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#05 戦慄の巫覡デビュー(1年1か月ぶり五度目)

 





 キリスト紀元(西暦)1571年9月23日






 将校ミーティングルームの一角。


 ずずずず。


 天彦は何食わぬ涼しい顔でカップに注がれた人肌の飲料を啜っている。無作法だとは気付かずに。


 この小さな身体には、120%懐疑的な視線を無遠慮に浴びせる自称菊亭一の御家来さんと、信頼度は120%だが現象としての不安感を拭えないこれまた自称菊亭一の御家来さん二名と、そしてまったく状況が読み込めていないものの全力マンキンの無垢な信頼を預ける二人の従者の命運が一手に託されている。


 のだが。


 肝心要のアイモーネ=マリピエロは、天彦に揺さぶられた感情をおそらく鎮めるためなのだろう。すでに離席してしまっている。それも中座するとも御前を辞するとも何とも告げずに。


 それの意味するところは解釈の余地なく怒りであろう。

 となるとこの状況、控えめに言ってオニ寒い。そして低く見積もっても好感度は稼げていなそう。

 なのに他称五山の御狐様の化身は、余裕の態度をまったく譲らず、努めて涼しい顔に終始して呑気にカップに注がれた飲料を啜っている。


 猶、カップの中身だが紅茶と思われた飲料は白湯だった。

 籠城中の物資不足に加え、そもそもこの時代のヴェネツィアに紅茶は広まっておらず、期待外れ。

 だが天彦は実にそれっぽく、ただの水を煮沸消毒した湯を香り引き立つ紅茶風に見立てて嗜んでいた。


 周囲から、“あいつはいったい何を美味そうに飲んでいるんだ”と好奇の視線を向けられるほどに。


「若とのさん、ご自分だけずるいです!」

「ふふふ、さよか。ほな分けて進ぜよ」

「はい! ずずず、……ぺっぺっ。騙すなんてひどいです!」

「それはお雪ちゃんの選択や。身共が選ばせたわけやない」

「むむむ、それでもひどいです! もう若とのさんのアホ、おたんこなすび!」


 雪之丞の暇に明かしたただの悪口は聞き流すとして。


 けれど天彦は案外答えを言っていた。

 そう。

 選択肢は与えた。あとは彼がそれを選ぶだけであることを、暗に告げているのだった。

 むろん彼とは天彦たち菊亭一行の命運を握る、アイモーネ=マリピエロその人である。


「……殿、もしや」

「ほう、是知が一番はじめに感づいたか」

「はっ。もしや、ろくでもない選択肢の中から最もましなものを選ばせる、殿お得意のいつもの技前待ちでありましょうや」

「言いかた! お前さん、さては尊敬しているテイで実はディスってるんではないさんやろな」

「“でぃす”とやらが何かは存じませぬ。ですがけっしてそのようなことは」

「ダウト。お前さんはわかってる。まあええわ。……そうや」



 そうなんかーい――!



 雪之丞、クルル、メガテンの声にならない静かな心のツッコミが入ったところで、天彦はこっそり仕込んだ特効薬の効能を明かし始めた。


「ええか、これはな――」


 天彦はお得意の実にいい(悪い)貌で得意げに語る。


 ともするとそれは麻薬めいていて、聴く者によれば魔法の言葉にも聞こえただろう。

 そしてアイモーネ=マリピエロにはなんと聞こえるのだろうか。彼ならば何と応接するのだろうか。

 天彦の仕込んだ猛毒は、名門であればあるほど、あるいは本家に連なる系譜の芯であればあるほど効果は絶大。

 特に過去の失態の呪縛に囚われているのなら、すべてを投げ打ってでも手に入れたい、けっして聞き捨てることのできない魅惑の特効薬となり得る魔法の言葉であった。


 それを語るには少しヴェネツィア共和国ドージェ(共和国元首)の話を語らねばなるまい。

 遡ること100年前。65代ドージェ(共和国元首)にフランチェスコ=フォスカリという人物がいた。


 彼は偉大な指導者だった。

 フォスカリが長くヴェネツィアを率いた当時、イタリア全土征服を狙うミラノ公国(ヴィスコンティ家)との戦いもまた長引いた。フォスカリは注目に値する戦勝を次々と挙げながらも、戦争でヴェネツィアは多くの犠牲を払った。

