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「けっ、健全だよね!? 本当に!」


 イッカクが体を起こしてにやりと笑う。


「さっきも言ったけどさ、バーチャルの世界って現実で出来ない事をするから楽しいと思うんだ。例えば……こうやってさ」


 右耳からぬちょぬちょとした音がする。スライムとは違う、唾液の絡んだような音だ。


「ひっ……」


「フフッ、こうやって耳舐めたりさぁ……」


 イッカクの声が遠ざかると今度は左側に回ってきたような音がした。


 ふぅーっと息を吹きかけてきたので、左耳がぞわっとした。吐息や鼻息を俺に聞かせるように何度もわざとらしく大きく息をしている。


「耳をふーってしたり。こんなの、リアルじゃ出来ないじゃん? 恥ずかしいし」


「こっ、これはどうだろう……バーチャルでもマズいんじゃない?」


「えぇ? 私はただマイクをぺろぺろしてるだけだもーん」


 雫花は一向に止める気配が無い。


「ちょ……も、もうやめよ。お、俺からも話があるんだ」


「いいよ。聞いてあげる。でも、その前に私の番。台本があるんだ。早速始めるね。話はその後だよ」


 こうなったら気が済むまでやってもらおうと腹をくくる。話はそれからでも出来るのだから。決して下心や役得なんて思っていない。いや、5ミリくらいはあるかもしれない。


 イッカクが立ち上がり、俺の背後へ回り込む。


「佐竹ぇ、今ね、後ろからぎゅってしてるの。分かる?」


 声が右耳の後ろ辺りからするし、下を向くとイッカクの腕が回ってきているのでそうだと思える。


「う、うん。分かるよ」


 俺が答えるのと同時に鼻をすする音が耳元で聞こえる。そういうフェチは無いのだけど需要はあちこちに転がっているのだろう。


 雫花は一向に台本を読み始めない。


 ただ鼻をすする音が聞こえるだけ。


 後ろを向くと、イッカクが泣いていた。いや、イッカクじゃない。角は無いし、見た目は雫花にそっくりなアバターに切り替わっていた。


「え、しっ、雫花!? どうしたの?」


「まっ、前向いてて!」


 言われた通りに前を向く。何やら様子が変ではあるけれど、切断されたら元も子もない。それに、俺も雫花に伝えないといけない事がある。


「ふぅ……落ち着いた」


 雫花はかなり鼻声だ。本気で泣いていたらしい。


「大丈夫?」


「うん、最後に思い出が作れてよかったよ」


「最後?」


「佐竹、桃子と良い感じっぽいしさぁ。こうやって遊べなくなりそうじゃん?」


「きっ、気づいてたの?」


「まぁ……一応? だからさ、最後にリアルじゃ出来ない事がしたかったんだ。あと一つだけ残ってる」


 そう言って今度は俺の前に回り込んで来る。


「こういう場合、何ていうんだろ? バーチャルキス?」


「え……す、するの?」


「アバター同士でするだけだからノーカンでいいよ。私はきっちり初めてとしてカウントするつもりだけどね!」


 雫花そっくりなアバターは目を瞑ると俺の顔がある位置に向かってゆっくりと顔を近づけてくる。


「んっ……ちゅっ……」


 雫花は何かに当てているようで、しっかりと音を鳴らす。


 雫花はすぐに俺から離れて照れくさそうに笑う。


「あはは……目開けたら真っ黒なダミーヘッドだから現実に引き戻されちゃうね」


「そ……そうなんだ」


「一応おでこに『佐竹』って書いてみたんだけどね。やっぱ本物がいいなぁ。無理なんだけどね。あー! クリスマスの時、しとけばよかったなぁ! なんで日和っちゃったんだろ? 私って本当バカ。ねぇ? 佐竹ぇ」


「雫花……」


 努めて明るく振る舞っているのか健気で、年下の、しかも女子高生にそんなことをさせている自分が情けなくて何も言えなくなる。


 雫花は部屋をウロウロしながら、バーチャル空間に作られた自分専用の部屋の散策を楽しんでいる様子だ。


「佐竹はさ、私の味方になってくれた初めての人だった」


 アバターは遠くにいるけれど、マイクの設定はそのままらしくすぐ耳元で声がする。


「最初に会ったときの話?」


「そ。成海さんから送り込まれてくる社員の人は、みーんな私じゃなくて成海さんの味方なの。でも佐竹は違った。それに目が優しいんだ。だから……その……好きになったんだと思う」


 緊張から何度も唇を湿らせるぬちゃっとした音がする。


「あー! 本当さぁ、桃子が羨ましいよ。チャンネル登録者が200万人いても300万人いてもさ、関係ないんだよね。今はさ、佐竹一人が登録してくれてたら、見てくれてたらそれでいいんだ」


「雫花……ごめん……俺、疋田さんと……そのうち……」


「うん、わかってるよ。だからさ……佐竹、ありがと。最後の思い出作りに付き合ってくれてさ」


「さっ、最後?」


「うん。イッカクとして佐竹と話すのはもう最後だよ。これからはデータ分析の相棒の雫花。それだけだから」


「さっ……最後って……」


「うん、最後。もうやめるから」


「やっ……やめる!?」


 え? い、引退するの? 俺に振られたからとは思いたくないけれど、タイミング的にはそんな感じすらしてしまう。


「うん。あー……湿っぽいの嫌だからさ。それじゃあね!」


 ブツン、と切れる音がして俺は部屋から追い出される。すぐにVRゴーグルを取り外して社内チャットで雫花に連絡しようとしたが、こっちもオフライン。


 俺とうまく行かなかったからってやけになりすぎだろう。


 会議室を飛び出して、社長室を見る。


 安東さんは呑気に缶コーヒーを片手に資料とにらめっこしていた。看板タレントの危機なのに。まぁ、俺が原因を作ったのかもしれないけど。


 雫花を引き止められるのは安東さんくらいしかいないだろう。社長室に飛び込む。


「安東さん! しっ……雫花が……イッカクさんが!」


「何? どうしたの? そんなに慌てちゃって」


「いっ……引退するって知ってましたか?」


「引退!? いやいや! 昨日だって一緒に新しいグッズの発注かけたばかりよ!? え……えぇ!? 本当!?」


 安東さんも寝耳に水だったようで、目を丸くしている。


「その……今さっき雫花とEdgeSpaceで話してて……その……もう最後とか……辞めるとか言ってたので……」


 安東さんは時計をちらっと見て頷く。


「よし、雫花の家に行ってみようか。佐竹君もついてきてくれるよね? 雫花が最初に君に伝えたってことは大事な意味があるはずだから」


「はっ……はい! 分かりました!」


 ジャケットを羽織ると安東さんはヒールにも関わらずオフィスを全力で駆け抜けていく。焦りのほどが伝わるけれど、社員の人達は何事かと首を傾げているのだった。

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