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「の」シリーズ

私の可愛い君におやすみ

作者: 律子

 今日はハッピーホワイトデーなので、ご要望いただいていたフィリーアローゼとギルベルトのその後について書いてみました。ご想像と違ったらごめんなさい。力の限り甘さ増し増しです。楽しんでいただければ幸いです。


※「君の席は私の隣」 https://book1.adouzi.eu.org/n2811hm/の後日(?)談です。

 前作、読んでもらった方が楽しんでいただけると思います

 公爵邸に帰るとギル兄様と私の婚約が成立していた。

ギルベルト王弟殿下とフィリーアローゼ・リシュルト公爵令嬢の婚約が()()()()いた。2回言った理由?そんなの、言わずもがな(大事なことだから)だ。


 数時間前、お城の庭で今にもキスでもしそうな距離で見つめあっている私とギル兄様を発見し、お母様は淑女にあるまじき悲鳴をあげて卒倒した。王太子の婚約者を決めるためのお茶会の最中に、お茶会に参加しているはずの娘が別の男と寄り添っていたのだから無理もない。そのお母様を王城の一室を借りて介抱し、予定よりも帰宅が遅くなったのは致し方ない事だと思う。私にも責任の一端は――たとえそれが小指の先ほどのひとかけらだとしても――あるだろうから申し訳なさも感じていた。

 けれど、日付が変わっている訳では無い。日暮れ前に帰るはずが日暮れ後になってしまったというだけの話だ。いくらなんでもこの数時間で婚約が成立しているなどとは思いもしなかった。たしかに「よろこんで」と答えたのは私なのだけれども、ちょっと危険を感じる。再会して数時間のスピード婚約なんて、婚約破棄のフラグじゃないのだろうかという意味で。婚約の時期や条件なんかは相談してほしかったなぁというのが本音だ。


 ソファーの上で灰のように真っ白に燃え尽きているお父様と数時間前と比べたら色気が増す程度にお疲れ気味のギル兄様の様子から冗談で無いことは理解できた。何日もかけてすり合わせるはずの婚約の条件を数時間で整えたというのがおかしな話なのだが、この二人が成立したと言ったら成立したのだろう。この方々の有能ぶりは時々発揮される場所を間違えていると思う。


「フィリー、私の可愛い女の子(レディ)が私の可愛い婚約者(ハニー)になった。こんなに喜ばしい事はないよ。」


 ソファーの上で両手を広げているギル兄様は私が駆け寄ると信じて疑わない。曇りの無い笑みを浮かべる彼を放っておくことができずに、私はのこのこと近づき隣に座った。

 私たちの間に距離は無い。座る瞬間に引き寄せられて、ゼロ距離。お茶会でも着ていたふんわり広がるスカートのままなので、見ようによっては私がギル兄様の膝の上に座っているように見えるくらい近い。そっと――でも有無を言わさぬ力加減で――肩を引き寄せられるから、私はギル兄様の胸に手を当てて体を支えなくてはならない。見ようによっては私がしな垂れかかっているように見えなくもない。まともなご令嬢なら「はしたない」とか「破廉恥な」と怒り出してもおかしくない状況。でも、私はまともじゃない(恋している)のでドキドキフワフワ夢見心地だ。あのギル兄様が私の隣にいるなんて嬉しすぎる。あまりに近くて真っすぐ顔を上げられない。自然と上目遣いに、彼を見上げることになる。そして、覗き込むように私を見下ろす視線の糖度の高さに頬はほんのりと熱をもつ。

 「奥様っ」と控えめな悲鳴が聞こえたのでそちらを見ると、お母様が爺や――執事のセドリック――に支えられていた。状況についてこられずに、もう一度意識を失ったらしい。お母様はまともな御嬢様がまともな貴婦人にジョブチェンジされた身だから、砂糖菓子の花が咲いたようなこの状況に耐えられなくて当然だろう。すぐに気付いた爺やのおかげでケガなどは無さそうだ。

 お父様の指示で使用人たちがお母様を運び出している。今日はゆっくりと休んでもらった方がいい。優秀な使用人たちに「よろしくね」と声をかけると、お母様の侍女のテレジアはほんの一瞬驚いたような顔をしてから「承知しました」と返事をした。