 フィレンツェとの同盟後、連合軍はフランチェスコ・スフォルツァ指揮のミラノ軍に打ち勝った。スフォルツァはただちにフィレンツェと停戦したが、ヴェネツィアは相手にされなかった。


 が、1445年フォスカリの息子ヤコポは、贈収賄と汚職のかどで十人委員会に告発され、ヴェネツィアを追われた。1450年と1456年に他の2つの審理が行われヤコポはクレタ島に流刑にされ、そこで死を迎えた。

 息子の死の知らせはフォスカリを自身の務める政府の要職から身を引かせる事態を引き起こした。

 1457年10月、十人委員会により彼は辞職させられることとなる。


 フォスカリはこの措置に抵抗したものの、十人委員会に逆らうことはできなかった。

 同年10月31日、新たな元首パスクワル・マリピエロが選出された。

 彼こそがアイモーネ=マリピエロの先祖である。


 そしてその翌日、11月1日にフォスカリは悲嘆にくれたままこの世を去った。

 しかし問題はここから。

 この出来事により、共和国市民の猛抗議が巻き起こったのだ。結果市民運動は議会を動かすまでとなり、フォスカリの死は国葬の扱いをもって弔われることとなるのだった。


 となると責任の所在、即ち英雄フォスカリの追い落としに焦点があたる。


 政治闘争、権力闘争は息を吸うのと同じくらい行われていた当時の評議会、あるいは元老院だ。果たしてフォスカリの失脚はいったい誰が工作したのか。そんなことは問わずとも市民の目にも明らかだった。

 いったい誰が最も得をしたのか。答えは地位と権力が語ってくれるのだから。


 それが事実であることなど問題視されていない。いやむしろ事実でない方が好都合とか。そんな流れでシナリオは進行していった。貴族側は人身御供を、市民は荒れ狂う感情を処理するために。


 こうして話は落ちるところで纏まった。ディール。66代ドージェ(共和国元首)こそが首謀者であると。

 これ以降、マリピエロ家の名はヴェネツィア共和国史の表舞台に挙がることはなかった。そういうこと。


 こうしてアイモーネ=マリピエロは、先祖の負った不名誉な汚名という名の宿業を背負って生まれ落ち、今日までずっと、家名にこびり付いた汚名を濯ぐためだけにその儚い生を全うしていたのだ。


 顔で笑って心で泣いて。


 馬鹿らしいが笑えない。


 それがアイモーネ=マリピエロが城塞を枕に討ち死にしなければならない理由のすべて。

 それがまるで冴えてもいなければ、まるで無意味な最悪の理由。


 アイモーネ=マリピエロに敗走の二文字は許されなかった。先祖の推定悪行を許されるためだけに。


 だが少なくとも似たような宿命を背負って生まれた天彦や、天彦に臣従する彼ら諸太夫たちにとっては、けっして他人事とは思えぬ、切実にして深い同情に値する身につまされるには十分すぎる事情だった。


「ありがちな話なん」

「っ――」

「くっ――」

「ひどいです!」

「腹立つわぁ」

「伴天連にも、若とのさんみたいなヤなやつ居りますんや」



 おいコラ、誰がヤなやつねん!



