三十話 『侵入』
誰か俺を救ってくれ。
賞賛も、英雄視も、何もかもが欺瞞だ。
祖国には帰らない。帰りたくない。ただラヤケルスの首を使いに持たせて送った。
これで王に人質に取られた家族も、殺されずに済むだろう。
それで十分だ。それでおしまいだ。
人類の罪を背負わされ、魔王にされた男も、その魔王を殺すために旅立たされた男も、これ以上の結果を祖国に求めてはいない。
毒の雨の罪……世界を死に沈めた責任を取りたくないから、人々はラヤケルスを必要以上に憎んだ。
ただ、失った命を再生させようとしただけの男を、神の教えに背く極悪人、魔王として非難した。
その死を、討伐を、国で最も強い魔術師に求めた。
魔術を禁じられた世界で、魔術しか能がない男に戦いを強いたのだ。
無理だと言う俺に、国王は脅迫の限りを尽くした。毒の雨の罪をラヤケルスに押し付けるためには、その物語を完成させるためには、どうしても英雄の、勇者の『役』が必要だったのだ。
だが国王は、民は、俺がラヤケルスを倒すために数多の魔術を駆使したことを知れば、平然とその罪を追及するだろう。
今の祖国は、そういう国だ。混沌としていて、正義は失われている。
だから俺は戻らない。祖国を捨て、遠い異国で、己の作った兵器と向き合い続ける。
でも、誰か、いつか、俺を救ってくれ。
使いたくもない魔術を使い、殺したくもない魔王を殺した俺を、誰か、許してくれ。
俺の罪を、許してくれ。
――勇者ヒルノアの碑文より、抜粋――
青空の広がる草原。
草木は降り注ぐ陽光にいきいきと臨み、やがて枯れ果てる運命を待っている。
ダストとアッシュが草を踏むと、暑さにやられた虫達が抵抗もせずに草の上から落ち、地面に転がる。
草の根をぬうように流れる小川には魚の姿はなく、それぞれの小川の終着点、小さな池のようになった場所に水性生物達が身を寄せ合っている。
気温の異常な上昇に、危機を察知したのかもしれない。
干上がるのを恐れるように、魚達はしきりに口を開閉させて水を口中に取り込んでいた。
そこから少し離れた泥たまりにはエビ達が身を横たえていて、体内の寄生虫と共倒れになりかけている。
草の間にはフクロウが眠っていて、浅く細く息をしていた。
元来、雲に覆われた涼しい土地に生きていた生き物達には、直射日光に対する耐性が全く備わっていない。おそらく雨雲の消滅で水が枯渇する前に、太陽光に殺される種が続出する。
それは人間も例外ではない。
コフィンの王都が眼前に迫ってきた頃、ダストが家から背負ってきた背嚢を開け、小汚い布を二つ取り出した。
一つをアッシュに手渡すと「頭からかぶれ」と命じる。
「頭から腰まで隠れれば、そうそう正体を見破られはしない。この暑さだ、被り物をしていても不自然じゃない。兜は置いてきたな?」
「うん」
「西側の壁から入ろう。壁沿いの木陰に隙間があるはずだ」
布をかぶった二人が王都の西側に近づくと、果たして倒れかけた樹木の背後に、壁に開いた穴があった。
背嚢を先に放り込んだダストが、穴に猫のように体をねじ込み、すり抜ける。
次いでアッシュが穴に半身を差し込んだが、どうにも体がつっかえてしまう。
うんうん言って身をよじらせる彼女の腕を、ダストが両手でつかんで引っ張った。
「女は不便だな。やたらに体にデコボコが多いからすぐつっかえる」
「いたた……ダストが細いだけだって!」
多少苦労してアッシュを穴に通すと、ダストは再び背嚢を背負い、石畳の通りに向かう。
二人が歩く王都にはほのかにすえた臭いが漂っており、道のわきにある建物のほとんどに人の気配がなかった。
たまに道端に座り込む人やすれ違う人がいても、彼らの目に生気はなく、どこか遠くを見ているような目つきをしている。
巨大な毛皮の塊にふさがれた道を迂回し、さらに数分を歩くと、建物の屋根越しにコフィンの王城が見えた。
ダストがアッシュをちらりと見て、小声でささやく。
「心の準備を」
「…………うん……」
石畳を歩き、王城に近づく。やがて建物が途切れ、視界が開け……城門前の広場に、巨大な白い巻き角の先端が見えた。
