BLOOD STAIN CHILD ~OMAJINAI~
放課後の教室はいつも騒がしい。男子たちがグラウンドでフットベースをするのだと一斉に駆け出して行った後、ミリアは美桜を待たせながら帰りの身支度をしていた。すると教室に残っていた十人ほどの女子たちが華やかな話題をし始めた。
「ねえねえ、隣のクラスのかのんちゃん、洋平君と両想いになれたんだって。」そういう情報を真っ先に呈するのは、いつものことながらアンナである。アンナは流行の服を着こなし、母親に頼み込んで髪を綺麗に巻いている、クラス一お洒落な少女である。そして色恋沙汰には学校一と言われる情報網を張り、それをクラスの女子たちに教えてくれるのである。
「ええ! いつから?」教室に残っていた十数人の女子たちが色めき立った。
「あのねえ、この前の日曜日。かのんちゃんから告白したんだって。」
「ええ、すっごい!」
「洋平君とお似合い!」
「かのんちゃん、可愛いもんねえ。」
ミリアは教科書を手にしたままこっくりと頷く。たしかにかのんは小柄で華奢で、いつも頭にリボンを結んでいるのだ。ミリアもそれを大層羨ましいと思いながらも、まだリョウにリボンが欲しいとは言い出せずにいたのである。
「でもかのんちゃんさ、洋平君とはクラスも違うし、どうやって両想いになれたんだろう……。」アンナと最も親しくしているルリがそう言った。
「それなの。」アンナは心得顔に身を乗り出した。自ずと女子たちが彼女を囲む形となる。
「洋平君モテるしさ。狙ってる女の子いっぱいいたの。でも、どうしてあんまり仲良くなかったかのんちゃんと両想いになれたか、……わかる?」
女子たちは眉根を寄せて目配せしあった。
「……かのんちゃん、可愛いから?」ルりが言った。
「ううん。それもそうだけど、それだけじゃあないの。」
「ええ? 家近所だったっけ?」
「登下校は全然反対方向。」
「じゃあ、……ママ同士が友達とか?」
「違う違う。」
「ええー。……じゃ、何?」
アンナはにっこりと微笑んで、「お・ま・じ・な・い」と小声で呟いた。
「おまじない?」驚きの声が上がった。
ミリアは遂にぽかんと口を半開きにしたまま、アンナに見入った。
「そう、おまじない。」
「おまじないって、……どんなの?」そう初めて言葉を発したミリアの声は枯れていた。
「聞きたい?」くすり、と笑んでアンナはミリアを見据える。
ミリアは素直にこっくりと頷いた。
「あのね、こうやるの。」アンナはそう言って自分の机の中から自由帳を一冊取り出した。その一ページをびりびりと破き取る。その様子を何か尊い儀式のように女子たちが息を呑んで見つめる。
「白い紙に赤鉛筆で相合傘を書きます。そして好きな人の名前を右に、自分の名前を左に書きます。」
ごくり、とミリアは生唾を呑み込んだ。
アンナはすらすらと相合傘を書き、その右側にアンナお気に入りの男性アイドルの名前を、左側に大西杏奈と書いた。
やだー、と何人かがアンナの肩を叩きながら笑う。
「そうして一週間、自分の枕の下に敷いて眠るの。それだけ。でもね、その間、ママにも友達にも誰にも、おまじないやってることを知られちゃダメ。」
「えー。もし見られちゃったら?」女の子の一人が言った。
「叶わない。」残酷な言葉に、ミリアは思わず教科書を取り落しそうになり、はっと息を呑んだ。
「そうなの。このおまじないはたった一回しかできないの。誰にも知られないようにして、一週間ね。その間失敗したらそこでおしまい。」
ミリアはその厳格さに長い溜息を吐いた。
「ねえねえ。じゃ、かのんちゃんは一週間誰にも内緒にしてそれやったってこと?」
「そうだよ。だから洋平君と両想いになれたの。これはね、絶対叶うおまじないだよ。」
