第9話 職場の上司
俺の働く田邉物産は、加工食品や食材を卸す会社だ。取引先は主に飲食店やホテル等で、自社の配送ドライバー達が直接運んで行く。
日本各地に拠点を持ち、様々な食品を扱っている。本社は東京で、俺は地方の支社勤めだ。
そんな会社で営業職をやる事になって1週間。俺は直属の上司である高嶺部長から、指導を受ける事が決まる。
フルネームは高嶺雫さん、30歳のクールな女性だ。腰まである艷やかな黒髪。
如何にも仕事が出来ますと言った雰囲気を纏っている。可愛い系のリサ姉とは真逆のタイプ。
カッコいい女性と言うか、理知的で真面目な印象を受ける。少し近寄り難い気はするけど。
「間島君、今日から私が貴方の面倒を見るわ。ちゃんとついて来てね」
やや冷たい印象を受ける話し方だが、それだけで決めつけるのは良くない。
俺は良く見た目で勘違いをされてしまう。だからこそ俺は、第一印象だけで人を判断しない。
「はい! よろしくお願いします!」
今日は先ず、高嶺部長に着いて回って営業先へ挨拶に行く。これまでは社内研修が中心だった。
しかし今日からは違う。本格的に営業として取引先へ行き、俺の事を覚えて貰わないといけない。
「今日は私が運転するから、良く道を覚えておいてね。ナビはあるけど、景色を覚えておくのも大事だから」
「分かりました!」
道を覚えるのはそれ程苦手じゃない。多分何とかなるだろう。もちろんナビも使うけど。
「それじゃあ行きましょうか」
高嶺部長の後を追い、俺は社内を歩いていく。エレベーターで1階まで降りて、駐車場で営業車に乗る。
今回乗るのは良くある普通の乗用車より、荷台が少し広いタイプだ。色々と荷物を後ろに積む事が出来る。
ただ少し車体が大きいので、軽自動車ほどに小回りは利かない。擦ったりしないよう、運転の際は注意が必要だろう。
「一社ずつ回って行くからね。名刺は忘れてないわよね?」
「大丈夫です、鞄に入ってます」
高嶺部長の運転で車が動き出し、駐車場を出て国道へ。大きめの車なのに、部長は慣れた感じで運転している。
普段から乗っているからだろうけど、綺麗な女性が運転も上手いとカッコよく見える。
「どうかした?」
運転が上手いなぁと見ていたら、何か用事があると思わせてしまったらしい。
「いえ、運転が上手いなと」
「当たり前でしょ。それよりちゃんと道を覚えて」
その通りなので、俺は風景を覚える事に集中する。曲がる信号の位置、特徴的な建物。
飲食店の位置や学校、銀行の支店名や川など。色々な景色を頭に叩き込む。
「今日回る所は全部、気難しい人は居ないわ。普通にしていたら良いから」
「分かりました」
多分だけど、回り易い所を選んでくれたのかな? いきなり新人に難しい所は行かせないだろうし。
単に話し方がクールなだけで、優しい人なのではないか? 何となくそんな気がする。
高嶺部長みたいなタイプが、実はとても優しい。そんなのは良くある話だ。
やはり色眼鏡で見ずに、実際の人物像で判断しよう。それが1番良いだろう。
リサ姉だってそうだ。見た目はめちゃくちゃギャルだけど、とても可愛い女性だし。
「着いたわ。行きましょう」
「はい!」
最初にやって来たのは、県内にある有名なホテルだ。グランドホテルオータニ、俺は泊まった事ないけど。
地下の駐車場を出て、裏手に回る。関係者用の入口で入場手続きを済ませる。
入館証を貰って、首から下げてホテルの中へ。先ずは食品管理の担当者さんに、これから会いに行くみたいだ。
高嶺部長の後ろをついて行き、どんどん通路を進んで行く。すれ違う人に会釈をしつつ進む。
「ここよ、名刺の用意を」
高嶺部長がノックをしてドアを開ける。元々連絡が行っていたのだろう。スムーズに担当者の方と会えた。
教わったマナー通りに挨拶をし、名刺を交換する。担当者は若い女性の方だった。