 お母様たちが部屋の出るのを見送ってから私はギル兄様に向き直る。


「ギル兄様、ほんとうに、もう婚約が成立したのですか?私、どこにもサインなどしていませんが。」

「婚約に君のサインはいらないからね。結婚は個人が交わす契約だけれども婚約は家同士の契約扱いだからね。両家の当主がいれば成るのだよ。」

「そうなのですね。契約関係は疎くて……勉強になりましたわ。」

「あぁ、フィリーは可愛いね。」


 今の会話のどこがギル兄様の琴線に触れたのか理解できないが、ギル兄様に「可愛い」と言われるのは嬉しい。大きな手がつるりと私の頬を撫でるから、その上から手を重ねててペタリと頬に押し付ける。ゆっくりと眠るように瞼を閉じてギル兄様の暖かい手を堪能してから目を開ける。

 空色の瞳がじっとこちらを見ていた。先ほど城の庭で見つけたのと同じ種類の熱を彼の瞳に見つけて、口角が上がるのを抑えられない。きっと今、私はとても意地の悪い笑顔をうかべているだろう。それを見られたくなくて、恥じらうように目を伏せる。けれどもうつむくことは許されなかった。ギル兄様は正面から見つめあえるように私の頤を指先で持ち上げ、ゆっくりと顔を近づけてくる。軽く伏せた視線とわずかに開いた唇がその精悍な顔に色気を添える。その艶やかさにうっかり目を閉じてしまいそうな自分を奮い立たせて、そっと彼の唇に人差し指を置く。


「わたくし、人に見られながらのファーストキスは遠慮いたしますわ。」


 パチリと瞬きをしたギル兄様がハッと後ろを振り返ると、ソファーの肘置きに右ひじをついて、その上の手に顔を預けた、だらしない恰好のお父様がニヤニヤと揶揄うような笑みを浮かべている。


「……リシュルト公爵、まだいらっしゃったのですか。」


「えぇ、もちろんですギルベルト王弟殿下。3時間ほど前に急に我が家に訪問してくだっさった貴方は()()尋ねて来られたのですから、()()お客様がお帰りになるまでは、十分におもてなしさせていただく所存です。」


「……そうですか。」


 ギル兄様が敬語を使う相手はこの国には数人しかいない。リシュルト公爵であるお父様はその数人のうちの一人だ。この国の筆頭公爵であり年上のお父様に敬意を払って……というよりは年の離れた従兄(叔父のようないとこ)であり、下位ながら王位継承権をもっており、国の要職につくお父様と適度な距離を保っていると見せる為に、他人行儀に接しているのだろう。一方の父は、年の離れた従弟(甥みたいないとこ)を可愛がっており、他者がいないところでは気安く話す。今はギル兄様の護衛や従者が部屋の隅で控えているので、気楽な口調になりすぎない程度に気を付けている……といったところだろうか。いや、わざとらしい敬語は、嫌味や皮肉の意味も多少はあるかもしれない。


「お父様、3時間も前に王弟殿下がいらっしゃったのであればご一報くだされば何をおいても帰宅いたしましたのに……。」

「そうだね。()()可愛いフィリーアローゼ。でもね、殿下は本当にお急ぎだったようでね、セドに伝言を託す時間さえ下さらなかったのだよ。」

「まぁ、そんなにお急ぎでしたの?」

「あぁ、大事に育てた花を横からかすめ取られるのではと、気が気でなかったみたいだ。」


 お父様の言葉にギル兄様は明後日の方向に顔を向けてポリポリと指先で頬を掻いている。照れている様子が可愛くて私はフフっと笑ってしまった。私を抱き寄せる腕に少し力が込められる。


「ねぇ、お二人さん。ちょっとくっつきすぎじゃない?」


 唐突にお父様が今更なことを言い出す。最初からずっとこの距離感だったけれど、指摘されると少しだけ恥ずかしくなる。居た堪れなくて身じろぎするが、ギル兄様の腕はがっちりと私の腰を抱えている。その腕は重くも痛くもないが、離れることも許さない。


「婚約者としての当然の距離です。」


 しれっとしたギル兄様の答えにお父様はジトリとした目で彼を睨む。


「フィリーアローゼが嫌がっていないなら良いですけどね。もし嫌がるようなことした日には分かってますね?」


 お父様は満面の笑みを張り付けて小首をかしげるている。中年といわれる年になったのに、そんな仕草が様になるのはさすがお父様としか言いようが無い。社交界で「微笑の貴公子」とか「永遠の天使」とかちょっと恥ずかしい二つ名をつけられてしまっているのも仕方ないのかもしれない。それでも、一瞬柔和に見える笑顔の奥にある物騒な迫力とか、含みをもって醸し出される威圧感に、守られているはずの私でさえ背筋がゾクゾクと震えてしまう。