アッシュが、妙な声を上げる。更に近づけば、巻き角の周囲に何人かのコフィン人達が集って、ひざまずいて祈りを捧げたり、泣いたりしていた。
……巨大な、竜の首。おそらく建築用の大ノコギリで切断されたのだろう首の断面からは、乾いた赤い血液と青緑色の鱗が、周囲に飛び散っている。
首のないモルグの石像のそばに転がる、本物のモルグの首。そしてコフィンの英雄達の、遺品。
コフィン人にとって、これ以上絶望的な光景はない。
嘆きの声が上がる広場に、アッシュがゆっくりと、足を引きずるように進んで行く。地に這いつくばって泣く男のわきを通り過ぎ、呆然と立ち尽くす女の背後を通り過ぎ、そして、モルグの見開かれた、白濁した瞳の前に立つ。
ダストは広場の入り口から、その様子を見ていた。
アッシュがモルグのまぶたに触れ、何かを言うのを、そして、やがてうつむき、地面に膝をつくのを。
声を殺して泣くのを、黙って見ていた。
……それから一時間も経った頃。
ようやく涙が枯れたアッシュが顔を拭い、立ち上がろうとした時。
ふと後ろを振り返ると、そこにいたはずのダストの姿が、風のように消えていた。
「――顔色が悪いようだけど」
冷ややかに言葉を向けてきたマキトに、ルキナは彼の背後を歩きながら、顔の汗を手でぬぐった。
スノーバの都。モルグの死に沸く大通りを、ルキナはガロルと共に、マキトやスノーバ兵達に囲まれながらユーク将軍の城へと向かっている。
例によって将軍の一方的な呼び出しを食らった形だが、今回はガロルが城の中まで同行することになっている。
モルグ亡き後の環境変化に体調を崩したルキナを、謁見の間補佐するという名目だ。
マキトは戦斧をくるくると手元で遊ばせながら、ルキナに顔も向けずに鼻を鳴らした。
「まるで地虫かなめくじだね。日陰が大好き、日なたにさらされたらすぐに死んでしまう。人類としてどうなの、その体質」
「黙れ……!」
「ユークも呆れてるよ。せっかく邪教から解放してあげたのにそのていたらくじゃね。その内土地が甦ったら植民地民として土を耕さなきゃいけないのに、大丈夫なの?」
「いつ誰がそんなことを約束した! 勝手に話を進めるな!」
怒鳴るルキナを、マキトがわずかに振り返って見る。
小さく口端をつりあげるマキトに、ルキナとガロルが同時に眉間にしわを刻んだ。
「いい加減、観念しちゃえよ。国王も英雄達も、元老院も、守護神すらくたばったんだ。あんたらには何も残されていない。もうスノーバに屈服するしか道はないってことぐらい、馬鹿でも分かるだろ」
「うるさい……誰が貴様らなどに……」
「ユークはあんたなんかサル山の女王ぐらいにしか思ってないだろうけど、レオサンドラさんがやけにあんたを気に入ってる。あの人、革命政府のお偉いさんだからね。上手く取り入ればけっこういい思いさせてもらえるかもよ。あんたも、あんたの国もね。もちろん属国としてだけど」
マキトが、自分を睨む二人に背を向けたまま、くつくつと笑った。
「虚勢を張れるのも今の内さ。ぶっちょう面のあんたがいずれ笑顔でレオサンドラさんに尻を振ると思うと、笑えて仕方ないよ。召使いのあんたは屋敷の床掃除にでも雇ってもらえば? あははは、ケッサクだね」
「糞野郎……!」
ルキナがうなると、マキトはますます声を上げて笑い、城の城門へと近づいて行く。
マキトとルキナ達は、互いを笑ったり憎んだりするのに気を取られ、気づかなかった。
自分達の周囲を固めるスノーバ兵達の、最後尾の一人が、立ち止まったことに。
どんどん先を歩き、離れて行く人々を、兵士は追わない。ただ道の端に立ち止まり、ぐるぐると喉を鳴らしている。
その、兵士の首を、道端の塀の隙間から伸びた手がつかんでいる。
ろうそくのような、白い手。細い指。それが兵士の鉄仮面と、プレートアーマーの隙間に埋まっていた。
ダストが、暗い、殺気の色濃くにじんだ目をしたダストが、スノーバ兵の耳元で低く、恐ろしい声を上げた。
「地に眠る、深き星の火の心臓……黒く燃ゆる……炎の名の下に告ぐ……!」




