百八話 『放浪の魂』
万雷の拍手の音が聞こえる。
騒々しい楽器の音と、やけくそな口調で万歳を叫ぶ声が聞こえる。
貼り付けたような笑顔の民衆。物々しい武器を空に突き立てる親衛隊。
サビトガは出立の直前までまとわりついていた女官達の、きめ細やかな白い肌を引き離す。
彼女らはサビトガのふさがった傷跡を名残惜しげに指でなぞりながら、口々に「意気地なし」とささやいた。
王宮での鬱々とした日々は、それでもサビトガの傷を癒し、万全の体力を取り戻させた。はち切れんばかりの肉に覆われた足で城門をくぐると、拍手の音が一層大きくなる。
後宮の赤い屋根から、鬼姫の視線を感じた。狂乱の大衆の中に、忍ぶ者のおぼろげな影が見えた気がした。
笑顔で絶望する国民に対し、サビトガと深く関わった人々の気配はけっして非難じみたものを送ってこない。それがサビトガにはよけいに辛かった。
必死に抱えてきたはずの信念や道理というものが、もはや自分自身にすら理解できなくなっていた。ミテンに屈した自分が真に守りたかったものとは何だったのか。譲ってはならぬものとは何だったのか。
この判断は、正しいのか。自分以外の誰かを不当に傷つけていないか。
シブキが知れば、果たしてどんな顔をするか。
サビトガにはもう、何も分からなかった。
「ミテン国王陛下様! 恐れ多くもこの良き日に、献上いたしたい物がございます!」
サビトガと並んで城門に立つミテンに、彼に忠実な何者かが媚びた笑顔で寄って来る。
ミテンは片眉を上げて「何か」と問う。忠実な者は笑顔を深め、自分の従者達が掲げる俗悪な鎧を指し示した。
「西方より取り寄せました『オリハルコン(真鍮)』の鎧でございます! 黄金色を好まれるミテン様の処刑人なれば、この鎧にて魔の島に挑むが絵になるかと! 鎧にまとわせましたるこの羽マントも、特殊な染料で虹色に染め上げ『鳳凰』を表しており……」
「余計なことをするな!!」
一喝された者らが、即座にカエルのように平伏する。
ミテンは投げ出された真鍮鎧を睥睨しながら、サビトガに同意を求めるようにあごをしゃくってみせた。
「我が恐怖の象徴たる貴様にかような物を着せようとは。佞臣(主君に媚びへつらう家臣)はろくなことを考えん。百叩きにでも処してやるか」
「……」
「おっと、死刑の慎重化、だったな。面倒なことだ。……貴様の装いはハナから決まっておる。漆黒の怪鳥こそが処刑人の形よ」
ミテンが手を上げると、彼の衛士達が処刑人の衣装を運んで来る。
防具や、陶器の顎骨を装着されながら視線をくれるサビトガに、ミテンは鼻の頭をこすってにやりと笑った。
「王宮の宝物庫に一着だけ残っていた。史上最高の王室処刑人、ヒズマ伯爵の使ったものだそうだ。さすがにマントは痛んでいたゆえ、新しい羽を継がせたがな」
「頂くのがあなたでなければ、恐縮しているところだ」
「処刑槍とシドウの剣も返してやろう。歴代処刑人達の影もろとも、魔の島に消えるがいい、サビトガ」
言ってからミテンは、うくく、と、みょうに嬉しげに笑った。「とうとう貴様の名を覚えてやったぞ」と、暗黒の双眸が歪む。
「貴様の名を俺が知らなんだのは興味がなかったからではなく、貴様を恐れるあまりいつも陰から姿のみを覗いてきたからだ。死神の名など、知りたくもなかった。だが今は何臆することなく堂々と、従僕の名として口にし、記憶することができる。
俺は恐怖を克服したのだ」
サビトガは処刑槍を握り、衛士達が差し出してくる荷物袋や金入れを受け取りながら、最後にミテンの顔を真正面から見た。
相変わらず女官の接吻の痕跡を顔中に這わせた暗君は、サビトガの死神の貌に生き生きと笑顔を向けてくる。
……一瞬。ほんの一瞬だけ、ミテンに同情の言葉を吐きそうになった。
あるいはあなたの苦しみに気付いてやれず、すまなかったと、謝罪しそうになった。
だが、それがどれほどみっともなく、残酷であるかを、サビトガはすぐに思い直す。
結局サビトガは、ミテンにただ一言「さらばだ」と言い残した。
ミテンは大いに満足したようだった。
万雷の拍手。騒々しい楽器の音。万歳を叫ぶ声の群。
国から尊厳が失われる音。尊厳がはじけて、虚空に消え失せる音。
サビトガは一人で都を歩き、多くの守るべき人を残して、やがて祖国を去った。
監視役の『草』を引き連れて、孤独な死の旅へと出立した。
どうか、どうか皆に、幸あれと。
暗黒の時代に、名君シブキの光あれと。
胸の中に、鉛のような祈りを落としながら。
魔道へと、落ちて行った。