「フィリーが嫌がる事なんて、私がする訳ないでしょう?」


 ギル兄様は笑顔で応戦している。この辺り、実の兄よりギル兄様のほうがお父様に似ている。笑顔の2人の間に見えないはずの火花が見える。これは好きなだけバチバチやらせておくに限るやつだ。「火花が散る様は、案外綺麗なものですわね。」「やけどにお気をつけあそばせ。」「収まるまで放っておいた方が実害はありませんわ。」と頭の中で一人三役お茶会を開いて現実逃避気味にやり過ごす。


「それなら、安心だ。」


 火花を先に収めたのはお父様だった。お父様は爺やを呼ぶと紅茶を入れなおすように指示した。


「安心したのなら、少し2人にしていただけませんか?」


 紅茶が3つ用意されたのをみて、ギル兄様が慌ててお父様に問う。確かに、ここは「じゃあ、あとは若い二人で」となるところかなと私も思っていた。


「それは無理でしょ。まだ死にたくないもの。」


 お父様が大げさな言葉選びをする。爺やの淹れた香り高い紅茶にゆっくりと口をつけてからほぅっとため息をついた。


「ロゼリンダが納得するまで、二人っきりになんかさせられませんよ。」


 お父様はかわいそうにとでも言うような顔でギル兄様を見つめた。ロゼリンダというのはお母様の名前だ。あぁ、と思わず納得する。納得している自分が嫌だが納得せざるを得ない。王に婚約の許しを貰うより、マーロ教皇に結婚式を執り行ってもらうより、お母様に私とギル兄様のお付き合いを認めさせることの方が難しいように感じるのはどうしてだろう。そのくらい彼女の「娘を王妃に」という意思は強い。なんだかんだ言ってお母様を大切にしているお父様が私の婚約成立を強行した今、これ以上お母様の気持ちを蔑ろにすることは誰にも許さないだろう。


「だいたいね。王弟なのになんでロゼリンダに認められていないの?王太子じゃなくても王弟なら喜ぶかなぁと思っちゃったから婚約の手続きを進めたのに、ロゼリンダが倒れるくらい反対しているなんて、ビックリですよ。きっと殿下の普段の行いのせいだからね。ちゃっちゃと認められるように努力しなさいよ。ロゼリンダが反対しているうちは2人っきりで会わせたりしないし、ましてや結婚に踏み切ったりしないから。」

「まさか、だから結婚の時期を明記しなかったんですね!?」

「結婚は『双方の合意が取れた時。』ですよ。分かっていると思いますが、婚約契約における双方は結婚する2人ではなく契約者である両家の当主ですからね。」


 勝ち誇った顔のお父様を人睨みした後、ギル兄様はニヤリとたちの悪い笑みをうかべる。


「公爵夫人はフリューゲルを気に入っているんじゃなくてフィリーを『王太子』に嫁がせたいのでしょう?認めてくれないなら認めさせますよ?()()()()()使()()()()ね。」

「ギル兄様、そのお話王城でもしましたけれど無茶なことはなさらないでくださいませね。どんな手を使うつもりなのかなんて決して聞きたくありませんが、私王太子妃になりたい訳では無いですからね。」


 不穏な話ばかりするギル兄様にもう一度釘を刺しておく。それを聞いてお父様がはぁっとため息をついている。


「フィリーアローゼ、いつから王太子妃でなくても良くなったんだい?」


 今朝までの私は王太子妃になる気満々だったから不思議に思うのだろう。


「今日のお茶会が始まった時……でしょうか?」


 私の答えをきいてお父様はもう一度、先ほどよりも深いため息をついた。


「それは、なんというかすごく急な話だね。」


 お父様には急な心変わりに見えるらしい。私としては、そうでもないのだけど。前世の記憶が戻る前に王太子との婚約を望んでいたのは初恋は実らないと思っていたからだ。「ギル兄様と結婚できないなら、王太子妃くらいにならないと割に合わない」と思って周りと競い合っていただけなので、自分としてはそう変わったつもりは無い。ギル兄様と結婚できるならそれにこしたことはない。