「間島君ね、よろしく」
「よろしくお願いします」
高嶺部長は仕事の話を交えつつ、楽し気に会話を続けていく。俺は相槌を打ったりしながら、3人で談笑する。
「という訳で、今後も宜しくお願いします」
「お願いします!」
無事に顔合わせを済ませると、次は料理長の下へ行くらしい。直接関わるのは配送ドライバーだが、俺も会っておく方が良いからだと。
調理場の方に赴いて、料理長とも顔合わせをする。今度は中年の男性だった。
「へぇ、君が新人か。随分デカいねぇ」
「良く言われます」
そのまま軽く会話を交わし、料理長との挨拶を終わらせる。
配送トラブル等があった時に、俺が直接持って行く事も有り得るそうな。
そんな時は、今の料理長へ直接渡す事になる。彼に会うのは殆どそのパターンだそう。
つまり会う回数が少ないほど、問題が起きていないという事か。そうである事を願おう。
一社目は無事に終了し、そのまま二社三社と挨拶回りを続けて行く。
「そろそろお昼にしましょうか。私の知ってる店でも良いかしら?」
「全然構わないですよ」
むしろ高嶺部長みたいな美人な女性が、普段行く店を知れるのはメリットだ。
もし良い感じの店だったら、リサ姉にも教えてあげよう。一緒に行く名目にもなるし。
高嶺部長はコインパーキングに車を停めて、着いて来てと案内をしてくれる。
今日はずっと、美人上司のお尻を追い掛けてばかりだな。いや他意は無いんだけど。
まあスタイルの良い人だなぁとは思うけど。リサ姉にも負けていないんじゃないか?
いちいち聞いていないけど、社内で高嶺部長を狙っている男性は多そうだ。
「ここよ」
「居酒屋、ですか?」
看板には居酒屋と書かれている。刺身などの魚介をメインに提供する店らしい。
「夜はね。昼はランチを出しているのよ」
「なるほど」
そう言えば、大学の近くにもそんな店があったな。もう最近は行っていないけど。
今住んでいる家からは遠いし、わざわざ行く理由も無かった。結構美味しかった記憶がある。
俺は高嶺部長に続いて、地下へと続く階段を降りて行く。店内に入ると、結構な人数のお客さんが居た。
どうやら社会人に人気があるのだろう。同じようにスーツを来た人ばかりだ。
「いらっしゃいませー! 何名様ですか?」
「2名です」
元気の良い店員さんに案内されて、俺達はテーブル席に着いた。上着だけ脱いで、イスの背凭れに掛けておく。
「値段は気にしないで、好きな物を頼みなさい」
高嶺部長はそんな事を言う。それってつまり、奢りだという事だよな?
「え、良いんですか?」
「遠慮は必要ないわ」
やっぱり面倒見が良い優しい人なのかな。朝から一緒に行動していて、そんな印象が強くなった。
話し方は確かに冷めた感じだけど、言葉に込められたものは温かい。
「じゃあ、遠慮なく」
ガヤガヤと賑やかな店内は、活気があって良い感じだ。静かな店も嫌いじゃないが、雑談も楽しみたいならこう言う雰囲気の方が良い。
「どう間島君? 会社には慣れた?」
「えっと、恐らくは」
まだ先週1週間と、今日の午前中しか働いていないけど。まあ多分、何となく分かった気はする。
仕事にはまだ慣れていないけど、社風というか空気には慣れたと思う。
「そう。何か分からない事があれば、早めに聞くのよ。分からないまま黙っていられると、こっちも困っちゃうから」
「分かりました!」
高嶺部長との1日目は、大体こんな感じで過ぎて行った。基本的には穏やかで、そこまで厳しい感じはしない。
話もしやすいし、高圧的な感じもない。結構良い上司に恵まれたのではなかろうか?
まだ社会を全然分かっていないけど、何となくそんな気がした。
特に理想の上司像があったわけじゃないけど、高嶺部長は少なくとも嫌な感じでは無かった。




