八十五話 『悪獣跋扈』
鋸は剣のように振るってはならない。無数の刃が細かく並んでいるぶん、芯の通った一本剣よりも脆く、乱暴に扱えばすぐに刃が欠ける。
それは頑丈な鯨の骨でできた骨鋸でも同じことだ。背骨の突起を研磨して尖らせた刃は、切れ味が悪いぶん肉に食い込んだ時の反動を受けやすい。
叩きつけるのではなく、標的の一寸脇を流すように振るう必要がある。刃先だけを通過させ、敵の表面を引き削ぐのだ。
サビトガは蛇のような剣を振り下ろしてくる目前の衛士をやり過ごしざま、その喉からこめかみにかけてを骨鋸で切り上げる。小枝の混ざった泥をかき分けるような不快な手ごたえが指に伝わり、砕けた軟骨が皮膚片とともに天井に上がった。
衛士が悲鳴ではなく、気管に血液が流れ込んだ時の独特の咳音を立てると、サビトガは彼の死を確信して次の敵に向かう。
次列の衛士が二人、同時に処刑槍を左右から投擲してきた。死神の彫刻が笛の原理で、ぴぃぃ、と鳴き声を上げる。
衛士達の槍は衣装と同じく、サビトガのそれをオリジナルとして模造されたものだろう。拷問室から処刑槍だけがなくなっていたことがそれを裏付けている。
処刑人の刃を打つ鍛冶師は、武将よりも頑固で誇り高い特級の職人だ。先王の聖骸を砕いたミテンのような暴君には絶対に下らない。
なればこそ衛士達の槍を打ったのは、二流三流の職人だ。何十人、何百人の血を吸っても折れぬ本物の処刑槍など、作れるわけがない。
槍としての性能と耐久性を保ったまま、笛の音を奏でさせられるものか。
サビトガは安っぽい音を立てて飛来する槍の一本を骨鋸の背で叩き折り、もう一本を首をひねってやり過ごした。背後で気管に入った血に溺れていた衛士が、無惨な音を立てて串刺しになる。
残り七人。サビトガは槍を失った衛士の一人に肉薄し、相手が次の武器を抜く前にその両目を骨鋸で引き裂いた。
絶叫を噴き上げる口に、骨鋸の柄頭を容赦なく叩き込む。歯が何本も舞い散り、顎骨が二段続けて砕ける音が響いた。
とどめに喉をかき切り、背後に迫っていたもう一人に後ろ蹴りを見舞う。こむら返りを起こした上にひざを痛めた方の足だったが、もはや痛覚など怒りのかなたに消え失せていた。肺の横隔膜を踵にえぐられた衛士が、呼吸困難を起こしてひざまずく。
その差し出された頭部を骨鋸の背で叩き割り、残り五人を数えた時。サビトガの耳に鎖の音が届いた。
とっさに掲げた骨鋸を分銅付きの鉄鎖が巻き取り、かっさらってゆく。
鎖分銅。当然に処刑人の得物ではないそれを手にした衛士が、ほぼ最後尾から「やったぞ!」と歓喜の声を上げた。
敵が、一気に三人、それぞれ異なる武器を手に突っ込んで来る。サビトガは素早く腰のベルトに差し込んだ大針『峨嵋刺』と、嘴状の拷問具『耳裂き』を抜き取り、部屋の西側へと移動する。
己を追う三人の敵の軌道を操り、最初に接触する一人を意図的に選んだ。それは最も長い武器を持つ敵、醜い餓鬼の装飾の施された長刀を振りかざす衛士だ。
奇声と共に放たれる刃を、サビトガはあえてギリギリの線で回避する。身を低くかがめたサビトガの髪とこめかみの皮膚を、長刀の刃先が乾いた音と共にはじき飛ばした。
にやりと唇をゆがめる衛士。だがサビトガは痛痒の気配を漏らさず、長刀の柄をたどって衛士の顔に手を伸ばす。
長く鋭い峨嵋刺が、衛士の鼻孔に深々と嫌な音を立てて突き立った。目を剥く衛士の顔面の奥深くを、サビトガは一気に突きえぐる。
鼻と口、そして耳の穴は、人体の中で最も脳に近い『生得的な裂傷』だ。本来肉で包み守るべき最重要器官に隣接する道が、ごく薄く脆い隔壁のみを残して開通している。
その隔壁を針で突き崩せばどうなるか。鼻孔の奥深くを破壊された頭部は脳に針を受け入れ、生命の根幹を成す機能を奪われる。
峨嵋刺は脳組織を存分にかき回し、血と脳漿の糸を引いて引き抜かれる。衛士は咳を二つ三つ落とすと、次の瞬間鼻孔から流れ出てきた脳肉に、人ならざる絶望の声を上げた。
サビトガは大きく背後に跳び、敵から距離を取る。後続の二人が剣と槍を手に追いすがってくるが、脳をかき回された衛士が狂乱状態でその背の一つに長刀を振り下ろした。
仲間に斬られた衛士が、血塗れになりながら怒声を上げる。その顔面を長刀の衛士が泣きながら両断した。事態に気付いた三人目が、サビトガを追うのをやめて長刀の衛士に斬りかかる。
仲間同士で争う衛士達が部屋中を転げ回り、血と脳漿と罵詈をまき散らした。
サビトガの骨鋸を奪った鎖分銅の衛士が、あわてて混乱を収めようと動く。だが彼が争いの場に到達する前に、物陰を伝って来たサビトガが彼の耳に鉄の嘴を突き入れた。
閉じたカラスの嘴のような拷問具は、その鋭い先端を衛士の耳の奥深くまで到達させる。サビトガは嘴の持ち手にある留め具のピンを抜き、嘴の奥深くで押さえつけられていた極太のバネを解き放つ。
耳裂き。その名が示す通りの残虐な結果が、衛士の耳孔内で炸裂する。およそ耳にまつわる器官と機能を半身分一気に喪失した衛士は、反吐の混じった泡を吹きながら声もなく倒伏した。
サビトガは、陶器の顎骨の奥で乱れた息を整えながら、一度は奪われた骨鋸を拾い上げる。背後では長刀の衛士が敗者の肉を切り刻みながら、脳肉をまき散らしてゆるやかに死体へと変わろうとしていた。
サビトガは深く息を吐き、目の前の倒伏した衛士の喉をかき切る。かき切ってから、殺した衛士の人数を数えた。
あと、一人。
サビトガは立ち上がり、部屋の奥で腕を組んでいる最後の敵へ視線を投げた。
「なるほど」
放たれた声は、この期に及んで不遜な余裕に満ちている。
「死道を極めた鬼畜とは、これほどのものか。まるで人間性を感じない……悪獣の争いぶりだ」




