七十八話 『カラスの羽』
五ヶ月前。記録的な大雨に大地がぬかるみと化したその時節を、パージ・グナ人は『冠政五十年六月』、あるいは『真王暦元年一月』と呼ぶ。
先王の亡骸と遺志を踏みにじったミテン王子が、己を奉戴する逆臣達と共に王宮と王座を簒奪し、国の頂点に君臨した、暗黒の時代の幕開け。
他の四人の王子達はことごとく捕らえられ、母親達ともども後宮に幽閉された。彼らを救い出そうと剣を抜いた反ミテンの将兵達は、元近衛兵長率いる親衛隊に虐殺され、その屍を地にさらした。
無法の時代。サビトガはそれを、狭い檻の中から傍観した。
聖殿占拠のあの日から、サビトガはずっと家畜以下の食餌を与えられ、鳥獣のように監禁されている。盗賊の血に濡れていた処刑人の衣装はすでに赤色を失い、どす黒く変色していた。
日に一度食餌を運んで来る牢番は、サビトガをその有様から『籠のカラス』と呼んだ。
王位簒奪者に刃向かったカラスは、以前の主への忠を捨てねば外に出してはもらえぬのだろう。
だがカラスは、己の在り方を歪めてまで自由になる気はなかった。羽を白く染め、ヒバリやウグイスのような器用な鳴き方をしてまで生き長らえたいとは思わない。
カン高い不吉な声で鳴き、黒い羽を守り抜き、いつか敵の目玉を突きえぐるのだ。訪れるかどうかも知れぬその機会を、死ぬまで待つつもりだった。
そんなサビトガの目の前で、世界は日に日に醜く変形し、悪化し続けた。ミテンによる聖殿占拠を境に、パージ・グナからはあらゆる法と正義が失われていたのだ。その不実がやがて、より明確な形となって芽吹いた。
いつしかミテンの悪徳が、その邪悪な思考が彼の親衛隊の衛士達に伝染し、野良犬同然の野蛮な兵が都を支配し始めた。悪官汚吏がはびこり、昼夜を通して悲鳴と怒号が途絶えることがなくなった。
ミテンを奉じたはずの先王の重臣達すらも、弾圧と粛清の煽りを食らって処刑され始めた。
気に召さぬ者、能力のない者に、生きる資格なし。
悪徳の王が統べる獣の世を呼んだのは、他の誰でもない彼ら自身だった。
サビトガは己の仕事場であった処刑場の隅に設置された鉄の箱檻の中から、恥辱と後悔にまみれて死ぬ逆臣達の顔を眺め続けた。
親衛隊の下っ端が振るうおそまつな処刑の剣に、もだえ苦しみながらサビトガを呼ぶ者もいた。数十回数百回と首や頭に刃を叩きつけられる彼らにとって、サビトガの無痛の剣がどれほど得がたく、そして必要であったことか。
処刑を逐一見物するミテン王子は、そんな有様を前にひたすら愉快に笑い、原形を留めぬほどに破壊された首をサビトガに見せつけた。
地獄の様。
世界に響く阿鼻叫喚の声は、人の世が破壊され、国が滅びゆく音だ。
そのおぞましい響きは、パージ・グナを愛する全ての人の耳を、深く痛烈に突き刺していた。
「止めることはできなかったのか。滅びを避ける道は、本当に一つも残されていなかったのか」
「過去形で語るな! まだ終わってはいない!」
雨の降る夜、粗末な饅頭を差し入れに来た将軍が、闇に沈んだ刑場に怒声を響かせた。
聖殿でサビトガに天下国家を語った将軍は、現状に後ろめたいものを感じながらも未だ気骨を折ってはいないらしい。ミテンを新王に奉じた一人として、国の未来を本気でより良き方向に定めようとしているのだ。
なればこそ彼の言動に不快を感じたミテンが、彼を処刑するのも時間の問題だった。
愛国心を持つ気骨の主は今のパージ・グナでは生きられない。どうあがいても絶滅に向かう人種なのだ。
「ミテン以外の王子は何人生き残っている?」
足も伸ばせぬほど狭い檻の中、座ることも倒れることもできないサビトガは、格子にひざや肩を預け、奇妙な姿勢で体を休めざるを得ない。血の流れが阻害されがちな各関節は膨れ上がり、もうひと月もすればどこかが腐れ落ちるだろう。
将軍はぼそぼそと饅頭をかじるサビトガを睨み、苦痛に満ちた声で「二人だ」と答えた。
「リンメイ王子とシブキ王子が、公開処刑の順番を待っている。ミテン様はギリギリまでお前の心変わりを待つつもりだ」
「俺がミテンの命令の下に誰か一人でも王子を処刑すれば、それを先王の権威がミテンに受け継がれた証とできる。逆に言えばミテンはその『儀式』なくして民を服従させるのは困難と踏んでいるわけだ。全国民を皆殺しにするわけにもいくまいしな」
「先王の臣の中で、おそらくお前だけが今のミテン様と渡り合える『手札』を持っているということだ」
「情けない限りだな」
明確に侮蔑の音が含まれた台詞に、将軍はぐっと唇を噛む。老いた喉が「頼む」と、やたらに時間をかけて言葉をつむぎ出した。
「お前の手札を貸してくれ。王族の処刑を条件つきで引き受けることで、より多くの命を救える。親衛隊や悪官の暴走をいさめ、さらに死刑の慎重化を行う旨を正式な公布として発してもらえれば……」
「つまりシブキ王子達を殺すから、臣民の命だけは助けてくれと頼むのか。それを俺がミテンにかけ合うのか」
「……そういうことだ」
「帰れ」
短く拒絶の言葉を吐くサビトガに、将軍は両手をぬかるみについて頭を下げようとした。防水布をかぶった老人の頭に、しかしサビトガは立て続けに「帰れ」と、厳しい声を降らせる。
「お前達が望み、お前達が招いた時代だ。獄中にある者に尻ぬぐいをさせるな」
「もっともだ! 至極もっともな言葉だ! しかし!」
「処刑行為は売り物じゃない。それは前に、聖殿でも言ったはずだ」
将軍が顔を上げ、細かな雨粒に額を叩かれながら歯を剥いた。
刑場に、老いた戦士の悲痛な声が響く。
「旧時代の正義と心中する気か! サビトガ!!」
「それが処刑人だ。老いぼれ」




