第40話【寝取られ男はいざ、大鹿亭へ】
「……もうこんな時間だったのか」
俺の視界に広がるのは黄昏に染まる王都。
丹念に磨かれた石床に乱反射するかのように、夕陽の光が柔らかく街を照らしていた。
「えぇと、たしか大鹿亭は……」
俺は渡されたメモを手に取る。
王城からは出るのは思ったよりも簡単だった。呼び止められもせず、強いて言うなら衛兵からの会釈があったくらいだろうか?
「あ、ジョン!」
簡単に書かれた地図を見ていた刹那。
俺の耳に響いてはならない声が響く。 あぁクソ、冗談だろ?
「……エリーゼ」
「やっぱり!ここにいたんだね」
俺が目をやった方向……そこに姿があった。 珍しく髪を後ろへ一纏めにして、軽装のスカート姿。 清流のように美しく整った亜麻髪、琥珀色の瞳。
顔だけは本当に可憐っていってもいいだろう、前世の俺が惚れ落ちたくらいだからな――――今はただの悪魔の顔にしか見えんが。
「はぁ……その後ろにいるのは例のお嬢様か?」
俺は早々と立ち去りたいので溜息をわざとらしく吐きつつ、エリーゼの背中に隠れるように目を伏せている銀髪の令嬢のことを聞く。
「ぁあ……ふふ、うん。そうだよ――お父さんからここに連れて行くように言われたの。自警団の人たちも一緒だよ」
エリーゼは自身の頬に手を当てて、やけに熱っぽい声で俺に返事する。 それが俺にとっては――――寒気を感じさせるだけにしかならない。
風邪なのか、はたまた着込んできているせいかは知らんが……その声はあの夜を思い出す。 途端に脳裏がズキズキと痛むような感覚を感じる。
「なら、俺はこれからすることがあるから……」
さっさと立ち去るとしよう。
これでこいつに勘付かれることはないだろう。たとえこいつが大嫌いでも、村を出るまでは我慢しなければ。
「ジョン、待って」
「……」
「っねぇ―――私気になってたの。ジョンって……なんでここにいるのかな?」
ゾクリ、と背骨に響く。
その声質は聞いたことがない。
「……なんでと言われても、辺境伯様からのお達しだからだよ。なにか変かい?」
「うぅん、そういうこと言ってるんじゃないの。 なんでジョンから――――ライラックみたいな香りがするのかな? 私がいつも付けるのはラベンダーなのに」
振り返ると、そこにいたのは先程の顔つきではなく。
瞳がドロドロにとろけたような……まるで俺のことしか、その瞳に俺しか写っていないような、不気味で、顔はいつもどおりのクソビッチのはずなのに、真に化け物としか思えないような感覚。
「っ……すまない、急いでるんだ」
そう言って俺は足早に駆け出す。
あの状態のアイツと話すのは……危険だ。 俺の脳内がそう響かせていた。
そして立ち去ったあと。
背後の銀髪の令嬢の方へと振り向き、いつもと同じ微笑みの表情を張り付かせながら……エリーゼは心の中でドロドロとした黒い呪いを沸騰させる。
(隠すんだぁ。そんなにあの女が大事?……貴族だから? そんなので、私のジョンが奪われるなんて――――許せない)




