六十七話 『ひずみ』
「何かが、おかしい」
低くつぶやくように言った老人の頭を、村長が見下ろした。
魔の島の南方、浅瀬の砂の道がつなぐ漁村の浜。
満天の星の下に座り込んだ老人は、黒い海原を睨みつけながらさらに声を続けた。
「魔の島で何かが起きている。俺達が恐れ敬い、畏怖してきた場所で、何か許しがたいことが行われている」
「あんたが導いた処刑人とやらのしわざか?」
「分からない。あの白い男達か、彼らの追っていた殺人鬼かもしれない。だが、とにかく誰かが、馬鹿なことをしたんだ。不死の水の伝説に挑む以外のことで、恐ろしく愚かなことをした。それがきっと、魔の島の王の怒りに触れたんだ」
老人の隣に立つ村長が、目をとがらせながら「魔の島の王」と繰り返した。波のない止め海から、何かが水の上に跳ね上がり、再び没する音が聞こえてくる。
「島にまつわるすべてを統べると言われる、異形の怪物『魔王』か。わしも子供の頃、親父に聞かされたことがあるが……しかし魔王の逸話は不死の水の伝説以上に不確かな、由来の知れぬ与太話だ。他の村人の前で軽々しく口にされては困るぞ」
「……昔は不死の水も魔王も、等しくうろんな魔の島の伝説だった。ただ不死の水の伝説の方が人々の関心をより強く集め、神格化されたに過ぎん」
「秘宝の伝説は人や金を呼び込む。だが魔王の伝説は戦火を招くのだ。邪悪なモノ、人類を脅かすモノ。分かりやすい災厄の権化の存在は他国がこの国に攻め入る口実を与える。
侵略国が人類平和を旗印に正義面で大挙して来るぞ。対魔王戦の拠点としてわしらの土地が奪われるようなことになってもいいのか」
「……」
「不死の水という究極の資源、世界で最も有名な夢想の源泉が周知されているからこそ、国々がそれを狙ってけん制し合い、戦火の発生を押しとどめている面もあるのだ。
魔王の伝説など、このまま埋もれたほうが良い。たとえ実在していても魔の島におもむいた者にしか出会えぬのなら、我々年寄りが口を閉ざせばそれで済む」
村長の言葉に、老人は砂の上に投げ出した自分の足を見つめながら、やがてゆるく首を振った。
老人の喉から、しわがれた声が落ちた。
「誰かが魔王の話を、島から持ち帰るかもしれない」
目を剥く村長に、老人は己のほほに爪を立てながら続けた。
「白い男達は、魔の島に案内した後も俺を解放してくれなかったんだ。俺を、島の奥へ連れて行こうとした……」
「まさか、あんた」
「上陸したんだ。この身、この足で」
老人は絶句する相手から顔を背け、再び「何かがおかしい、何かが起こっている」と、低く低くうめいた。
魔の島に足を踏み入れた者は、けっして生きては戻って来ない。
数百年の言い伝えに反して、老人はこの浜にいたのだ。
「なぜ帰って来れたんだ。白い男達の隙を見て逃げ出し、再び船を出して魔の島から離れられたのはなぜだ。おかしい、絶対におかしい――」
「……」
「俺が帰って来れたのなら……あの白い男達も……他の連中も、島から帰って来れるってことだ……」
村長が、突然踵を返して村の方ヘと歩き出した。
顔を上げる老人に、村長が人さし指を向けてだみ声で「許さん!」と怒鳴った。
「魔の島の伝説が、掟が揺らぐことなど断じて許されん! 魔の島に行ったヤツは絶対に帰って来てはならんのだ! 誰一人の例外もなく……! それが魔の島伝説の威力というものだ!」
「村長……」
「国の役人に相談する! なんとしても生還者を阻止しなければ……! あんたも今の話は絶対に口外するな! さもないと息子夫婦ともどもタダではおかんからな!!」
砂を蹴散らす村長に、老人は顔をゆがめ、再び黒い海原へと視線を投げた。
浅瀬の砂の道を、近い内に誰かが戻って来る予感がした。
老人は先ほどまでその誰かを、願わくば白い男達でなく、優しい目をした処刑人であってほしいと考えていたが……。
今は、とてもそうは、願えなかった。
夜が明け、朝が来る。
草のテントや燻製器をすっかり片したサビトガ達は、穴底のカバ林を抜け、再び亀裂のような横穴へと臨んでいた。
枝に挟んだ燈火用樺皮や、ランタンに火を灯して、全員が光を携える。
やがてハングリン・オールドが慎重な足取りで先陣を切ると、サビトガ達は魔の島の中枢、伝説の核心へと、踏み入り始めた。