ミリアの目が厭に輝き始めたのを、その隣で一緒に帰る約束をしていた美桜が不安げにじっと見つめていた。ミリアが今何を考えているのか、美桜には手に取るようにわかったのである。
ミリアは美桜と二人、帰途を歩んだ。
「……ねえ、さっきかのんちゃんが言ってたおまじない、どう思う?」美桜はミリアが酷くそれに魅力を感じていることを知っていた。ミリアの希望は何であって叶えてあげたいと思ってはいたが、もし、おまじないが叶わなかったらと思うとその想像は恐ろしかった。その時のミリアが受けるであろう衝撃は絶対に想像を絶する。素直、といえば聞こえはいいが、思い込みの激しいところのあるミリアは、手のつけようがないくらいに大泣きするであろう。美桜はそれを思うと、友人として釘を刺しておきたい気になったのである。
「わかんない。ミリア、わかんない。」ミリアは下を向きながら、拗ねたような口をしてむきになって答える。
「私思うんだけどね、そういうのって本当に信じていいのかなって思うんだ。」
ミリアははっとなって、美桜を仰ぎ見る。
「そういうのより、たとえば友達に優しくしたりさ、勉強とかスポーツとか頑張ったり、おうちでお手伝い頑張ったり、そういうのの方が両想いになるのに大事なんじゃないかなって思うの。……おまじないが悪いって訳じゃないんだけど……。」
「……う、うん。」
ミリアは安易な方法にすがろうとした自分の心を見透かされていたのかと思い、今度は恥ずかし気に俯いた。
おまじないの話を聞いた時、まっさきに今日から実践しようと決意したのは事実だ。相合傘の相手は、無論リョウである。まさにアンナが教えてくれた内容は、ミリアにとってまさにタイムリーであった。
――昨今ミリアは一体リョウは自分のことをどう思っているのか、そこが知りたくてならなかったのである。自分は単なる妹で、バンドにおけるギタリストで、だから優しくしてくれているだけなのではないか。もし血の繋がりもなく、ギターも弾けなければ、リョウは自分のことを平気で突き放すのではないか。いつしかそんな疑念が浮上して以来、ミリアはそれに精神的に支配されているも同然で、何をしていてもリョウは自分のことをどう思っているのか、そればかりが気になって仕方が無かった。かのんのようにオシャレにリボンを結んでみたりしたら、リョウは可愛いと思ってくれるのだろうか。それとも、お淑やかに振る舞ったら、素敵だと思ってくれるのだろうか。そんなことを思いもした。しかしリョウはギターを上手に弾けたり、宿題をさっさと終わらせたり、はたまた家事を手伝ったり、テストでいい点を取ったりする以外にはほとんど、褒めてくれることはなかった。特に容貌に関してなんぞ、まるで口にしたことさえないのである。
自分はリョウから見て、可愛いのだろうか。わからない。けれど、可愛くなりたい。リョウに可愛いと思ってほしい。ミリアの胸中にはそればかりが渦巻いていった。でももしおまじないで両想いになることができたら、こんな心配はしなくてよくなる。だからアンナの言葉はまさに渡りに船、ということなのであった。
「でも好きな人と両想いになれたら嬉しいよね。私は好きな人とかいないけど……。」美桜は照れたように早口でまくしたてた。「ミリアちゃんは好きな人、いるの?」
ぎくり、としてミリアは足を止めた。ちりん、とランドセルの脇に付けた猫の形をした鈴が鳴る。その大仰な反応に思わず美桜は、「あ、あの、言いたくなかったら言わなくっていいからね。その、ただ何となく聞いただけだから……、」と戸惑いつつ言った。
