百四十五話 『異変』
「お役人様。どうか信じてください。私は何もしていないのです。私には何の責任もないのです。ただ、お国から言われたとおりに、長年魔の島と寄り添い、正直に生きてきただけなのです。私は本当に取るに足らない、正直なだけの漁民なのです」
船床に頭をこすりつける村長の言葉を、上等な黒革の帽子をかぶった役人も、船頭役の老人も無視した。
島の外。夜の止め海に浮かぶ小船は、それでも村で最も金をかけて作られた船だった。くりぬき式の釣り船などとは素材も作りも違い、大事な客人の衣が濡れぬよう樫の船べりが高く広く突き出ていて、船底には重石を抱え、揺れを最小限に殺すもてなし用の船だ。
船首にかかったランタンの、水滴の影をまとう光を浴びながら、役人は村長の向こうで櫂を動かす老人に声を向ける。酒好き特有の低くしゃがれた声音が、静かな緊張感を伴って海原に響いた。
「君はこの半月ほどの間に、二度にわたって旅人を魔の島に案内した。二度目は夜中の案内で、その際は君自身も上陸したと聞いている」
「仰るとおりです」
「どこまで足を踏み入れた? 砂浜を上がって、森に入ったのか」
「いえ、森の入り口で白い男達を振り切って、船に戻りました。そのまま島を離れたのですが……」
老人は櫂を動かしながら、かつて自分が上陸した浜を見上げる。
空に向かって急角度に盛り上がった、丘か山か、壁とも取れる巨大な砂の傾斜。大量の足跡に飾られ、船上にいる自分達に黒い影を投げかけるそれを見つめると、老人はごくりと喉を鳴らした。
「……たとえ夜闇の中であっても、こんな地形の異常に気づかないはずはありません。白い男達を案内した時には、この辺は普通の浜だった。今まで通りの平地だったはずだ」
「足跡が消えずに残っているということは、誰かが人為的に砂を盛ったわけではなく、地面自体が下から隆起したということだ。これは自然の地形変動なのだ。……魔の島からの生還者が出たと聞いて来て見れば、とんでもないものに出くわしたな」
「し、しかし、たった数日で人知れず浜が盛り上がるなんて……そんなことがありうるのでしょうか?」
おそるおそる顔を上げる村長に、役人は「いや」と首を振る。黒革の衣から何かの資料を取り出しながら、「おそらくもっと急な変動だろう」と言葉を継いだ。
「実は魔の島は過去数度、その形状を大きく変えたことがあるのだ。百年か二百年に一度の出来事だが、いずれも一日、一晩、あるいは数時間のうちの、ごく短い間に起こる現象らしい。大地の鳴動も周囲の止め海への影響もなく、無音無波のまま地形だけを変えてしまう。砂浜の拡大や森の陥没、山の消滅といった出来事が記録されているのだ。今回もその一例だろう。全ての砂浜でなく、この南側の浜だけが隆起しているようだが……」
「そ、それでは、この異常は前例のあることなのですね。この老人の行為のせいではないのですね」
村長の老人を盾にするような言い方に、役人が羊皮紙の資料から鋭く目を上げた。再び船床に這いつくばる村長の向こうから、老人が低い声を立てる。
「止め海に影響を及ぼさない、魔の島の内部だけで完結した地形変動。まるで魔の島の『成長』ですね」
「『劣化』かもしれんぞ。魔の島の持つ不可思議な力、世界観を、誰かが損なったのかもしれん。英雄的な探索者が魔の島の『何か』に勝利するたびに地形が変化する……そんな風に好意的な解釈をした学者も過去にはいたらしい」
好意的。その言葉に老人が反応を返す間もなく、役人が資料を懐に戻し「浜に着けろ」と指示を出す。足跡まみれの砂丘を見上げる役人が、冷たい酒を欲するように大きく喉を鳴らした。
「この地形変動が上陸者の生還と関連しているかは分からん。だが、とにかく当面の問題を処理しようではないか。魔の島の『皆殺し』の機能が未だに生きているのか、それとも損なわれて、無くなってしまったのか。上陸者の生還が島の都合による一度きりの特例なのかどうか……今ここで確認しておかねばならない」
「あの……確認とは、どうやって……?」
口をはさむ村長に、役人が薄気味悪い笑みを返した。
ぞっと顔を青ざめさせる村長の服のすそを、役人が高価な革靴で踏みつけ、捕まえる。
船頭の老人は、己が長の悲鳴と命乞いをどこか遠くに聞き、迫る砂丘を見つめて櫂を動かし続けた。
記憶にある処刑人の姿に、どうか今ここで現れてくれるなと、願いながら。




