百二話 『呪言』
架け橋を渡り切ると、サビトガ達はそのまま王宮の出口へと向かった。
追っ手の大半は未だ後宮内を捜索しているはずだ。王宮の庭に衛士の灯火はほとんどなく、雨のために正門のかがり火すら消えていた。
闇の中に守るべき二人を取り残さぬよう、しっかとその身を抱えていると、なぜかシブキが小さく笑った。眉根を寄せるサビトガに、若い声が「いや、何」と、照れ臭そうに言葉を続ける。
「大人の男にこんなにも強く触れられたことは初めてでな」
「ご容赦を」
「別に困惑しているわけではない。嬉しいのだ。もし私に真っ当な父親というものが居たならば、こんなふうに身を抱かれる日もあったかもしれぬ。それを思うと、何やら……望み得ぬものを手にした気になってな」
苺之妃が口元を覆う気配がした。サビトガが黙っていると、シブキは少しばかり声の調子を落として話を続ける。
「サビトガ。一度お前に訊いてみたいことがあった」
「何なりと」
「お前の本当の名だ」
弱まっていた雨が、にわかに勢いを取り戻した。羽毛のマントでシブキ達の頭を守りながら、サビトガはぐるぐると喉を鳴らす。
「私の本名……」
「サビトガというのは、処刑人に任命された時に王から与えられた名だろう。お前にはそれ以前に名乗っていた実名があったはずだ」
「……」
「どうした。教えたくないのか」
闇を渡り歩き、正門へと近づく。門の周囲に人影がないことを確認しながら、サビトガはつい引きつった声を出していた。
「下賎な名です。ほとんど蔑称のような言葉なのです」
「なぜそのような……」
「私が孤児で、親から名前をもらえなかったからです。私に最初の名前をつけたのは、孤児院の院長の情婦でした。足が長く、ゆえに背も高く、子供の目線からは巨人のように見える女で、胸がやたらに大きいせいで顔がほとんど見えませんでした」
サビトガは声に怨嗟と軽蔑がにじみ出ているのを自覚し、一度言葉を切って正門に接近した。
開けっ放しになっていた門は、いとも簡単に三人を王宮の外へと通す。門番すらも後宮の騒ぎを鎮めに持ち場を離れたのだろうか。サビトガは手近な兵舎の馬屋を目指しながら、再度口を開く。
「彼女は、恋人の院長が無関心と怠惰から放棄していた無名孤児達の名づけ作業を進んでやりたがりました。本人はきっと崇高な気持ちで、心優しい聖母にでもなったつもりでいたのでしょうが、残念ながら彼女には人の一生を左右する名前を真剣に考えるだけの、知能と節度がありませんでした」
「……」
「まるで飼い猫か飼い犬にするような名づけでした。我々孤児は体の特徴や、性格や、親に捨てられた時の境遇を揶揄されるような名前ばかりを押し付けられました。
顔に火傷跡のある子はそのまま『ヤケド』と呼ばれました。背の低い子は『マメ』です。大人が怖くてうつむいてばかりいる子は『オジギ』でした。
ドブに捨てられていた子は『ドブ』です。犬に食われかけていた子は『エサ』です。
単純に顔が動物に似ているからと『サル』や『ネズミ』の名をつけられた子もいました」
こんな話をしている場合ではない。分かってはいたが、呼び起こされた古い記憶に伴う感情の火は、今にも機能を停止しようとしているサビトガの肉を動かすには忌まわしくも助けになった。
シブキと苺之妃がどんな顔をしているか分からない。だがサビトガは、馬屋にたどりつくために話を続けた。
「孤児の名前は、人の名前ではありません。その多くは本人の心を傷つける呪いの言葉なのです。私も……大雪の降る日に屋外に捨てられ、そのために首の骨を痛め、長く治らなかったことを名づけに利用されました」
「……その名を私達に教えるのは、やはり、嫌か?」
シブキが底抜けに優しい声で訊く。
サビトガは恨みのままに饒舌に語った手前、はいとは言わなかった。
深く息を吸って、忌まわしい本名を舌に載せる。
シブキと苺之妃が、とっさに張り詰めていた緊張を解く気配がした。すぐに苺之妃が「確かにひどい名づけだけれど」と、サビトガの感情を探るような言葉を返してくる。
「その名前自体は、けっして悪い響きではないと思います。名づけた人の意図とは別に、あなたの人格を良い意味で表しているわ。錆咎より優しい言葉のように感じるし……」
「首がゆがんでいたというだけの話です」
「だが今は治っている。サビトガ、名前の意味や価値というものは、結局は呼ぶ側と名乗る側の意識に依るのだと思う。名づけに瑕疵があるなら、なおさらだ」
シブキが羽毛の下から、にっと真珠色の歯を覗かせて言った。
「お前の本名を聞けて良かった。もしそれを呼ぶ機会があるなら、その時は必ず敬愛の念だけを込めて口にするよ。お前が私の名に、新たな素晴らしい意味を与えてくれたようにな」
サビトガは、その言葉にどう返してよいか分からず、ただシブキ達の肩を強く抱きなおした。
表情を影に沈める処刑人を、王子と妃が笑う。後宮の騒ぎが、いつしかはるか後方に遠ざかっていた。
やがて、闇の中に兵舎の影が黒く浮かび上がる。
衛兵ではなく、早馬を飛ばす伝令兵が詰める建物には、一切の明かりがない。
サビトガ達は雨にぬかるんだ地面を踏みながら、兵舎の裏手にある馬屋へと、回り込んだ。