そう言われるとミリアは悲しくなる。美桜との間に隠し事はしない筈であった。それは決して約束をしたということではないのだが、美桜はミリアがこちらに越してきてから六年間同じクラスで、始終家を行き来する仲であるし、リョウがツアーに出て行ってしまった時なんぞは一月も泊まらせて貰ったこともある。つまりは一番の親友なのだ。どうしたって隠し事はしたくなかった。
「……いる。」ミリアは俯いて言った。
「そうなんだ。」呆気なく美桜はそれを受け入れた。「いいよね。好きな人いると、毎日が楽しくなるよね。」
ミリアは再び押し黙った。決して楽しいばかりではないのである。そればかりか、苦しくて仕方がない。リョウが自分をどう思っているのか、ギターを弾いていても宿題をしていても、そればかりが気になって胸が苦しくなる。
「ミリアね、……リョウが好きなの。」
「ああ。」美桜は即答した。「そうだよね、知ってるよ。ミリアちゃんがずっとお兄ちゃんを好きなこと。毎年バレンタインだって、あげてるもんね。」
ミリアは再び歩き出そうとして、そして不意に視界が滲み出す。慌てて両手の甲で瞼を拭った。「リョウがミリアのことどう思ってんのか、……心配なの。」
それは言葉に出すと一層の悲しみと切なさの刃となってミリアを襲った。
「そんなこと……。」美桜は一瞬言葉を喪った。「ミリアちゃんのこと大好きに決まってるじゃん。だって一緒にバンドだってやってるし、その前だってお兄ちゃんがツアー行っちゃった時も毎日毎日電話くれて……。」
「でも、でも……。」ミリアは口籠りつつも言葉を探していく。「ミリアはただの妹で、ただのギター弾けるだけで、だから、それだけなんじゃないかなって、最近思うの。……可愛いとか、言ってくれたことないし。」それは悲痛な告白であった。「だから、さっきおまじないの話聞いて、……やってみたいなって、ちょっと、思った。」
「ごめんね。」美桜はミリアの真正面から向き合った。「ミリアちゃんはギターもお手伝いも頑張ってるし、おまじないだけに頼ってるっていう訳じゃないから、だから、その……」
ミリアは濡れたまつ毛の合間から、請うように美桜を見つめた。
「おまじない、やってみてもいいと思うよ。」美桜は囁くように言った。そう言う他なかった。
「……うん。」ミリアはほっと胸が軽くなるのを覚えた。
ばいばい、また明日、と言って美桜と別れた後、ミリアは自分の家へと戻った。リョウはいない。今日はレッスンで夕飯までには帰るから、と言われていた。ミリアは早速ランドセルを置いて自由帳をびり、と裂き、筆箱から赤鉛筆を取り出すとテーブルに向き合う。
深々と深呼吸を繰り返した。ぐい、と鉛筆を握り締める。教室で見たアンナが描いた相合傘を思い浮かべながら、丁寧にその通りに書いていく。
すぐに、紙いっぱいに描き切った。
そして再び深呼吸を繰り返すと、右側にリョウ、左側にミリア、と書いた。
ふう、と息を吐き切ると早速枕を除け、そっと紙を押し広げた。その上に枕を置く。ミリアは達成感と幸福感に満ち満ちながら、枕に頭を押し付けた。これであと一週間。一週間が経過すればリョウと両想いになれるのだ。ミリアは興奮のあまり「わあ。」と感嘆の声を漏らした。
「何かお前、機嫌いいな。いいことあったんか。」
その夜、帰宅したリョウが台所で料理をしながら、リビングで転がっているミリアに話し掛けた。
ギターの練習を一通り終えてからというものの、ミリアは歌を歌ったりふざけて床を転がってみたり、実に落ち着きがないのである。
「うん。あった!」ミリアは既におまじないが叶ったつもりになっている。
「何があったんだよ。教えてくれよ。」面白そうにリョウは言う。ミリアははたと真顔になると、そこに正座して「教えない。」と呟いた。
