82
グチャグチャに汚れがこびりついたキッチンの隅にあるケトルで湯を沸かして紅茶をいれ、蜂蜜を溶かす。
柄も大きさも不揃いなマグカップを2つ持って疋田さんの待つ部屋に戻る。ペアマグカップなんてあったら脳が破壊されていたところだ。
「どうぞ。はちみつティー」
「ありがとうございます」
ベッドに座って壁にもたれかかったまま疋田さんはマグカップを受け取る。
「あ……その……椅子、使ってください」
「あぁ……うん」
なるべく配信機材の事に触れないようにするため、パソコンデスクには近寄らないようにしていたのだけど、疋田さんは構わずにゲーミングチェアに俺を誘導する。
いかついアームで固定されて、アフレコ現場の動画でしか見たことがないようなポップガードがついたマイクを見ると、普通の人なら「あぁ、配信者なんですね」と言いたくなるだろうけど、そんな疋田さんのお漏らしを誘発するような発言はしない。
椅子に座ると、すぐに疋田さんの方を向く。
「なんすか……そんなジロジロ見ないでくださいよ」
ベッドの上に膝を立てて座っている疋田さんは妙に色っぽい。俺から視線だけを外してマグカップに口をつけている。
「別に……でも良かったね。大した事なさそうで安心したよ」
「ありがとうございます。今日ってどんな予定だったんですか?」
「えぇと……フレンチ……あっ! キャンセルの電話してない! ちょっとまってて!」
危ない。無断キャンセルになるところだった。キャンセル料は仕方ないにしても店の人を待たせるのは忍びない。まだ予約の時間になっていないので大丈夫だろう。
◆
キャンセルの電話をかけて部屋に戻ると疋田さんは壁を向いてベッドに横になっていた。
椅子に座ると物音に気づいて寝返りを打つ。
乱雑に散らばった髪の毛が目元を隠していてアンニュイな雰囲気だ。
「佐竹さん、フレンチ食べたかったっす」
「また今度行こうね」
「はいっす。ほんと……間が悪いですよね……なんでこんな日に……」
ヘラヘラの実の能力が発動した疋田さんはベッドに吸い込まれそうなほどに落ち込む。
椅子から降りてベッドの脇に座り、疋田さんの頭を撫でる。
「気にしなくていいよ。店は逃げないし」
「佐竹さんは逃げるかもしれません」
「そっ……そんなことないよ」
「なら……添い寝してください」
「えっ……」
「前はしてたじゃないですか」
疋田さんはシングルベッドの端まで体を寄せて俺のスペースをあけてくれる。
「添い寝って……」
「添い寝するだけですよ。マスクもしてます。でも私は佐竹さんに風邪をうつしたいです」
「唐突なテロ宣言だね!?」
「ほら、なんでも共有したがる人っているじゃないっすか。私も共有したいんですよ」
「風邪を?」
「はい」
なんでも共有したがるクラウドストレージ女子こと疋田さんはそう言って俺を手招きする。
仕方ないのでベッドイン。
さすがにシングルサイズはかなり狭く、横向きになってやっとそれなりの隙間が作れた。
「なんでも共有ねぇ……疋田さんは隠し事とかないの?」
疋田さんはいつ俺に最北南であることを教えてくれるのだろうか、という詮索の意味で軽いジャブを打つ。
「ありますよ。ミステリアスな方がモテるとネットで見ました」
疋田さんに至ってはミステリアスすぎるのでもう少し開示してくれてもいいのだけど。
「佐竹さんはありますか?」
「うん……あるよ」
「なっ……なんと!?」
「そんな驚かなくても……」
自分もあるくせに。
「わっ、私の隠し事は一つです! よって双方の隠し事スロットは1としましょう! 佐竹さんはいくつありますか?」
「うーん……1かな」
疋田さんの隠し事は最北南であること。俺の隠し事はアデリーであること。
俺からしたら隠し事でもなんでもないことなのだけど、疋田さんは相変わらず隠し通せていると思っているらしい。
「なら同等ですね。これ以上の隠し事はやめましょう」
「あ……うん。んっ!?」
疋田さんはそう言うとモゾモゾと動いて俺との距離を詰めてくる。ベッドのど真ん中まで移動してきた。
すぐ目の前に疋田さんの顔がある。マスクをしていて若干息苦しそうだけれど、目はいつものようにパッチリとしていて瞬きをするたびに可愛い音が鳴りそうだ。
「佐竹さん……その……私は佐竹さんにガチ恋しています。スロットが足りないので白状しました。隠せませんので」
唐突な告白。それよりも最北南であることを隠したいらしい。
「それ……予定だと来週じゃないの?」
「来週は付き合う事の意思決定をする日です。気持ちを伝えるのが前倒しになろうと問題ないと考えます」
「そっ……それは……そうかもしれないけれど……」
ベッドに結界が張られたように降りられなくなってしまった。
疋田さんは真っ直ぐに俺の目を見てくる。返事を寄越せと訴えかけてくるようだ。焦らなくていいとか言っていたくせに、スケジュール遵守と言っていたくせに、自分が一番焦ってるじゃないか、とは言わない。
「俺も……す……ガチ恋してると思う」
疋田さんはこれ以上は目玉が飛び出るんじゃないかというくらいに思いっきり目を大きく開く。
「そっ……それは……嬉しいです」
「つまり……その……俺が好きってこと?」
「はい。その……すっ……ガチ恋です」
ん? 何かおかしいぞ。
この人、絶対に「好き」と言わないような気がしてくる。
「好きって言ってみてよ」
「すっ……ガチ恋です。佐竹さんもどうぞ」
「す……ガチ恋」
「なんすかそれ……郷ひろみじゃないんですから」
同時に同じメロディーが脳内で流れたのか、プッと同時に吹き出す。
「言えないよ、ね」
「ふふっ……そうです。でも取っておきましょう。ガチ恋は焦らず、ですから」
疋田さんは穏やかに微笑むとすっと目を瞑る。
これは、今しかない。スケジュールなんて知るか。
疋田さんのマスクをずりおろす。本来の顔より可愛く見えることをマスク効果なんて言うけれど、この人に限っては逆マスク効果が成り立つ。すっと立ち上る鼻も唇もそれを隠すなんてもったいない! と道具屋のオヤジが怒りそうだ。
マスクをおろしても疋田さんは目を瞑ったままだ。
そのまま顔を前に突き出し、唇を重ねる。
「んっ……」
疋田さんは手を俺の顔に添えて、離れないようにホールドしてくる。口の中で俺の舌がモゾモゾと動き始めたけれど、さすがに自重して唇を閉じたまま離す。
何故だか疋田さんは目から涙を流していた。
「え……あ、ご、ごめん!」
疋田さんは手で涙を拭って首を横に振る。
「い、いえ! その……うれし泣きという事を初めてしました。あっ……その……また来週、お願いします」
疋田さんは今日一番に顔を赤くしている。うれし泣きだなんて言われるとさすがにグッとくるものがあるが、二人して泣いたらそれはそれで意味が分からないので堪える。
「うん、よろしく……お願いします」
二人で目を見合わせる。疋田さんは一度フッと笑うとを閉じてそのまま眠りについたので、俺もそのまま隣で昼寝タイムに入った。
この後、めちゃくちゃ風邪を引いた。




