束を受け取って、ショウコとレイヴスは怪訝な顔をした。これがそれほど判断に困るものだとは思えない。
「ねぇシェーン。これ請求書よね?」
「はい。あの…本日付で届いたものなんですが注文された方々は身分を剥奪されていないうちに買ったものだから受け取る権利があるとおしゃっておいでで……」
「……人としてどうだ、その考えは」
吐き捨てたのはレイヴスだ。ショウコも思わず天を仰いでから、困惑顔のシェーンに笑いかけた。
「陛下のおっしゃることもごもっともなれど、既得権を奪うことは出来ません。希望される方には差し上げましょう」
「甘いにも程がある」
「…ショウコ様!」
「よろしいのですか?」
まさか許可が下りるとは思っていなかったのだろう。疑うような声が掛かる。
「いいのよ。国庫は痛まない。
陛下の私財を投じるのですから」
「……何?」
「依存はありますまい?」
「何故ないと思える。その頭は正常に動いているのか?」
「ショウコ様!」
「ケン。ちょっと待ってて。
陛下はこの請求書の山をご覧になったのでしょう?これが昨日今日だけのこととお考えですか?毎日毎日陛下の後宮でこれほどの国の財産が浪費されていたのですよ?それを放置していたのは陛下の責任です。最後くらい取ってくださらなければ」
勿論法的にはレイヴスに支払う義務がないことはショウコも把握しているが、ここは維持と倫理観と押しの強さに訴える。
レイヴスにしてみれば今回出て行く女性たちは一度も情をかけたことのない者たちばかり。正当性のある話ではないがそこまで言われてしまえば愚かな自尊心がうずくというものだ。
レイヴスが押し黙ったことにより話は決着し、ショウコはにこりと微笑んだ。
「ではシェーン。そのように」
「御意」
「それでお話はお済みですか?」
ケンにしては珍しい嫌味がこもった言い方にショウコは首をひねった。
「ええ。ごめんなさい。何の用だったのかしら」
「失礼します」
ゆったりとショウコにじれたように、ケンはショウコの手の中にあった束から一つの手紙を抜き取った。
「どうぞ、お目をお通しください」
差し出された手紙をみて。ショウコはケンがじれていた理由を了知した。
震える手で手紙を受け取り信じられない思いで開封する。
まさか。
どうして今更。
「……どうした?」
気遣わしげな声も今は遠い。
こんなことは起こり得ないと諦めたのはもう何年前だっただろうか。
懐かしい、喜ばしいはずの手紙。そのはずだった。
しかしある一文に差し掛かり、その先に進めなくなった。
何度も読み返しその意味を推し量ろうとした。
しかしその簡潔な言葉はそれ以外の解釈をショウコに与えない。
そしてそれ以上の事実を伝えようともしない。
混乱はしていても最後には冷静であろうとする頭がその事実を認識したとき、ショウコは足元が脆くも崩れるのを感じた。
それがショウコがリュミシャールにきてから初めて受け取った、故国からの手紙だった。