「何でだよ!」リョウは噴き出す。「んなもったいぶらず、言えって。」
「……言わない。」ミリアは遂にそっぽを向く。
リョウは包丁の手を止めて、「ま、まあ、お前も小学六年生だかんな。プ、プライバシーっつうもんはあるか……。一応。」と勝手に納得し、料理を進める。「……そんでやがて反抗期っつうやつが来て、生意気んなって、そんで男を連れてきて、結婚しますってなんのか。」リョウはぶつぶつと呟きながら大根を切る。
「あ、そうだ。」ミリアは飛び上がってリョウの所へやって来た。「あのね、今度、ここ、髪に飾るリボン、買ってもいい?」
リョウは目を丸くして、「んなのいちいち俺に言わなくたって、勝手に小遣いで買えばいいだろう。」と答える。「一応毎月くれてやってんだからよお。」
「うん! わかった。」ミリアは満面の笑みを浮かべて肯いた。おまじないが叶って、リボンを付けたら、きっとリョウは自分を可愛いと思うに違いない。そうするともう嬉しくて敵わず、ミリアは今度はベッドに突っ伏して足をばたつかせた。リョウは呆れつつも、どこか面白そうにその様を眺めていた。
一晩が過ぎた。ミリアは翌朝、目を覚ますや否や、枕の下にそっと手を伸ばした。そこには昨夜入れた紙切れがたしかに、あった。この調子で七日を過ぎれば、――リョウと両想いになれるのである。ミリアはくつくつと枕に顔を押し付けたまま笑った。
思いのほか、おまじないは容易である。リョウは他の母親たちとは違って、ずっと家にいる訳でもないのだし、ミリアのベッドを検分することもない。実際、リョウはミリアの枕の下なんぞ一切気にすることはなかったし、このまま容易に一週間が経つかに見えた。
そしていよいよ明日が一週間目となる、待望の日曜日がやってきた。学校が大好きなミリアも、今日の日だけは格別であった。隣の駅前まで、ミリアは美桜とリボンを買いに行く約束になっていたのである。そこはアンナが紹介してくれたいきつけの店であって、バレッタやピンも含め、様々なアクセサリーが安い値段で売っているとのことであった。私のこのリボンも、250円だったんだから。かのんちゃんが最近している白いリボンも、300円で売ってたよ。アンナは得意げに言った。
「いってきます。」ミリアは夏の日差しにキラキラと輝く水色の自転車に跨り、二階のベランダからミリアを見下ろしているリョウに元気いっぱい手を振った。リョウは午前中はレッスンに行くものの、昼過ぎには帰ってこられると言っていた。そうしたら買って来たリボンを見せてあげよう。ミリアはそう思えば嬉しくてならず、「ばいばーい」といっそう勢いよく自転車を漕ぎ出して行った。
さて、とリョウはミリアの姿がなくなるのを見届けると、一通り家事を済ませてしまおうと部屋に戻った。まずは朝食の食器洗いと、それから掃除機である。リョウはそれらを手順よく済ませると、ふと、外から入って来る陽光に目を細めた。朝からいい天気である。日中はさぞかし暑くなるであろう。洗濯と、それから布団も干してしまおう。リョウはそう思い立ち洗濯機をセットすると、ミリアのベッド脇に戻り、敷き布団を枕や掛布団ごと持ち上げた。そのままベランダへと運び手摺に干そうと一旦そこに載せる。外に出れば一層強い陽光の眩さに一瞬目を閉じる。だからその時、はらはらと一枚の紙が階下へと落ちて行ったのに、リョウは気付かなかった。そしてそのままミリアの隣に自分の布団を干すと、洗い終わった洗濯物を干し、そしてギターのレッスンへ向かうべく家を出た。
