第12話 白衣の危機と、アリスの『激落ち』洗濯大作戦
その日、アタシは珍しく上機嫌だった。どれくらい機嫌が良いかと言えば、ルインの小言を右から左へ受け流すだけでなく、鼻歌までつけてしまうほどだ。
「ふふ~ん♪天気もいいし、白衣も真っ白。最高じゃん」
ガタゴトと揺れる馬車の荷台で、アタシは着ている純白の白衣を太陽にかざしていた。
この「王立魔導研究所・特注白衣」。
ある程度の物理や魔法のダメージを通さない防御力もさることながら、何より素晴らしいのが「汚れない」という一点に尽きる。
泥がついても、返り血を浴びても、ケチャップをこぼしても、数秒で光の粒子となって分解・消滅する。つまり、洗濯しなくていい。
極度のズボラであるアタシにとって、これはただの衣服ではない。文明の利器であり、神の衣であり、アタシの堕落した生活を支える最後の砦だ。
「……アリス、楽しそうだな。今日の任務は『下水道の掃除』だぞ?」
向かいの席で、ルインが嫌な顔をして鼻をつまんでいる。彼はこれから向かう現場の想像だけで胃もたれを起こしているようだ。
「下水道?楽勝じゃん。どうせネズミかスライムだろ?それに、この白衣なら、汚水も弾くしな」
「だといいんだけど……。最近、王都の地下で『新種の黒いスライム』が発生して、騎士団の装備をダメにしているらしいって噂があって……」
ルインの不吉な予言など、アタシは聞き流していた。汚れないアタシに、死角はない。アタシはこの白き聖域に守られているのだから。
【王都・地下水路】
ジメジメとした暗闇。腐った水と生活排水が混ざり合った、鼻が曲がりそうな悪臭。足元をドブネズミが走り抜け、壁には苔がびっしりと生えている。
最悪の環境だが、アタシの白衣は淡い燐光を放ち、汚れを一切寄せ付けない。泥水が跳ねても、ガラスの上を滑る水滴のようにツルリと落ちていく。
「ほーら見ろ。完璧だ」
アタシが胸を張った、その時だった。
ボトッ。
天井から、何かがアタシの肩に落ちてきた。黒く、粘り気のある、コールタールのような液体。
「うわっ、汚ねぇな……」
アタシは眉をひそめ、手で払おうとした。
いつものように、魔法の力でシュワっと浄化されるはずだ。
……はずだった。
「……あれ?」
消えない。
それどころか、黒いシミは繊維の奥へとズブズブ染み込み、じわじわと面積を広げていく。白紙に落としたインクのように、純白を侵食していく。
「おい……嘘だろ?おい!」
アタシは焦ってこすった。すると、シミはさらに伸びて、真っ白な背中に醜く長い、黒のラインを描いた。美しいキャンバスが、一瞬で台無しにされた。
「ルイン!これ!消えないんだけど!壊れてんぞこの白衣!」
「えっ!?まさか……そのスライムは!」
ルインが慌てて松明を掲げる。
照らされた天井には、無数の黒いスライムが、不気味な脈動を繰り返しながら張り付いていた。
「噂の『呪いのインク・スライム』だ! あいつらの体液は、魔法的な『防汚結界』を食い破って定着する、世界で一番タチの悪い汚れなんだ!」
「はぁ!?落ちないってことか!?」
「一度ついたら、特殊な溶剤がない限り、二度と落ちない!」
カァァァァァァッ……。
アタシの頭の中で、何かが焼き切れる音がした。
二度と落ちない?
この美しい白衣が?ずっと黒いシミがついたまま?洗濯しなきゃいけない?いや、洗濯しても落ちない?
つまり、アタシの平穏で清潔でズボラな生活が、この薄汚い軟体生物によって永遠に失われるということか?
「……ふざけんな」
アタシは震える手で、シミのついた白衣を握りしめた。女の子にとって、服の汚れは死活問題だ。ましてや、お気に入りの服を台無しにされた怨みは、ドラゴンに焼かれるより深く、悪魔に魂を売るより重い。
「おいルイン。その『特殊な溶剤』ってのはどこにある?」
「えっ?それは……このスライムの群れを統率している『クイーン・インク・スライム』の核にある浄化液しか……」
ルインが言い終わる前に、アタシは天井を見上げた。目は血走っていたと思う。視界が赤く染まり、理性というブレーキが粉々に砕け散った。
「……汚物は消毒だ!」
アタシはスカートの裾を無造作に捲り上げ、壁を蹴って天井へと飛び上がった。
「キシャァァァ!?」
スライムたちが驚いて黒い液を飛ばしてくる。だが、今のアタシに回避という選択肢はない。どうせもう汚れている。なら、徹底的に汚れてでも、元凶を絶つ!
「汚してんじゃねぇぇぇ!!『頑固な汚れ・揉み洗い(クラッシュ)ヘッドバット』ォォォ!!」
バヂュンッ!!
アタシは空中でスライムを頭突きで粉砕した。黒い液が顔にかかる。髪にかかる。ヌルリとした感触が全身を這う。
関係ねぇ!どうせ後で風呂に入る!今は白衣の仇だ!
「クイーンはどこだ!洗剤を出せェェ!!」
アタシは地下水路を暴走した。それはもう、掃除というより災害だった。
ボーグさんが「あらあら、アリスちゃんが真っ黒ねぇ♡」とのんきに言い、ネネが「あ、そのインク、研究に使いたい」と空瓶を持って追いかけ、双子が「汚い! 近寄らないで! 菌が移る!」とバリアで逃げ惑う。
そして、水路の最奥。
巨大な黒いスライムの女王を見つけたアタシは、一切の躊躇なくそのブヨブヨした巨体にダイブした。
「これでお洗濯完了だァァァ!!」
ドゴォォォォォン!!
物理的な衝撃波が、水路の汚泥を根こそぎ吹き飛ばした。
数時間後。
第四救護団の事務所にて。
「……ふぅ。綺麗になった」
アタシは、真っ白に戻った白衣を満足げに眺めていた。クイーンスライムの核(洗剤)の効果はてきめんだった。ボーグの手洗いにより、あの憎きシミは跡形もなく消え去り、白衣は新品同様に蘇ったのだ。
「よかったですね、アリス。……でも」
ルインが遠い目をしている。魂が半分抜けているようだ。
「下水道の生態系、壊滅しましたよ」
「知るか。街が綺麗になってよかったじゃん」
アタシは白衣を羽織り、安堵のため息と共にソファに寝転がった。平和が戻った。アタシの怠惰な生活もこれで守られ――
「……ん? なんか臭くね?」
クンクン、と袖を嗅ぐ。汚れは落ちた。だが、そこには下水道特有のドブの匂いと、スライムの酸っぱい体臭が、繊維の奥の奥まで染み付いていた。鼻の奥をツンと刺激する、生理的な拒絶反応を引き起こす悪臭。
「……あ」
ネネが本を読みながら、思い出したようにボソッと言った。
「言い忘れてたけど、その洗剤、『匂い』までは落ちないよ。むしろ匂いを定着させる成分が入ってて」
「…………」
数秒の沈黙。
その夜、アタシの絶叫が寮に響き渡った。
「いやあああああ!臭いぃぃぃぃ!」
「もう一度、普通の洗剤で手洗いだね?しかも、念入りに」
結局、アタシは一晩中、鼻栓をしたボーグと共に、涙目で白衣を石鹸でゴシゴシと手洗いさせられる羽目になったのだった。
アタシが最も嫌いな労働、「手洗い洗濯」。その苦行は、夜明けまで続いた。
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