罰ゲーム
前触れもなく現れたお兄様は、傘を畳むと男達に車のドアを開けさせ、中へ座った。
「取り敢えず、その手を退けたまえ」
「は……はい」
威厳に圧倒されたのか、即座に頭から手がどけられる。ピーンと伸びた姿勢に真面目腐った黒縁眼鏡。私は長らくこの人の事が苦手だった。従順な態度がお母様のしもべのように思えてしまって。
「……冬の雨は冷えるね」
後部座席に大人が三人。シュールな絵面だが、お兄様がにこりともしないのでジョークを挟めるような雰囲気ではない。
「今日は大事な話があって来たんだが、周りがこれでは仕方ない。手短に話そう。申し訳ないが、少し席を外してくれるかな?」
「わ、わかりました……オイ、行くぞ!」
「え? は、はい先輩!」
黒服の男達は傘を持って外へ出た。周囲の注目が集まる中、お兄様と車内で二人きりになる。
「見ないうちに大きくなったな」
「そう……でしょうか」
何歳も歳の離れた兄と面と向かって話した覚えは今までに数えるほどしかない。弾まない会話は私たちの疎遠さを痛いほど浮き彫りにする。
目を合わせるべきかも分からず前を向くと対向車のライトが消えていた。今になって考えるとよくあんな都合の良いタイミングで対向車が現れたものだ。あれがなかったら今頃どこかへ連れ去られていたことだろう。
「さっき、君の友人たちと話をしたよ」
「え、友人たち……?」
「そう。お嬢さん方が3人、電話に出て状況を説明してくれた。それがなかったらきっと間に合わなかった」
ユウさんと瑠美さんとマリだろう。また厄介事に巻き込んでしまった事が悔やまれる。
「良い友達を持ったね」
「はい」
「大事にしなさい」
家族にそんなことを言われたのは生まれて初めてだった。何よりも家族が大切だと言われて育ってきたから。
「……実はこの間、娘ができてね」
「まあ、娘さんが?」
「ああ。妻が元気に産んでくれた」
「それは……おめでとうございますわ」
何だか妙な時間だった。まともに会話したこともない年上の兄と、こうして改まって顔を突き合わせることになるなんて。
「まだ実感は薄いが、僕も人の親になった。生まれてくる子供が娘だと知った時、僕は彼女を自由にしてあげたいと思った。必ずしも家柄に囚われなくたって、この子を幸福にすることは出来るはずだと」
お兄様は何か振り払うように目を瞑り、俯きがちに首を振った。この人もきっと想像もつかないような体験を今までにいくつも経て来たんだろうな。
「そんな時、君のことが気になってね。家族で唯一親元を離れて暮らす君が何か不自由をしていないかと。勝手ながら娘と重ねて見ていた部分も少なからずあったかも知れない」
お兄様は一旦眼鏡を外し、ケースから取り出した布で拭いてからまた掛け直す。
「でもどうやら元気そうだね。安心したよ。友達もちゃんと居るみたいだし。君の件を妻にも相談したら、どうか君を自由にしてやって欲しいと言われた。彼女は僕の誇りだ。僕も自分のためだけに誰かの気持ちを踏み躙りたいとは思わない」
「お兄様……それじゃあ?」
「婚約の話はナシだ。向こうの会社も母様も僕が何とか言いくるめてみせる。君だけじゃなく、娘の未来ためにも……だから君はもう自由だ。窮屈な思いもしてきただろうけど、これからは好きに生きていい」
そう言われて何と答えればいいのかが分からない。しがらみから解放されて、私はこれから何をどうすべきなんだろう。
「さあ、行っておいで。友達が待ってる」
お兄様に送り出されて車外へ出ると、側にずぶ濡れのマリが立っていた。服も髪もぐっしょりと濡れて身体に張り付いている。
「……迎えに、来てくれたんですの?」
「うん」
寒いだろうに。
慌てて傘を差し、脱いだ上着を着せた。
「私、間に合ったのかなぁ……?」
「ええ。バッチリですわ」
「本当に……!? カノンちゃん、どこかへ行っちゃうんじゃないの?」
「その件はもう、何とかなりそうですの」
「良かったぁ!!」
「あぁもう、抱きつかないの!」
降りしきる雨の中、ぽっかりと空いた空間を何台ものライトが照らし出す。こんな所で抱き合って目立たないかしら……?
《あれ……みんなどうしたの?》
【おお、あれがカノンお嬢様か】
【顔はよく見えないけど大体イメージ通り】
【あれって、まさかマリモたん!?】
【マジで巨乳だったんか……!!】
【YEEEEEES‼︎‼︎】
【↑おい自重しろww】
【俺の涙を返せ(笑)】
「カノンちゃん、もうどこにも行かないで! 私、カノンちゃんのことが好き! 一番大好きなの!」
「……私も」
いつだったか、こっそりキスしてみた事もあったっけ。ついこの前が遠い過去のように思える。
一番、か。
一番ってすごいな。
胸の奥につかえていた不安がさぁっと晴れていく。こんなにも想ってくれる人の気持ちに私も何か応えてあげたい。
「マリ、ここじゃなんだから」
「カノンちゃん……?」
布越しに頬に触れた。
「続きはまた、後でね」と囁くと、マリはみるみる真っ赤になって、ロボットのようにぎこちなく頷く。
「でも……いいんですの? 一緒に居たらこれからも迷惑をかけるかも知れませんわよ?」
「そしたら、また罰ゲーム、かな?」
「げっ、またですの!?」
「ふふ。うん」
マリは悪戯っぽく笑った。
「罰として、どんな時も離れないで。一人で抱え込まないで。こんな私と、ずーっと一緒にいて。今日からは、そういう罰ゲームだよ」
雲の切れ間から太陽が覗く。今日はじめて見るお互いの顔は、ずぶ濡れのあまり喜んでいるんだか泣いているんだか見当もつかない、そんな酷い、けれどどこか晴々とした笑顔だった。