お目当ての店でさんざあれこれと悩み、ミリアが買ったのは水色のリボンと小さな貝殻を模したバレッタであった。久方ぶりにきっかりひと月分のお小遣いを使い切ったが、後悔はなかった。美桜に可愛いと褒められ、自分でも完全にその気になった。帰りに寄ったファストフードの店で美桜にリボンを結んで貰い、これで例の一週間を迎える今日、リョウに可愛いと褒めて貰えるかもしれないと期待感に胸を膨らませながらミリアは行きよりも更に勢いよく自転車を漕いで帰途に着いた。しかし美桜と別れ、自分のアパートの前に来た時、ミリアの一日上がりっぱなしだった口角は、否応なしに下がり、そして震え出した。そこには、自分の布団が干してあったのである。
ミリアは信じられない、とばかりに自転車を漕ぎ棄てて家の前でベランダを見上げた。見紛うまでもない。あれは自分の布団である。おまじないの紙はどこへ行ったろう。ミリアの心臓は突き刺されたように痛んだ。もう、枕の下にないことは明白である。第一、布団に枕が乗っていない。では一体どこに? ミリアの胸はふたたびどくん、と震えあがった。リョウは見たのだろうか。あの真っ赤な相合傘を。……おまじないの回数は一回きりだというのに……。自ずと呼吸が荒々しくなる。目の前が暗くなる。息を整えようと俯いた瞬間、ミリアは更に信じられないものを見た。そこに落ちていたのはリョウとミリアの相合傘の書かれた、あの、おまじないの紙であった。ミリアは「わあ!」と叫んで慌てて紙を拾い上げた。
いよいよこれで、おまじないは終わってしまった。叶わない。せっかくアンナに教えて貰ったのに。絶対に叶えられるおまじないであったのに。ミリアの頬に涙が流れ出す。一体どうしてリョウは布団を干してしまったのか。否、今までだって天気のいい日は干してくれていた。「今日は太陽の匂いがする」、なんて言ってリョウに感謝をしたことも、数え切れないぐらいにあった。普段は嬉しがってることを今日ばかり責めたてることなんぞ、できやしない。もう、リョウと自分は、そもそも両想いになれない間柄だったのだ。そうだ。何せ「兄妹」なのだから。
ミリアは紙を額に押し当てたまま、今度は耐えきれず、声を上げて泣いた。もう額に綺麗に結ばれたリボンも解けかかっている。しかもそんなことは、全く気になりやしない。リボンなんていらなかったのだ。リョウと両想いになれないのだから。
しばらくするとそこに聴き慣れたバイクの音が近づいてくる。ミリアははっとなって顔を上げた。
アパートへの角を曲がって来たのは、リョウだった。リョウはミリアの目の前にバイクを停めてヘルメットを脱ぐと、「おお、こんな所で何してんだ。」と笑顔で宣った。
しかしミリアの顔がどう見ても真っ赤に泣きはらしたそれであることに気づくと、「どうした。」と慌ててミリアの元に駆け寄り、肩を揺さ振った。「何だ、どいつだ、いじめられたんか。」
ミリアは慌てて首を横に振る。
「じゃあ何だ、どっかのどいつに手でも出されたんか。」
再び首を横に振った。
「じゃ、……どうしたんだよ。」
ミリアは何でもない、と言いたかった。リョウには関係ないことだから、と言いたかった。でもそうとはどうしても言い出せなかった。苦しみは、悲しみは、あまりにも大きかった。一人では抱えきれぬぐらいに、甚大であった。
その時俯いたミリアの手の中に一枚の紙が握られているのをリョウは発見した。
「何だそりゃ。」
リョウはさっとミリアの手からその紙を奪い取る。
「やめてー!」ミリアは咄嗟に飛び上がり、リョウの胸をやたらめったらぶっ叩いた。
「なあんだ。元気じゃねえか。」リョウは面白そうに紙をひら、ひら、とミリアの前に翻してみせる。
「やめてー! 大事なの! 見ちゃダメ! 絶対本当にダメ!」あまりにも真剣なのでリョウはミリアにそれを掴ませた。
ミリアは引っ手繰ると、再びそれを大事そうに胸の前で握り締めた。
