八十九話 『魔窟』
天井から雨音が降りてくる。
遠い屋根ではじける水の音が、人声の絶えた部屋にゆるやかに浸透してくる。
サビトガは屍の群の中で荒い呼吸を繰り返しながら、引きつるようなうめきを一つ落とした。
全身をウダイにつけられた刀傷が這っている。切り傷であるにもかかわらず、まるで火傷のような熱を帯びた傷だった。
後宮の入り口で、しかも忍ぶ者以外の敵にこれほどの傷を負わされるとは思っていなかった。ミテンの親衛隊がことごとく恥知らずな下衆のみで構成されていたなら、無傷で全てを殺せたはずだ。
無傷で。サビトガはその言葉を思考に載せた瞬間、顔を歪めて大扉の方を振り返った。
衛士達の屍の向こうに、クイナの遺体が在る。胸にぽっかりと穴を空けた彼女が、雨音に向かって、まるで木蓮の花のような唇を半開きにさらしている。
彼女の死にざまを整えてやりたいと思った。硬い床ではなくどこか柔らかな場所に運んで、せめて血に濡れた顔を拭いてやりたいと心底願った。
だが脳裏に刻まれた彼女の記憶が、サビトガの理解するクイナの人格が、その行為を否定する。彼女が真に望むことは明々白々だった。
時間がないのだ。世界に満ちる雨音が、戦闘の音を掻き消してくれたとは限らない。
新手が来る前にこの場を離れねばならなかった。一刻も早く王子を救出せねばならなかった。
サビトガは骨鋸を一振りし、鯨骨の刃に詰まった人肉を払い飛ばすと、そのまま部屋の奥の回廊へと向かう。
全身を這う痛みも、感情も、全てを捨て置いて先へ進む。
それが死した人にできる唯一の手向けだった。
後宮の回廊の、檜の床。朱漆と金粉の色彩が舞う壁。
梅の林を中庭として取り込むその景観を、水晶の器に入れられた灯りが点々と浮き上がらせている。
サビトガは血塗れの靴を進めながら、暗がりの中に敵の姿を探した。後宮は本来王族以外の男子禁制、警備兵の詰め所も忍ぶ者の出入りもない場所だが、ミテンがその慣例を破壊したことはウダイ達の出現によって知れていた。
他の王子や妃達を監禁するため、武器を持った専門の兵を潜ませているはずだ。その役目は処刑業務のたびに後宮を離れねばならないウダイ達が担っているとは考えにくい。
後宮の奥に、さらに手練れか、大勢の敵が控えている。サビトガは見敵の瞬間に相手を殺せるよう、骨鋸をしっかと握って慎重に歩を進める。
華やかだが歴史を経た回廊は時折ぎしぎしとサビトガの体重に悲鳴を上げ、気配を消すことを不可能にする。灯りのない小部屋がいくつも並ぶ廊下。どこで誰が聞いているか分からなかった。
回廊は巨大で、二階建て三階建ての上級妃達の寝所へと枝分かれしている。
シブキ王子がいるのは、恐らくそんな寝所のいずれかだ。後宮の最上階で母親と共に監禁されているに違いない。
どの建物だ? サビトガは雨天に浮かぶ寝所の影を、素早く確認する。
「あれ」
一瞬。視線を空に向けた一瞬の隙に、左手から声が飛んで来た。
骨鋸を振りかぶると、声の主が再び「あれ」と鼻にかかった声を上げる。
小部屋の戸を開けて顔を覗かせていたのは、サビトガの知る下級妃だった。小鹿のような目を瞬かせる相手に、サビトガは思わず骨鋸を下ろし、小さく目礼する。
「花雛妃様、御無礼を」
「来てくれたのね、サビトガ。やっとやっと、来てくれたのね」
にっこりと笑う下級妃の後ろから、急激に気配の群が湧き上がった。
はっと身構えるサビトガの目の前で、金粉で飾られた戸がはじけ飛ぶ。サビトガの肩をかすめ、中庭に騒々しく落下する戸。目を見開くサビトガの身に、白く細い腕が何十本と伸ばされた。
「来てくれると思っていた。必ず、必ず、誘いに応えてくれると――このさびしい身を、抱きに来てくれると――」
部屋の薄闇の中に、下級妃達の火照った顔がおびただしく生首のように浮かび出る。まるで食を乞う飢民のような凄まじい力で衣や体を掴んでくる腕に、サビトガは驚愕の声を上げながら床を引きずられた。
「こ、これは……! 何をッ!」
「知らぬかえ、サビトガ。この後宮はもはや獣の巣ぞ」
「陛下が今生を去られ、国の制度すら崩壊した今、我々お手つきを得られなかった下級妃には一切の価値も認められぬ」
「ミテン様はねえ、私達『古い妃』には興味がないんですってよぅ」
「いずれ宦官との不義を理由に処分されるか、先王の黄泉の旅路の付き人として殉死を賜るか……。暴君ミテンの心が読めず日々恐々とする後宮の女の前に、よくものこのこと姿を現したな、処刑人殿!」
まずいと思った時には、他の小部屋の戸が次々と開き、衣を乱れさせた妃達が嬌声を上げて飛び出してきていた。
整った顔に凄まじい狂念の色を刻んだ女達が、殺到してくる。
その様は、彼女ら自身が言った通りの雌獣の有様だった。
後宮は、先王の時代以下の魔窟に堕ちていた。