「あぁ、フィリーアローゼが王太子妃にならなくても良かったのなら、こんなに慌てて婚約契約結ぶ必要は全く無かったね。ロゼリンダを怒らせた分だけ損じゃないか。」


 お父様とギル兄様との間でどんなやり取りがあったか知らないが、お父様は私がギル兄様との婚約を渋ると思ったから婚約成立を急いだらしい。色々な事を考えて、結局私の為()思ってくれているのだろうけれど、国と家が第一のお父様らしい決断の仕方だ。そこに情は挟まれない。そして、それを何の悪びれもなく私に伝えてしまう辺りが、いっそ清々しくもある。


「言っておきますが、王弟との婚約を『損』だなんて言うのはあなたくらいのものですからね。それにそうと分かっていたから急いだに決まっているじゃないですか。夫人が認めてくれるのなんか待っていたらいつまでたっても婚約なんてできなかったでしょう。」


 そして、ギル兄様はお母様が反対すると分かっていたから婚約を急いだらしい。自分の欲望に忠実な所もこの二人はよく似ている。騙されたとお父様が頬を膨らます。中年親父のプンプン顔が様になってしまう奇跡に私は苦笑するしかない。


「まぁ、いいや。婚約してしまったのだし。でもね、ロゼリンダの気持ちを無視して婚前交渉なんてした日にゃね、婚約破棄してフィリーは修道院に入れますからね。大事な娘を嫁に出すからには家族みんなで祝福して、大手を振ってヴァージンロードを歩いて、盛大なパーティーを催して、これ以上の幸せはないって感謝されながら見送るのが私の夢だからね。夢がかなわないなら全部ぶっ潰す。わかりましたね?」

「……承知しております。」


 お父様の勢いに少々のけぞりながらも、コクリと肯いたギル兄様にやっと満足してお父様は席を立った。最初から婚約中は節度をもった関係でいなさいと言う為にこの部屋に残っていたらしい。「ロゼリンダの様子を見てくるよ」と言いながら執事と侍女を残して部屋を出ていく。



 ようやく――もちろん監視役の使用人はいるけれど――2人になれた。はぁっと深いため息をついて、ギル兄様が私を引き寄せる。その腕に身を任せていると、頭のてっぺんに頬を寄せてスリスリしながら抱きしめられる。


「せっかく婚約したのに、私たちの間には試練が多いね。」


 ギル兄様のセリフがかった言い回しに私は思わずクスクス笑う。


「お兄様が有能過ぎて婚約までが早すぎるのですわ。」

「フィリーまでそんな。少しでも早く君を私のものって思いたかったんだ。だめだった?」


 甘えたように問われて目を合わせようと顔を覗き込む。彼の空色の瞳の中に幸せそうに微笑む私がいる。この人の前では悪役令嬢面もなりを潜めるのだから、私の安息の地は彼の隣で間違いないのだろう。


「もうあなたのものですわ。」


 そう答えると、思わずと言った風にギル兄様が唇を私のおでこに押し付けた。どうしておでこと思ったけれど、ファーストキスは2人っきりでと願った私に配慮してくれているのかもしれない。


「ふふっ。くすぐったい。」


 そう言って、おでこを押さえた私をみて、ギル兄様は鼻の下から口元を大きな手で覆い隠した。ほんのりと赤くなった目元が色っぽい。私の何かがギル兄様を刺激したらしいことは分かっても、それが何なのか分からない。けれど、ギル兄様の「可愛い」はとてつもなくハードルが低いということだけはハッキリと分かった。


「こ、婚約者なのだから、もう家に来て、花嫁修業をスタートさせてもいいんだよ?なんなら今からどうだろう?」


 それまでのお父様とのやり取りを無かったことにして、良いことを思いついたと花嫁修業を提案された。この国では結婚の半年くらい前から花嫁が嫁ぎ先で生活し、その家のしきたりを学び生活様式に慣れるための期間をとるのが一般的だ。けれども、ギル兄様のベル―ヘン公爵家はフリューゲル殿下の立太子の時に同時に新興された家なので、公爵家に行ったところで夫人の仕事を教えてくれる方はいない。ギル兄様のお母様は王太后として王城にいらっしゃる。ずっと一緒にいたい気持ちが、思わず口をついて出てきたらしいこの提案だが、ギル兄様も半分は冗談で言っているのだろう。

