七十話 『雲を抜けて』
足下の地面はゆるやかな坂となり、雲海の下へと続いている。
サビトガは洞穴で採集したグミの実を口に放り込み、咀嚼音でもって耳の聞こえを自己診断した。
雲が存在するような場所は、本来空気の圧が平地とは異なる。実態は地下であるとは言え、高山病等の身体の異常を疑っておく必要があった。
耳が通っていることを確認しながら、腕を回して深く呼吸を繰り返す。心肺の調子を確かめるサビトガに、少女が不思議な顔をして「楽しいか?」と訊いてきた。
はしゃいでいるわけではないが、多少なりとも皆の不安がやわらぐならと生返事で「うん」と答えておいた。なんとはなしに少女がサビトガの真似を始め、それがレッジにも伝染する。
シュトロが迷いながらも腕を上げかけたところで、レッジがくしゅん! とくしゃみをした。肩を抱きながら「なんだか寒くない?」と訊く彼に、先頭のハングリンが雲に足を踏み入れながら応える。
「水気はある程度冷えなければ雲にはならない。雲海なればこそ、肌寒いのは当たり前さ」
「土の中はあったかいって学校では習ったけどなあ。大地の奥底には『星の心臓』って呼ばれる黒い火が燃えていて、だから深い坑道なんかは年中蒸し暑いんだって」
「そういう学説もあるな。だが大地だの星だのの単位で物を考えるより、この地下空間のみを一個の独立した環境として捉えた方がより理解はたやすくなるよ」
首をひねるレッジに、すでに腹まで雲に没したハングリンが声だけを向け続ける。
「閉ざされた広大な空間に、水と、空気と、光と、植物と動物がそろっているんだ。ならば当然にそれらは地上と同様に自然のサイクルを作り出す。空気の移動に雨雲の発生、食物連鎖の構築。地上世界と性質は違っても、ここにはそういった独自の森羅万象の法則があるんだ」
「つまる所、この場所は外界から隔離された世界で、地上とは別のルールで動いているということか……」
つぶやくように言ったサビトガは、雲をくぐりながら数度ぱちぱちと目をしばたかせた。
軍隊時代に何度か山岳地帯を行軍し、雲の中を歩いたことがあるが、今体に触れている雲は過去に経験したどの雲よりも水っぽかった。冷たく、鼻や喉が湿るのを感じる。不快ではないが、なんとなく長く吸っているのは危険な予感がした。
ほんの少しずつ、肺に水が溜まってゆくような。少しずつ溺れてゆくような、そんな感覚。
サビトガは白く濁った視界の中、陶器のあご骨を押さえながら慎重に雲をくぐり続ける。草に覆われた地面は比較的はっきりと視認できるが、人々の頭より上はほとんど霧中に等しかった。
なだらかな坂を、仲間達の姿を確認しながら降り続ける。
そうしてやがて視界を埋める白色が薄まってきた時、ふと、なつかしいものが顔に触れた。
風だ。無風の魔の島に踏み入ってから、実に数日ぶりに風に触れた。
地下空間だけを吹き抜ける、けっして地上には上がらぬ風。
思わずあご骨から指を離したサビトガの前に、風に押された雲が音もなく迫って来る。
次々と体を通り抜け、背後に、頭上に去ってゆく雲。
いつしか止めていた靴の先に、ややあって、再び光が当たった。
雲海にろ過された白い光が、ほどよい柔らかさを帯びてサビトガ達に降りそそいでくる。
雲を抜けた。下界に行き着いた。
サビトガは目の前に広がる景色に、再び靴を運び出しながら、息をついた。
「一個の独立した環境、か……」
眼下には、長く続く草の丘と、その先に広がる平原や、岩場が見えた。
草の緑、木々の色、花の色彩までがそこにある。
天上に厚い雲を掲げるその景観は、多くの人が想像する土に囲まれた地下空間のそれでは断じてない。
大地の下に広がる、第二の地表。
異質の光と自然に支配された――ハングリンがあざ笑った概念であるところの『異世界』。
そう呼ぶべき領域だった。




