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五十四話 『陽を食らう』

 ナギの肩に張り付いて飼育室を出たヤモリは、薄暗い廊下に視線を這わせながら小さく息をついた。


 窓には蝋や染料が塗りたくってあり、外界の日差しを極力入れないように工夫されている。


 ナギが、壁際を歩きながら静かに口を開く。


「元気だった?」


『ああ』


「今、どこにいるの?」


『隠れ家だ』


「王家の箱のことだけど」


『……三日に一回程度だ。覗いていたのは』


 ナギが廊下を曲がり、階上へ続く階段へ向かう。


 その頬に、わずかにしわが走った。


「寂しがり屋のくせに、大それたことをするからそんな目にあうのよ」


『怒ってるのか』


「別に。あなたが追放される時にさんざん怒ったから。今はもう人妻だし」


 ナギが階段を上がりながら、前方を睨む。


「……夫も息子も天国に行っちゃったけど、私は一生彼らの家族よ。妻であり、母なの。それはもう死ぬまで変わらないわ」


『……』


「だから、あなたとよりを戻す気なんかないの。そこは勘違いしないでね」


『その言い方だとまるで俺と君が付き合ってたように聞こえ……ああ、やめろ』


 肩をいからせてヤモリを振り回すナギが、階段を上り切って、さらに廊下を歩いて屋上への階段に向かう。『外に出るのか? 日差しにやられるぞ』と言うヤモリに、ナギは鼻息を吹いた。


「ほんと、おかしな関係だわ。私とあなたが、未だにヘンテコな魔術を介してでも会話をしてるっていうのが、理にかなってない」


『そうかね』


「……追放されたあなたについて行ったり、みさおを守り続けて生涯一人で生きてた方が、世の女どもにとって美しい物語になったんでしょうよ。でも、あなたは私を求めなかったもの。独身をつらぬくのも、親や周囲の実情を考えれば無理。

 死んだ夫を侮辱する気なんかないわ、でも……」


『待て、何の話だ? 美しい物語だと?』


 ナギが、一瞬足を止めた。しかしすぐに階段に足をかけると、屋上へ上って行く。


「……あなたにべったりだった私が、あなたがいなくなってから、別の人と結婚して……それを『不義』だって感じる連中が、結構いてね」


『いじめられたのか』


「表立って嫌味を言ったりはしないわ。でも結婚当時は、周囲の視線に軽蔑の色が混じってた。

 あなたの愛ってその程度のものなのね、って、目で言ってくるのよ。侍女長になってからはそんな視線も少なくなったけれど」


 屋上から降ってくる日差しの前で、ナギがエプロンを外し、頭巾のように頭にかぶった。


「あなたって、今でもあの飢饉を経験したコフィン人の多くにとって、英雄なのね。知恵者としてのあなたを愛している国民がたくさんいるのよ。だからあなたを待たなかった私を……良く思わない人もいた」


『すまない』


「違うの。愚痴ぐちってるんじゃないの。ただ……そういう周囲の反応や……国王陛下の、私達への温情を考えると……自分の判断に、自信がなくなるの」


 ナギが、日差しの中に出て行く。


 王城の屋上には当たり前のように青空が広がり、コフィンの旗が無風の陽気に、だらんと垂れている。


 足元の石材を靴で叩きながら、ナギは屋上の端へと歩いて行く。


「家族も、王城での仕事も、何もかも捨ててあなたについて行くのが正しかったのかも、って。

 もちろんそんなわけないってことぐらい分かってる。私はあなたの恋人でも何でもなかったし、ついて来られたらあなたが迷惑するだけ。

でも……周りはそうは思わなかったみたいで」


『思うだけなら、責任を取る必要もないからな。悪いのは俺で、君は俺のしでかしたことに巻き込まれただけだ。大半の人々はそれを分かっていただろう?』


「一度だけ、夫に言われたの。君は本当に僕で良かったの? って」


 ナギが、真っ青な空と地平線の境界にのぞむ。


 大きく息を吸い込んで、わずかに口元をほころばせた。


「心からこう答えたわ。当然よ、私の夫はあなたよって。罪人ダストは、友人として……親友として愛しているだけだって」


『……親友』


「かけがえのない、親友よ。ただ……私が片思いしていて、恋人になっていたかもしれないってだけ」


 青い火を両目に静かに踊らせるヤモリの前で、ナギがことさら明るく笑った。「ああ、やっと言えた」と、両腕を広げて目を細める。


「ごめんね、あなたは初めから私を振っていたのに、私の方は答えを出すのに何年もかかっちゃった。追放されたあなたと唯一手紙を交わすのを許されたり、周りにあなたへの執着を促されたり……あなたが一人っきりなんだって思ったら、余計に自分の立ち位置が分からなくなっちゃって」


『君に、思っていた以上に苦労をかけたようだ』


「あなたのせいじゃないわ。謝らなくていいから……でも……」


『ん?』


「ヤモリの骨なんかじゃなくて、あなた自身の姿で私に会いに来て。いつでもいいから、昔みたいに……並んでコフィンの空を眺めましょう」


 青空に向けた目を閉じるナギに、ダストは少し間を置いてから、『約束する』と、静かに誓った。





「あのう」


 出し抜けに上がった小さな声に、ナギとヤモリが同時に目を剥き、眼窩の炎を燃え上がらせる。


 振り向けば国旗の後ろから、一人の少年が遠慮がちに顔を出していた。


 ナギが「チビ!」と、しきりに髪をいじりながら顔を引きつらせる。


「ず、ずっとそこにいたの? 危ないわよ! 倒れたらどうするの!」


「ごめんなさい、でも、ちょっと気になることがあって……あっちの空に……」


 とことこと国旗の向こう側に歩いて行く子供を指して、ナギが「狩人と一緒にいた子よ」と説明する。


「手紙に書いたでしょ。スノーバに殺された英雄の一人が育てていた、戦災孤児よ」


『向こうの空がどうしたんだ』


 ナギがチビを追って行くと、チビはナギ達が眺めていたのとは真逆の方角、スノーバの都のある方角を指さしていた。


 スノーバの都から、何か細長いものが太陽に向かって伸びている。


 眉を寄せるナギに、チビはちょこんと首をかしげて言った。


「あれ、なんでしょう。お日様にとどいてるように見えますけど」


「何かしら……なんだか気味が悪いわ。ダスト」


 ヤモリは青い火の目で太陽を睨むと、低く『城の中に入れ』と二人に命じた。


『急げ。あれを見つめるんじゃない。……モルグを落とした、赤い蛇だ』


 ヤモリの台詞が終わるか終わらないかのうちに、太陽に伸びていたものがぐにゃりとしなり、一気にスノーバの都のそばに先端が落ちた。


 土煙を上げて地面に衝突した先端は、何かを空中に巻き上げ、それを鋭い牙で噛み千切る。


 食われているのがスノーバの持ち込んだ馬と、その乗り手だと分かると、ナギがチビを抱きかかえ、一目散に階段へと走った。


『神喚び師め、喉が治ってきたらしい……呪文を唱えられるか試したんだ。だが、味方を食ってしまう内は神は動かせまい。声が濁って不完全な魔術を使ってしまったんだ』


「ど、同士討ち!?」


『たまたまだ。赤い蛇がこの王城に突っ込んでくることもあり得た。……強大な力を浅はかな者が使うことの恐ろしさが分かるだろう。やつらとは決して、絶対に、共存はできんということだ』


 階段を駆け下りるナギの首筋に前足を載せながら、ヤモリはめらめらと眼窩の炎を燃え上がらせる。


 決戦の時は、刻一刻と迫っていた。

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