「わかったからさ、さっさと自転車立てて部屋戻るぞ。」
ミリアは渋々自転車のスタンドを立てると、リョウの後を追った。
リョウは家に就くなり、冷蔵庫から水を取り出しペットボトルのまま呷った。ミリアはその様を恨めしく見上げている。
「何だ。お前も何か飲むか。」
ミリアは再び首を横に振る。
リョウはミリアも気難しくなったなあ、そうか、もうあと数ヶ月で中学生か、などと考えている。中学生というのはとりわけ気難しい年齢だというのは、一般論としてもよく聞くところであるし、自分の過去を振り買ってもそれは明らかであった。ミリアもそういう年齢に足を踏み込んでいるのだと思えば、どこか嬉しくもあり、リョウはほくそ笑んだ。しかし子どもだったあの時、自分はどうして施設の職員にあそこまで盾突いたであろう。リョウはそんなことをふと思った。施設の職員たちは何かにつけ自分に良くしてくれたはずだのに、よくもあれだけ暴れたり逃げたりを繰り返したものである。あげくの果てにはあの麻疹のような反抗期とやらは自分にとって余程重症であったらしく、なんと高校まで継続し、礼の一つも言わぬまま施設を飛び出し、上京してしまったのである。さてはて、あの人たちは今頃どうしているであろう。あの時は大変お世話になりました。今やどういう因果か、義理の妹の面倒を見ながら細々と暮らしています、とリョウは何だかわからぬがしみじみとした心持になった。
ミリアは相変わらず拗ねた顔してリョウを睨んでいる。リョウは溜め息を吐いてギターを取り出し、ソファに座り込む。いつもの運指から始まり、新曲の練習に入る。
ミリアは暫くその様をじっと見つめていたが、やがてしくしくと声を殺して泣き出した。リョウはそれに気づきながらも、ミリアが何かしら言い出すのを待っている。
「……リョウ。」
ミリアは震える泣き声でそう言った。リョウは待っていたとばかりに指を止める。
「一体どうしたっつうんだよ。……まあ、ここに座んな。」
リョウは手を引っ張り、ミリアを自分の隣に座らせる。ミリアはひくひくと鼻を鳴らしながら大人しくリョウの隣に座った。
「せっかくこんないい天気だっつうのによお、それにせっかく美桜ちゃんとお出かけも行ったんじゃあねえか。これ、買ったんか。んないいリボンまで付けてんのに、なあにいつまでもぐずぐず泣いてやがんだよ。」
ミリアはこっくりと大きく肯き、震える手で既に皴皴になった紙を見せた。それは滲んでいたが、よく見れば相合傘を中心としてその両脇にリョウとミリアの名があった。
リョウは珍し気にそれを凝視する。「こりゃ何だあ、落書きか?」
「……おまじない。」
「おまじない?」
ミリアは小さく肯く。
「この紙が、……お、おまじないなんか?」リョウには全く意味がわからない。
「この紙に書いて、枕の下に入れて寝るの。……一週間。」
「あ。」リョウはようやく合点がいった。「一週間、布団干しちゃいけなかったんか。なんだよ、じゃあそう言えよ!」
ミリアの唇が震える。「……誰にも、知られちゃいけなくて、それで、一週間なの。」
「そうか。悪かったな……。」無論おまじないなぞ、信じてもいなければわけのわからぬ以外の何物でもなかったけれど。
「……リョウは、悪くない。」
そう苦渋の表情で言ったミリアを見ながら、リョウはさてどうしたものかと頭を抱える。「で、……一週間経つと、どうなんだ。何が起きんだ。」
ミリアは今更かとばかりにリョウを睨んだ。
「何だよ。」
ミリアはそっぽを向いて「……両想い、なれる。」とぷつんと呟くように言った。
「両想いだあ?」
