【191】はじめてのレター編⑧ 〜後始末〜
──ブク……ブク……。
洞窟の外では、まだ沼が小さく呼吸している。
毒の泡が弾けるたび、黒紫の霧がふわりと漂い、風のないはずの空間でわずかに揺れた。
だが、もう蛙の鳴き声はない。
あれほど支配していた不気味な合唱も、いまはただ、静寂の中に溶けている。
その沼のほとりに──懐かしい象獣の姿があった。
「レディオ!」
アーシスは駆け寄り、長い鼻を撫でた。
「はは、久しぶりだなっ」
「…………ガブッ」
「いてっ!」
レディオは無表情のまま、がぶりとアーシスの手を噛んだ。
「なにすんだよぉ!」
「ははっ、そいつなりの挨拶だ。気にするな」
クラウディスの笑い声がこぼれる。
「気にするなっつっても……こいつめ」
文句を言いながらも、アーシスはポーチからリンゴを取り出し、ぽいっと放った。
鼻で器用にキャッチしたレディオは、嬉しそうに口に運ぶ。
その穏やかな一幕を見届け、クラウディスが短く息をつく。
「……さて、やるか。アーシス、お前もそこで剣を構えてろ」
「えっ」
◇ ◇ ◇
クラウディス、DD、アーシスは沼を三角形で囲むように立ち、それぞれの剣を構えた。
「にゃんぴん、頼む!」
DDが叫ぶと、沼の中央に浮かぶにゃんぴんの毛がピリピリと逆立ちはじめる。
「いくにゃ!」
にゃんぴんの掛け声とともに、空中に巨大な魔法陣が展開した。
幾重にも回転しながら、淡い光の紋が波紋のように広がる。
──すると、沼の泥がざわりと動いた。
どす黒い泡が次々と浮かび上がり、魔法陣に吸い寄せられる。
その瞬間、泥は光に触れて蒸気のように霧散した。
「……おお!」
「……っ」
アーシスが息を呑む。隣でナーベも目を見張っていた。
「来るぞ!!」
クラウディスの叫びが響いた直後、
──ズバァァァァッ!
沼の中から、巨大な黒いアメーバが噴き出した。
「なっ!?」
アーシスの背に冷や汗が走る。
沼全体を覆うほどの巨大な滑り。
半透明の粘膜の内側で、無数の星屑のような光が渦巻いている。
──それはまるで、宇宙の欠片が生き物の形を取ったかのようだった。
「今だ、斬れ!!」
クラスディスの声が響く。
アーシスはハッと我に返り、即座に剣を握る。
宇宙に複数の光の線。
──三方向からの斬撃が、音より速く闇を切り裂いた。
アメーバは細かく切り刻まれ、悲鳴を上げるように震えながら魔法陣に吸い込まれていく。
黒い靄は薄まり、最後には静かに霧散して消えていった。
「レディオ、聖水!」
「パオォォォォン!!」
クラウディスの合図で、レディオは鼻から聖水を吹き出す。その雫はシャワーのように沼全体へと降り注いだ。
──シュウゥゥゥゥゥ……。
黒紫の沼が、音を立てて白い煙を上げる。
次第に毒が抜け、濁った色が透き通る緑へと変わっていった。
風がそよぎ、草木がざわめく。
澄んだ水面の片隅で、小さな蛙がぴょん、と跳ねた。
生まれ変わった沼に、やっと“命の音”が戻る。
「さすがだね、にゃんぴん」
DDが微笑むと、にゃんぴんは胸を張って「にゃふっ!」とポーズを決めた。
その姿を、遠くからナーベが見つめていた。
「やれやれ、なかなかのデカブツだったな。……この前のダンジョンといい、お前、呪われてんじゃねぇのか?」
剣を収めながら、クラウディスはアーシスをからかう。
「いやいや、今回は先生が呼んだんじゃん!」
反論するアーシスを無視して、クラウディスはミックスジュースをすする。
「まー何にせよ、今回のミッションはおしまいだ。ご苦労さん、気をつけて帰れよ」
◇ ◇ ◇
パッカ、パッカ……。
木漏れ日の下を馬車が進む。
ヤトソ山脈のふもと、緑が戻った風景を背に、二人は街道を下っていた。
「戻ってきたなー!」
アーシスが両手を伸ばして深呼吸する。
「ナーベ、疲れてないか?」
「はい……昨日はよく、眠れたので」
「はは、寝言言ってたぞ!」
「えっ!?」
「なんちゃって、じょーだん。俺の方が早く寝ちゃったし」
「も、もう……」
ナーベは頬を膨らませる。
アーシスは笑いながら、来た道とは違う方を指さした。
「それじゃ、もうちょっと付き合ってくれ。次は──ニメタス村だ!」
馬車の車輪がリズムを刻む。
澄み渡る空の下、二人の影が揺れながら遠ざかっていった。
(つづく)