 そしてこういった場合たいてい裏にはフィクサーがいて、絵を描いた寝業師は何食わぬ顔で知らぬ存ぜぬを嘯いて、ぬくぬくといいワインを飲んでいるとしたもの。

 それは彼ら菊亭諸太夫たちも百も承知。何しろそのフィクサーの代表格を主君と仰いでいるのだから。


 そして彼らの殿様は、こんな局面にこそ最大の頼り甲斐を発揮した。

 普段は死んだようにやる気を見せないくせに、俄然息を吹き返して爛々と、二つの瞳を輝かせる。


「殿、何卒ご厚情を賜りますよう、伏して言上仕りまする……!」

「……殿! 一宿一飯の恩義がございますれば、この石田佐吉に、マリピエロ殿に注がれた恥辱、何卒濯ぐ機会を下さりませぬか」

「お殿様、アイモーネがかわいそうすぎ」

「ずず、びえん、お゛どの゛ざま゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛」


 ここまでは織り込み済み。むしろ感化されてくれないようでは家来失格まであると思っていた。だが。

 一番の正義感侍がまるでリアクションを起こさない。起こしてくれない。

 まるでらしくなく、思案顔を浮かべてうんうんと何かに頭を悩ませていた。


 天彦が注視していると、


「なんですのん」

「何ですのんて、お前さん。なんぞ考え事をしてたんと違うのんか」

「ああ、べつに何も」

「は?」

「与六に口を酸っぱく申し遣っておりまして。皆が同じ方向を向いたときこそ、朱雀殿はそっぽを向けと。あとラウラから言付かってます。二択で悩まれたときこそ、この朱雀雪之丞の意見を採用すべし。と」


 舐めすぎ。


 だが確かに与六とラウラの呼吸を感じた。

 9500キロの距離をまったく感じさせない天晴れな仕込みに、さすがの立腹彦でもつい笑み零れてしまう。


 そして扇子をとんとん、特徴的な拍子でリズムを刻むと、


「どないさんや、マリピエロ卿」

「……」


 噂をすれば影。


 パーティション越しに影が揺らめく。


「勘違いせんといてほしいんやが、善意は人のためならず。この菊亭、誰かのために何かをしたなど、ただの一度もないさんやで」

「……詳しく、訊かせていただけるか」


 アイモーネ=マリピエロが覚悟を決めた表情をして姿を見せた。


「どこから訊いてた」

「初めから」

「ふっ、ならば話は早い。アイモーネ=マリピエロ。お前さんが身共らをこのキプロスから退避させ、無事ヴェネツィア本国に着いた暁には其方の憂い、奇麗さっぱり払拭して進ぜよう」

「私がこのキプロスから退避すれば、本国の民からいったいどのような言葉を浴びせられるか、マーキスはすべてご承知で申されておられるのですね」

「あたぼー」

「私もあなた方も、命はございませぬよ」

「ふっ笑止。命が惜しい者などこの場には居らぬ。違ったか」

「……はい」


 アイモーネは数舜考えこんだ表情をしたのち、どこか迷いを捨てたような顔で言った。


「我が宮殿でよろしければ、上質なワインでお出迎えいたしましょう」


 天彦はにやり。

 その挑戦を受けて立つと言わんばかりに、ことさら権高く振舞って、


「この齢10つで日ノ本を震撼せしめ、あの第六天魔王にさえ畏怖させた権大納言菊亭天彦が、運命なんて万能ワードで片付けさせてたまるもんか」


 100請け負ったと言い放った。















【文中補足】

 1、飲料事情

 生水はアウト! 絶対に飲めません。代わりに庶民はブドウ酒やエール、あるいはビールといったアルコール飲料(を薄めたもの)で水分を補給しました。大人も子供も分別なく飲んでいたそうです。(アルコール度数は低かった模様3~9%←コレ低いの?)

 葡萄酒やビールは毎日の食事に簡単にすぐ利用できる補助カロリー源を提供し、食事が貧しく単調であればあるほど重要性を増していた。

 猶、17世紀に入りブドウ酒やビールに肩を並べる飲料が登場するのですが、それは本編のネタバレになるので控えます。(蒸留酒・コーヒー・紅茶・ココア)


 2、巫覡

 神に仕える人。 神楽(かぐら)を奏し、祝詞(のりと)をあげて神意をうかがい、それを人々に伝える神と人間とのなかだちをする人。 神官、巫女(みこ)いずれにもいう。












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