 

「うふふ……嬉しいですわギル兄様。けれど、わたくし、王妃教育を施されて育ちましたのよ。花嫁修業はほぼほぼ必要ありませんわ。婚前三日で事足ります。それに、結婚すればずっと一緒にいられるのでしょう?今は今しかできないことがしたいです。」


 そう答えると不思議そうな顔をされる。

 お父様ほど極端では無いけれど、私もどうせなら皆から祝福される結婚をしたい。今のままなし崩し的にギル兄様の家に行ったら、お母様どころかお父様も、そして兄弟たちも祝福はしてくれないだろう。お母様の気持ちを無視して恋に溺れた私と付き合いを続けてくれるほど甘い家族ではない。そしてそれは結婚後の生活にも影響する。今が頑張り時なのだ。恋に落ちた時こそ無様に溺れてはならない。朗らかに嫋やかに伸びやかに泳ぎきって見せる時だ。

 ギル兄様の燃えるような恋慕も、家族の暖かでゆるぎない愛情も、社交界での地位も、快適な生活も、愛おしいもので満ち足りた人生も欲しいものは何だって手に入れないと気が済まない。なんたって私は(たぶん)悪役令嬢なのだから。


「今しかできないこと?例えば?」

「街で待ち合わせてデートしたり。」

「なるほど。」

「お茶会や夜会で偶然出会ったり。」

「ふんふん。」

「会えない時間の寂しさをお手紙のやり取りで紛らわせたり。」

「あぁ。」

「仮面舞踏会でたまたま意気投合したり。」

「ん?」

「図書館で同じ本を取ろうとして思わず触れ合った手を恥ずかしがったり。」

「……。」

「夫婦となってしまっては出来ない甘酸っぱい思い出を婚約期間にたくさん作りたいですわ。」

「なるほどね。で、フィリーが一番したいのはどれなの?」

「一番はお忍び待ち合わせデートですわね。」


 私の希望を理解したギル兄様は少し落ち着いたらしく、先ほどまでの熱に浮かされたような溺愛っぷりは引っ込めた。私の希望を叶える算段を付けているらしく、視線を上に向けて考え事をしている。彼のこういう切り替えが早くて効率的なところが好きだ。馬鹿みたいにイチャイチャしたいけど、本物の馬鹿になりたいわけでは無い。


「よし。それなら明日はデートしようか。」


 予想通りの言葉にウフフと笑う。そう言われるのはうれしいが、公爵令嬢のスケジュールをなめてはいけない。


「明日は午前中はピアノのレッスン、午後は伯爵家のお茶会に呼ばれておりまして、夜は弟のフェルナンドが家族に詩の朗読を披露する予定がありますの。」

「じゃあ、明後日は?」

「明後日は午前中は今度の夜会の為のドレス作りの打ち合わせ、午後は領地の街道舗装工事のための視察、夜は領主代理であるフィルレンテおじ様と勉強会ですわ。」

「……その次は?」

「午前中は教会の孤児院で慈善活動、午後は王立大学の歴史学博士でらっしゃるセカイシー博士と先日見つかったヒコホダウイ遺跡の壁画について歴史的価値に関する意見交換、夜は教育学のハッターツ教授が開かれる子どもの成長の為の音楽会にピアノ奏者として参加予定です。」


 だんだんと顔を曇らせていくギル兄様に申し訳ない気持ちになってくる。私の予定は分刻みというほど込み合ったものではないけれど、長時間の急な用事を入れられるほど空いてもいない。


「次の休みはいつ?」

「お休みですか?……爺や、次に予定がないのは何時かしらね?」


 ドアの側に控えている執事のセドリックに声をかける。お父様より幾分年上の彼は私が物心ついた時にはすでに今と同じ容姿をしていた。白髪交じりの髪をオールバックにし、すっきりと整えられた口髭をもつ彼のことを私達兄弟は昔からずっと「爺や」と呼んでいる。


「3か月後の海の月18日の午後でございます。」


思いの他、遠い日付を口にされ、あららと思う。最近忙しいとは思っていたが、3か月後まで予定がつまっているとなるとちょっと働きすぎだ。少し予定を動かすことを考えておこう。


