第36話『寝取られ男は悪夢から覚めても苦悩する』
「……朝」
知らない天井だ。
いや、知ってはいるけど……見慣れない天井なことには違いはない。
ふと窓の方を見れば、雀の雛たちがチュンチュンと鳴いていた。 餌か、はたまた親を呼ぶ声か……どちらにしても、牧歌的なこの村の果樹園や巻藁を背景にしたそれはまるで隠居した宮廷画家が書いてそうな絵画みたいだ。
「つっ……」
ひとまず体を動かそうとすると、激しく痛む上に舌の上でほのかに血の味がする。
凝り、内出血、あとは憔悴による疲労だろうか……これだけ寝起きで体が鈍く痛むのは前世でミノタウロスに棍棒で殴られた頃以来かもしれない。
ひとまず服の裾で汗を拭えば、不思議と汗自体はそこまででもなかった。もっとも、不快な気分には変わりないが―――誰か介抱してくれたんだろうか?
「先生!起きたんですね!」
そんなふうにぼーっとしていたら、唐突に俺の耳に紗蘭とした鈴みたいな声が響く。
慌ててそちらの方向を見てみれば、昨日の夜に一瞬目覚めた時に見たような夜会服ではなく……淡い草色のフレアスカートにコルセットとフリルのついたシャツという軽装のヴィクトリアがバケツの水を持って来ているところだった。
「ゔぃ、ヴィクトリア! そこまでしなくても俺は大丈夫だよ」
「いえ、これくらい先生の受けた苦痛に比べれば苦でもないです。それに――使用人や宿の人間に間者がいる可能性を考慮したら、私がやるのが先生にとっての安全一番だと判断しました」
そして、よいしょ、と一言言ってヴィクトリアは波々に水のたっぷり入ったバケツを床に置く。わずかに床がきしむ音と水の揺れる音が早朝の部屋に響いた。
「先生、汗を拭うのでこちらへ」
ヴィクトリアが布巾を絞ると、俺に横たわるようにベッドをぽんぽん、と叩いて促してきた。
「あ、汗?そ、それくらい自分でできるよ。俺だって子供じゃないんだからさ」
というより、同年代もとい年下の女の子から体を拭いてもらうの自体があまりよろしくないのだ。俺はロリコンではないしヴィクトリアにこれといって何をするつもりでもないが、羞恥心というものはある。
「先生。昨日の夜中、先生の汗を拭いたのは私ですよ? それにこういうのもなんですが、衰弱している先生に体拭きをさせるわけにもいきません」
「……」
じゃあもう裸見られてるってことかよ……。
だがまぁ、仕方ない。ここは大人しく従って――――
そう思って横たわろうとする俺。
だが、その時だった。
《ぎゃーぎゃーうるさいのよ!私は昔からあんたのそーいう女々しいところが大ッ嫌いだったの!》
体が、硬直する。
突然、あの情景がフラッシュバックする。
《フィール、今日も可愛がってくれるのよね?》
女を信用するな。
お前は裏切られる。 お前は独り身でいるべきだ。 お前は心を許すべきではない。 いずれ他のものに奪われる。 お前はお前だ、故に気を許してはならない。
「―――ご、ごめん、ヴィクトリア。後で自分で拭くよ、俺はちょっと外に出てくる」
「え?先生、待っ」
半ば反射的に床へ立ち上がれば、ガチャリ!と少し強めにドアを閉めて部屋の外へ出る。
「……なにやってんだろうな、俺」
扉を背に、膝から崩れ落ちる。
悪夢から目覚めたはずなのに、結局まだ目覚めきれてない。
違うはずなのに。みんな、違うはずなのに。ヴィクトリアも違うはずなのに。
心を許してはいけない。
なんで、俺はそう思っちまうんだよ……。