ミリアは遂に顔を顰めて、リョウの胸に拳を叩きつけた。「だって、だって、リョウはどうせミリアが妹だから優しくしてくれんでしょうよ! ギター弾けるから優しくしてくれるんでしょうよ! どうせミリアの片思いなんでしょうよ!」
咄嗟に、そりゃそうだ、赤の他人の面倒を率先して面倒を見る程人間出来上がってはいない、とリョウは思った。しかしミリアの大きな双眸からは見事なまでに球体した涙がぽろぽろと幾つも流れ落ちてくる。リョウはよくぞこんなに真ん丸な涙が作れるものだと、暫くそれを感嘆するように見つめた。
「……お前、俺に片思いしてんのか。」問いかけてみると、それは酷く珍妙な質問になった。
しかしミリアは真っ赤な目をひたとリョウに向けながら、生真面目に「うん。」と頷く。リョウは一体こいつは何を言っているのだと一瞬呆気に取られたものの、すぐにさてどうしたものかと思い悩む。ミリアは母親に見捨てられ、父親には暴力を受け育った。普通の子供がふんだんに与えられる愛に、飢えているのである。この上自分がミリアの片思いとやらを拒絶したら、涙が出過ぎて干からびてしまうかもしれない。
咄嗟に、「あーはっははは!」リョウは努めて腹の底から笑い出した。
突然の哄笑に、ミリアは恐懼と憎悪を籠めて再びリョウを見た。
「お前はマジでおバカなお嬢ちゃんでいやがんなあ! 俺がお前を好きじゃねえ訳ねえだろが! 妹だろうが弟だろうが、何者だろうが、お前を大好きに決まってんだろう!」
「……ほ、本当に?」ミリアの声は震えていた。
「ったりめえだ! てめえがギターなんざ弾けようが弾けまいが、まあ、弾けた方がいいっちゃいいし、そうだな……もしお前がいなくなったら、また次探すしかねえのか。ううむ、そんなこと急に言われて難しいよなあ。そうそうお前並に弾ける奴は見っかるモンじゃねえしなあ。やっぱお前ぇじゃねえと……」リョウは妙な思想に逢着し、ふと、考え込む。いけないいけないと慌てて頭を振り、「まあ、とにかくだ!」リョウは声を張り上げた。「俺はお前が大好きだかんな! おまじないなんて端っからいらねえんだよ!」
ミリアの唇が震え出す。「……ほ、本当に?」
「本当に決まってんだろ。バカめ!」
リョウがそう言って鼻腔を膨らませると、ミリアは感極まって満身を震えさせ、リョウの首に両腕を回し抱き付いた。
「あっははは! ったく、なあにがおまじないだ! んなモンなくたって構やしねえだろうよ!」
「そうだったのね!」ミリアは歓喜の声を上げる。
リョウはぐい、とミリアを抱き上げた。ミリアの目からはもう真ん丸涙は零れてはいない。綺麗さっぱり泣き止んだ。俺は子どもをあやす才能がある。リョウはそう思って得意である。一方ミリアは、天にも昇る気持ちである。あんなに悲願であった両思い、になれたのである。
「ミリアは両想いなのね! リョウと両想い!」
「そうだ。俺はリョウだかんな。」
辻褄の合わないような気がするものの、最早どうでもよかった。ミリアはおまじないの紙をひらひらとさせてから、ぽいと放った。もうリョウと一生一緒にいるのだ。自分はリョウに愛されているのだ。何も怖いものはない。
「ねえ、このリボン可愛い?」
「ああ、可愛い可愛い。可愛いからミリアは将来、モデルになれるぞ。」
「きゃあ!」ミリアは甲高く叫んだ。モデルか。それは悪くない選択であるように思われた。ステージでかっこよく歩くのだ。そしてきっとその先にはリョウが待っていてくれるはずだ。「じゃあね、ミリア、モデルになろうっと。そしたら、そしたら……。」リョウと結婚しよう。それしかない。ミリアはそう勝手に決意を固めると、衝動的に抱き上げられた先にある、リョウの頭のてっぺんに小さく口づけをした。「なんだ、くすぐってえな!」真っ赤な髪はミリアの高揚そのものを体現していた。