「……フィリー、その日はどうか予定をいれずに休んでくれ。君が体調を崩すのではと気が気じゃない。」


 困り顔のギル兄様が私の心配をしてくれる。ショボーンと眉を下げて潤んだ瞳でこちらを見つめるギル兄様はとてもよく懐いている大型犬みたいだ。それもシェパードとかドーベルマンみたいな強そうな種類の。ギャップが可愛い。


「承知しましたわ。でも、デートはどうしましょう?」

「私の予定が空いている時に君の送り迎えをさせてくれ。」


 王弟殿下まさかのアッシー君化宣言ですわね。と心に浮かんで「アッシー君」という言葉がもはや死語であると自嘲した。前世の世界の死語……化石語とでも言おうかしら?


「まぁ、そんなよろしいのですか?ギル兄様もお忙しいのでしょう?」

「いや、王城にいる間はそうでもないよ。執務室にこもりっきりも嫌だしね。気分転換がてら会いに来るよ。」

「嬉しいですわ。では私は王城で用事がある時には執務室をお尋ねしてもよろしいですか?」


 私の提案にギル兄様は一瞬目を丸くしてから破顔した。その嬉しそうな顔に私も思わずキュンとしてしまう。


「もちろん構わないよ。忙しいのに大丈夫か?」

「大丈夫ですわ。その、私も、ギル兄様に会いたいですし。」

「じゃあ、急いで公務を終わらせて、君が来るのを待っているとしよう。」


 ギル兄様が私の手を救い上げて指先にキスを落とす。私はそのままキュッとギル兄様の手を握りしめた。


「早く、お母様を納得させて……」

「うん?」

「とびきりのキスをしましょうね。」


 そっと小声でささやくと、ギル兄様は私の手を握りしめたまま勢いよく天井を見上げた。口を小さく動かして何か独り言を言っているが聞こえない。


「……ギル兄様?」

「うんごめん。ちょっとこの国を滅ぼしそうだったから自重してたの。」

「くれぐれもご自重くださいませっ!?」


 不穏なセリフに冷や汗がでる。ひょっとして自惚れでなければ私の肩に国の命運がかかっているのではないかという気がしてきて、慌てて小さく首を横にふる。そんな大役は私には務まらない。


「わかってる。フィリーが私の隣で幸せだったら大抵のことは我慢するから。」

「私はギル兄様に大切にしていただけて幸せです。」

「……フィリー分かってやってるでしょう?」


 ジトリとした目で見られて何のことかと目を逸らす。


「まぁ、いいや。今日は婚約できたし。帰るとするよ。」


 ギル兄様は名残惜しさを振り払うように急に帰ると言い出した。もういい時間なので驚きはない。私はギル兄様の帰り支度を手伝って、玄関まで見送った。玄関前でギュッと抱きしめられる。


「ギル兄様、あの、お……おやすみなさいませっ」


「おやすみなさい」という挨拶が少しはずかしくて頬を染めると、ギル兄様はその頬をスッと手の甲で撫でてから「フィリー」っと私の名を呼んだ。


「また、会いに来るからね。」

「はい。お待ちしております。……お気をつけてお帰り下さいまし。」

「あぁ。おやすみ。私の可愛いフィリー。」


 そっと頬に唇で触れられて、顔に熱が集まる。ニコリと大人びたほほ笑みを浮かべるギル兄様の余裕の表情が憎たらしい。私はちょっと背伸びをして彼の頬に唇でふれる。チュッと音を立てて離れると彼の顔が真っ赤に染まっていたから、私はやっと満足する。もう一度抱きしめようと手を伸ばす彼から身をひるがえして逃げおおせる。小走りに玄関の内側に入ってから振り返る。


「おやすみなさい。私の可愛いギル兄様。」


 そう言うと、しばらく恨めしそうな顔をしていた彼は、参ったというように両手を上げてから身をひるがえして馬車に乗り込んだ。


「今日は許してあげるけど、覚悟しておいてね。」


 去り際に不穏なセリフとウインクを一つ残して、王族用の優美な馬車は闇夜に消える。私はそれを見送ってから隣にいた爺やに引きつりながらも笑みを向けた。


「大丈夫よね?」


 爺やは何も答えずに、ため息を一つだけ落としてみせた。


婚約してもファーストキスもできないとか……慎み深い。再会初日なのだから当たり前かなとも思いますが。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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