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棺の魔王 (コフィン・ディファイラー)  作者: 真島 文吉
棺の魔王0 -魔王の処刑人- (旧題 ヘッズマン・グレイブ)
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五十五話 『後方にて…… 前編』

 死骸しがいれている。


 魔の島の外周、鬱蒼うっそうとしたブナ森に差し込む細い光の柱の中に、縊死いししたねずみの死骸がぶらぶらとれている。


 ねずみの首にはブナの木の皮で作られたひもがかかっていて、その足下には乾ききった肉団子が一つ、積もった木の葉に混じって転がっていた。


 放置された首()り罠の餌食えじきとなった野ねずみは、他にも離れた位置に四匹ほどが垂れ下がっている。遠目には何かの果実のようにも見える死肉のかたまりが、うごめく大地のかすかな震動にシルエットをらし、その内に残った水分を地面へと落とす。


 ぽたり、ぽたり。積もった葉に降りそそぐ水を、ふと一つの靴先くつさきが受け止めた。


 血にれた、男物の革靴かわぐつ。その表面にねるねずみの小便が、やはり血みどろのズボンに染みを作った。


「ありがたい……どこの誰か知らんが、恩に着るぜ」


 靴とズボンの主はそうつぶやくと、まさに木の実をもぎ取るようにねずみを首吊りひもから引きちぎった。


 ねずみの首骨が砕け、耳がひもに取り残される。小さな食料をにぎりしめた男はさらに視界にれる他のねずみにも手を伸ばし、ぶちりぶちりと無造作に肉を収穫してゆく。


 男はやがて全てのねずみを腕にかかえると、大きくとぐろを巻いた木にもたれ、毛皮もいでいない死肉にかぶりついた。


 どす黒い血が男の胸元にしたたり、ちぎれた内臓が手からこぼれる。歯が筋肉を裂くたびに、死んだねずみの足がぱたぱたとね回った。


 男はやがてめぼしい肉を食い尽くすと、骨と皮だけになったねずみを捨てて二匹目に歯を立てる。再び食われゆくねずみの足が踊り、小さな口から未消化の食餌しょくじがこぼれ出た。


 野の獣同然にねずみを食らう男が、ややあってぶっ、と何かを吹き出した。歯にはさまったねずみの毛、小さな骨のかけらを吐き落としながら、男はさらに引きつるような笑い声をそれらに重ねる。


「……なんてこたあない……あのガキと、同じじゃないか……ケダモノの臓腑ぞうふを火も起こさずにむさぼり食ってる……。生きるか死ぬかの身になりゃあ、人間なんてみんな同じだ……品性も文明度もあったもんじゃない……」


 ひっ、ひっ、と息をめる男が、苦しげに笑いながらぼとぼとと手中のねずみ達を取り落とした。がつんと身を預けていたみきを殴ると、形の良いくちびるを裂けんばかりに広げ、大声で叫ぶ。


「――何が魔物だ! 何が人に化けたモンスターだ! ちっぽけなガキを目のかたきにして、大騒ぎして追い回したあげくがこのザマだ! アルベルめ! テレスめ! ミュティめ! レッジめッ!! 野盗なんざに簡単にられやがって!!

 …………お……俺を、一人にしやがって……ッ!!」


 男は体をくの字に折り、せっかく胃に入れた肉を吐き出しながらうめいた。


 三日前、夜の森で野盗達に襲われた時、彼は彼の仲間達同様一方的に叩き伏せられ、敗者として地に転がった。


 背中のど真ん中を切り裂かれ、武器を取り落とし、木の葉の積もった坂を丸太のように転げ落ちた。すぐにとどめを刺されると思ったが――野盗達は一太刀ひとたちびせた彼をすでに仕留しとめたと考えたのか、愚かにも声を張り上げて逃げ回っていた最後の獲物、レッジを追うことを優先したようだった。


 敵の足音が遠ざかって行くのを感じた瞬間、すさまじい生存欲求に全ての思考が吹き飛んだ。背中の傷が致命傷でなかったのを良いことに、レッジの声がやむまで必死に闇の中を逃げ続け、見つけた木のうろ(・・)に飛び込み……あとはじっと息を殺して、敵の気配が消えるのを待った。


 それから、彼はずっと一人で、人気のない森の中をさまよっているのだ。


 ブナのみきにしがみつき、化膿かのうしかけた背中の傷に落ち葉を受けながら、男はしばらくじっと絶望に心をひたした。


 視界のはしにはねずみの耳の残った首吊りひもがゆらゆらとれ、男に残された唯一ゆいいつ安楽な行き先を示唆しさしている。


 仲間も、まともな食料も、武器すらもなくしてしまった。これ以上この深く暗い森をさまよっていても希望を見出みいだせるとは思えなかった。


 背中に張りついたじくじくとした痛みに付き合い続けるのも、もはや限界だった。今すぐに楽になりたい。男は首をるためのひもを探し、顔を上げて周囲に目をやった。ブナのみきから離れ、ねずみをみ潰して数歩前に進んだ。


 ……数歩。たった数歩だ。死を決意した場所からたった数歩の位置で、男の目に急に『それ』が飛び込んできた。


 木々の枝葉がたまたま途切れ、詰まった森の景色のほんの一点だけが遠く先へと続いている。その針の穴のような一点に、男は動くものを見つけたのだ。あまりのことに一瞬目を疑ったが、それは確かに毛髪の生えた、人間の頭部だった。


 遠く、だが走ればすぐにたどり着けるような距離に人間がいる。思わず大声を上げそうになったが、男はすぐに自分を襲った野盗達のことを思い出して口をつぐんだ。


 視界の奥を行く人影は、よくよく見れば一つではない。黒、金、赤、様々な色の頭髪が列をなし、さらに鉄のかぶとや布帽子がそれに混じってれ動く。


 人の隊列……死に際して見つけたそれは果たして神の助けか、悪魔の悪戯いたずらか。


 ひざを震わせる男の耳に、興奮ゆえか、野盗達に殺された仲間達の幻聴の声が響いた。追ってみろと、希望を捨てるなと、最期さいごまであがけと、今更な激励が意識の奥から飛んでくる。


あきらめちゃだめだ。行くんだ、ケネル――』


 急げ。


 あの日、闇の中に置き去りにしたレッジの声が、頭の奥にずきりと痛みをともなって突き刺さった。


 男、ケネルは、ねずみの血に濡れたくちびるをじっとりと舌でめ上げると――――くつを脱ぎ、足音を殺しながら、景色の果てへと歩み出した。

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