百六話 『震える闇 前編』
甘かった。サビトガは目の前の漆黒を見つめながら、うるさく跳ねる己が心臓の音を聞いた。
どこまでも邪悪で救いがたい、暗愚のミテン。王の器など欠片も持ち合わせていない、時代の簒奪者。
だが、彼の王らしからぬ要素にこそ、サビトガは注意を払うべきだったのだ。忌まわしく軽蔑に値する、悪人としての才覚。権謀術数の手管。それを唾棄し侮ったのは確かに間違いだった。
正しい人々が正しく行動した結果。それをミテンが見逃し操っていたとは、思いたくなかった。
それこそが甘えだったのだ。
ミテンはもはや人外の域に達した形相から、ふっ、と鼻を鳴らす音を漏らす。女達の汗に濡れた指先が、食卓の掛け布に長いしわを刻んだ。
「長かった。貴様の行動理念を暴くのに、本当に長い時間をかけてしまった。王子達の処刑を拒み続けるのは、処刑人としての矜持を命をかけても守りたいからか。それとも先王の権威、ひいては過去の処刑行為の正当性から離れることで、己に殺人の罪悪がのしかかることを恐れたからか。
誇りか、恐怖か。貴様を律するものが何か、夜通し考え続けた。だが、まさか……最大の動機が単なる『義侠』と『人情』だったとは。舐めた話だ」
「何とでも言え」
「貴様に関わった全員を殺すぞ。肉を剥ぎ、骨を外し、男か女か、国士か国賊か、人間か人外かも分からぬほどに分解して衆目にさらす。忍ぶ者の無音の足を杖にし、鬼姫の役立たずの子宮を王冠に飾ってやる。
その後に適切な者を拷問しシブキの行き先を吐かせる。どの国に逃げ込んでいようと、大軍を派遣して庇護した者もろとも捕らえてやる」
無言で殺気を返すサビトガに、ミテンは笑みを保ったまま「だが」と両手を食卓から上げる。
すかさず女達が彼に駆け寄り、その手を寄せ上げた乳房で受け止めた。低俗なミテンが勝ち誇った声を続ける。
「今言ったことは、貴様の態度次第で全て撤回してやろう。王室処刑人の反乱に手を貸した者全員を不問に付し、亡命したシブキ王子を未来永劫追わぬと約束しよう。
当然口約束ではない。正式な公布として文書も残し、国内外に広く宣言しようではないか」
「……」
「貴様はその公布への返礼として朕に服従を誓い、魔の島へ旅立つのだ。この形を取ればもし朕が約束を反故にした時にも、貴様は騙されて服従を誓ったことになり、それが世界中に知れ渡る。
朕の器の大きさ、王としての偉大さが貴様を敬服させたという手前、朕はせっかく手にしたものを失うことになるであろうな」
即ちそれこそが、この契約の効果を保証するのだ。
得意げに言ったミテンから、サビトガは視線をゆっくりと外した。食卓を見つめる彼に、ミテンが不思議そうに「どうした」と首をひねる。
「公布の内容が不十分か? ではついでに後宮の女ども全員の命も保障してやろう。国庫の金でババアになるまで飼ってやるぞ。それとも、あのもうろく将軍も助けたいか? そういえばやつも死刑の慎重化がどうのとゴネていたな。いいだろう、それも検討しよう。
あるいは、すでに処刑した王子達の母親か。目ざわりだが望みならば生かしてやろう。シブキと朕の母は、すでに自決してしまったがな」
「おかしいな」
饒舌に語っていたミテンが、サビトガの言葉に眉根を寄せた。
サビトガは顔を上げ、ミテンを疑惑の目で見る。
「条件が良すぎる。先王の権威を継げるとしても、そこまで多大な譲歩を示す必要があなたにあるとは思えない。
たった一人の処刑人を屈服させるために、なぜそんなにも下手に出る? あなたが欲しいのは本当に国主としての正当性か?」
ミテンの顔色が変わった。余裕が消え去り、漆黒の眼球に明確な狼狽の気配が走る。
サビトガは目を細め、そういえばと、どこか遠くを見るような表情で言った。
「あなたと俺が初めて会ったのは、刑場で執り行われた公開式典の場だった。あなたは一人で、俺が罪人を突き殺すのを見ていた」




